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2007年8月18日 (土)

一撃のアサッテは本当に実存を勝ち得たか?(「諏訪哲史・ロングインタビュー」文學界9月)

 今月の文學界と群像に新芥川賞作家・諏訪哲史氏のインタビューが載っている。どちらも読んでみた。文學界は作品論、群像は大学時代の恩師との対談という体裁である。両方の話を要約するとこんな感じ。

大学時代、独文学者種村季弘に出会い、薫陶を受ける。澁澤龍彦やダダイズム、シュルレアリズムにハマる。卒業後、就職するが、文学への夢を捨てきれず会社をやめ、2年間ひきこもり、「アサッテの人」を書き上げる。諏訪氏28歳の時。新人賞を獲りたい、というより師・種村氏を納得させたい一心だった。某文学賞にも応募したが落選した。その後、再就職と父の看病のため文学からは離れていた。昨年、高校時代の恩師に同窓会で会い、「小説を書いているか?」と言われ、「アサッテの人」を書き直す決意をする。今年、「アサッテの人」が群像新人賞、芥川賞をW受賞する。

 作品論……アサッテというのはただの異常言語ではなく、紋切り型、定型化された社会に対し、亀裂を生じさせるもの、個人的な営為であり生きている実感、実存を勝ち得るための装置である。アサッテとは個人的営為であり、実存を勝ち得る手段であり、生きているという実感を得る手段である。対人、対社会といった対立構造に立脚していない自分を救うための営為である。アサッテにより叔父は一瞬の実存を勝ち得る。

 要するに「アサッテの人」はダダイズムとかシュルレアリズムといったアカデミックな素養に裏打ちされており、種村氏や澁澤氏から吸収したエスキースが詰まった、そこらの思いつきで書いたような新人小説じゃないのだよ~と言っている。

 もし、諏訪氏がパブリックエネミーやNWAのようなラッパーならこんな自己紹介するだろう。YO!オレを知ってんのか? そこらのFake Assとはワケが違う。定型や紋切り型の表現で満足してるワックな作家と一緒にすんな志が違うアサッテはギャグじゃねえ腐った定型の社会に平定される前に一撃を食らわす爆弾、生きている実感を得るための呪文、まるで梶井基次郎の檸檬、標語みたいな言葉ばっかりの社会に従属してちゃダメだぜリアルなアサッテ言葉さがせよヘイヨ~といったところか。

ナルホドね。久々にリアルでドープな新人がでてきたな、というのは認めよう。ところで文學界のほうのインタビューでこんな発言があるんです。

編集者「作品の中に、歌謡曲の歌詞の「夢を信じて」「ピュアなハート」といった凡庸な言い回しに叔父が辟易する、という記述があります。あれは作者である諏訪さん自身のことでもあるのでしょうか。

諏訪氏「私ですね。そのままです。かつてSPEEDが歌ってた曲はほとんどああいう紋きり調の歌詞ですね。それから最近のラップをやっている連中も最前線みたいに格好つけていても言っていることはかなりの定型に陥っている気がしますね。どうしてあれは語尾に韻を踏ませなきゃいけないのかな、と思います。「なにかしないと、エブリナイト」みたいな。辟易どころではなくて、虫酸が走る、といいたいところです」

編集「ここ十年ぐらいでしょうか。若者がそういう言葉に抵抗がなくなっているのかもしれませんね。

諏訪氏「今の若者は、完全に定型に取り込まれることに居心地のよさをかんじているのでしょうか。世界の抑圧に対して素直すぎる、従順すぎる、という気がしますね。

 SPEEDのような歌謡グループの歌詞が凡庸なのは当たり前なのである。可愛らしい女の子たちが歌ったり踊ったりするのに、頭脳警察のような歌詞を歌ってもファンが喜ぶだろうか。

「…赤軍兵士よ、銃を取れ、我々はスパルタクス・ブントやられる前にやってやるさ前衛劇団モータープール」

こんな歌詞をアイドルが歌うか。歌謡曲というものは定型的で凡庸で紋切り型なのだ。もう意味不明なくらいに。「せつなさをだきしめて~」といったような。最早ナニいってんのかわからないですよね。そして諏訪氏は現在の日本語ラップにも言及しており定型に陥っていると指摘している。

 現在ある日本語ラップはすでに20年近い歴史があり、特に90年代半ばからさまざまに言語的実験が行われてきた世界である。日本語ラップが成熟するにつれ、形骸化し、定型が生まれ、アイドル歌謡などの商業音楽に取り込まれる現象も2000年代以降には起こっている。例えば「腐った東京の状況、オレら登場、堂々とした態度で暴走…」といったような。あるいは「人生は冒険、日々挑戦、永遠の少年…」といったような手垢のついた定型が存在するのも事実だ。しかし、このような手垢のついた表現はラップの本場アメリカにも存在しており、(例、~Night、~Fight、~Delightとか~ly,~lyと形容詞で韻を踏む)こういったライムをアチラではbabyrapとかkinderrapといって軽蔑するのだ。

 諏訪氏がどういうグループのどんな楽曲を聴いて「日本語ラップは虫酸が走るほど程度が低い」と感じられたのかはこのインタビューではわからない。もしオレンジレンジのような、あるいはジャニーズの嵐とかをテレビなどで見かけて、そう発言されたのなら完全な誤りである。ナゼならオレンジレンジや嵐は、ヒップホップ文化を背景にした本来の意味での日本語ラップのグループではないからだ。例えていえば、普段小説を読まない人が美嘉の「恋空」を読んで、「文学ってレベル低っ」と言っているようなものなのだ。

 文句ばっか言ってるのもアレだしこのブログはそこらの書評ブログと違う、建設的な意見を述べるメディアと自負しているので、諏訪氏の疑問にできる限り答えてみたい。

「ナゼ、日本語ラップは語尾で韻を踏むのか」

実は、現在の意識的なラッパーは語尾で韻を踏むことを避けている。それに、黎明期の(80年代)のラップを除いて日本語ラップは文章の語尾で韻をふんではいない。主に小節の4拍目で響きの近い言葉をスネアの位置に合わせるようにする。これが一般的なライム(韻)である。もちろん夥しい例外が存在する。おそらく、諏訪氏のいう「語尾の韻」というのはこういうものだろう。

例…Hookを終えて再登場 ジブラザイルスキル最高峰 だすモンすべてマジで大好評 フローまで戴く大強盗 仲間連れて今日も大騒動 誰かが流すウソの怪情報 やっかみねたみひがみI Don't Know だがそれが活性化させるライム工場 ライムノートすぐ手に取り 攻め込むぜあのクソボケのテリトリー サッと適当にトランクねじ込み さらって帰る俺らの根城に(DJ Oasis featuring ZEEBRA「地下から…」)

再登場 最高峰 大好評 大強盗 大騒動 怪情報 I Don't Know ライム工場 これらがいわゆる韻である。この場合ai-o-o-という響きのaiの部分がすべて小節の3拍目の頭に合わせている。このような一般的なライミングを脚韻という。だが「ライムノート」という言葉は突然小節の1拍目に現れる。単調になるのを避けるためだ。これを頭韻という。特に「ライムノート」のように同じ響きで脚韻と頭韻を続けることを返り韻という。

こういったライミングは世間一般によく知られる「日本語ラップ」の典型的な形であろう。だがこの作品は8年前のものであり、今聴くと昔のラップという感じがする。

黎明期のラップはそもそも文節で韻をふむことはなかった。せいぜい文末の一語をのばしてライムのように聞こえさせる、という手法だった(例…ライムー、クラブーといったような)。それが90年代半ばからマイクロフォンペイジャーやキングギドラ、ライムスターといった新世代のグループによって、文節、単語単位で韻を踏むスタイルが生まれた。だが2007年現在それらも過去のスタイルとして形骸化してしまっている。2000年前後から言語実験としてのラップ、言葉の意味より音に特化した抽象的なスタイルのラップというものが登場し始める。その実験的な手法で最初に成功を収めたのはTWIGYだろう。(明日に続く)

チナミに明日はTWIGYのリリックはもしやアサッテの言語だったのではないか、「意味」や「社会性」「共鳴」といった約束事から解放した、自由な言葉の羅列があったのではないか。ひいては「アサッテの人」より「日本語ラップ」は先を走っていたのではないか。TWIGYの誰からも「意味の理解」を求めない抽象的な歌詞は「アサッテの人」以上にアサッテ的だったのではないか? といったようなことを検証していきたいと思います。

キーワードは「転送無差別地球内放送」です。あるいは

「都市転々するステイタスを粉々」

こりゃかなりのアサッテかも知れないですよ。

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