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ポストモダンという罠(高橋源一郎vs田中和生「評論家に小説が読めてたまるか論争」について)Part.1

 かつて小田和正がどっかの音楽誌のインタビューで言ってたことを思い出した。

「どうして音楽にはイチイチ評論などといったもたいぶったものが必要なのだろう。少なくとも僕は自分と同程度の音楽の創作能力が認められる人にしかどうこう言われたくないね」

これは高橋源一郎もビックリの暴論である。小田和正といえば60歳を目前にしても、シングルをオリコン一位に叩き込むヒットメーカーというより怪物である。未だ衰えるどころかますます艶を増していくあの声、37年というポピュラーミュージック界において最早井上陽水ぐらいしか比肩しうる存在がいない巨人に向かって「オレ、アナタと同程度の音楽の創作力があるんで言わしていただきますけど、オタクの音楽、アンマリだね」などと言える人間が果たして国内にいるか? ま、若い頃にサンザン音楽評論家を名乗る人間にイロイロ言われたんでしょうな。軟弱だの問題意識がないだの。で、すっかり評論家嫌いになってしまったというワケだ。だって、評論家ウケする音楽って大体極端に暗いフォーク(三上寛とか山崎ハコとか)か洋楽ソックリなバンドか(サディスティックミカバンドとかYMOとか)ですからね。70年代、80年代っつったら。そこで仮想敵にされやすいのがオフコースだったりチューリップだったりしたのでしょう。音楽好きという生き物は「音楽を聞く」というその行為に自己のアイデンティティとか自意識の根拠みたいなものを求めガチなのです。すると、チューリップが好き、とは口が裂けても言えない。「ヤッパはっぴいえんどだよね」とか言わなきゃいけなくなる。更に時間が経つと「逆にオフコースやチューリップ、アリ!」とか倒錯した価値観が生まれたりするのもこの手の生き物の特徴なのだ。こういうアングラこそ本物、みたいな単純思考に音楽の説得力だけで小田氏は対抗してきたのだろう。だから小田氏の「オレ、評論家キライ」論には一定の説得力がある。

 現代のポピュラーミュージックにおいてもこういう物言いは変わらずある。例えばGAKU-MCというラッパーがいる。楽曲のよさ、声のよさ、ともにレベルが高く大変才能のあるミュージシャンである。だが、長年日本語ラップのシーンにおいて仮想敵とされてきた人でもある。大ヒット曲EAST END×YURI「DA.YO.NE」によって一発屋のイメージとアイドルとの共演という商業主義的な売り出し方が一般に浸透してしまい、本来あるべき日本語ラップのイメージが歪められた、と感じたリスナーが多かったためだ。実際、「DA.YO.NE」はヒット曲として消費はされたが「ヒップホップ文化の拡大」には貢献しなかったため、仮想敵とされてしまった。しかし、現在、ソロラッパーとして活動を続けているGAKU-MCの音楽は「DA.YO.NE」からは遠く離れ、高度な次元で独自の日本語ラップを開拓している。そうしたGAKU-MCの音楽を伝えるメディアはあまり多くない。それほど、この国では音楽に関しては「最初の一歩」が異常に重んじられ、後々まで足かせとなるのだ。80年代には河合奈保子というアイドル歌手がいた。彼女は実は作詞・作曲・演奏もこなすマルチな才能をもったシンガーソングライターだったのだがやっぱり最初のアイドル的な印象が足かせとなり、そういったスタンスを殆んど世間に知られることはなかった。

で、こっからが本題なんですが、一体、この国の音楽雑誌とか音楽評論といったメディアは本当に正しくポピュラーミュージックを論じて来たのか。渡辺美里はロックの側で、河合奈保子はアイドルポップ、という分け方でナンの問題もナシ、といういうのはあまりに場当たり的ではなかったか? 実力のないバンドをインディーズというだけで過大評価されたことはないか? そう考えると音楽シーンというものがいかにイメージ先行で雰囲気で語られガチな世界であることがわかる。現在のCD不況はちゃんと客の耳を育ててこれなかったメディアの側にも問題がある。ワタシは思うのだ。「もしも、レコード会社とか事務所の絡みとかバーターとか力関係とか全く関係のない音楽評論の場、というものがあったら、もう少し日本のポピュラーミュージックは豊かなものになっていたのではないか? その人の出自関係ナシに音楽のみで評論する場、というものがあったら埋もれるべきではないミュージシャンを救済することもできたのではないか?」と。つまり、評論とは本来そういう役割も担うものなのだ。ポピュラーミュージックの世界ではナゼか文学における芥川賞のような映画界におけるカンヌやアカデミー賞に該当する賞がない。すべてセールスで価値判断されてしまう世界だ。それはとっても危険なことなのだ。例えば綿矢りさという人は大変に才能と将来性のある作家である。それは認める。だが、「蹴りたい背中」の売れ方はやはり異常なのだ。同程度の才能と可能性を秘めた新人の純文学作家はまだまだいる。今の文芸評論のシーンではそういった作家たちを正しく紹介することができていない。また、異常な注目の集め方をされたことによって綿矢氏の今後の作家としての方向性に影響を与えるかもしれない。例えば綿矢氏はインタビュー等で「自分は純文学の王道であり、ベタを目指す」といった発言をしているが、いかがなものかと思うのだ。綿矢氏の資質というのがその「ベタ」に向いていないと思うからだ。どう考えても彼女は傍流の人であろう。

 てなコトをツラツラ考えてたら眠たくなってきました。高橋源一郎vs田中和生論争について今日は全然踏み込めませんでした。明日は「小説と評論は本来どういう関係にあるべきなのか」という話をちゃんとしよう。因みに高橋vs田中論争の顛末について簡単に説明しますとまず、2006年冬号の「文藝」誌上にて高橋源一郎と保坂和志の対談上で「小説は小説家にしかわからない、評論家にはわからない」と主張する。そこに評論家の田中氏が文學界6月号で「それどうよ?」とカミついた。さらにそれについて文學界8月号に高橋氏が連載中の「ニッポンの小説」上で反論、この流れに対し、2年前、群像評論部門でデビューした水牛健太郎氏も群像9月号で「実践と批評」と題して評論。これらの流れを受ける形で文學界10月号で田中氏が「ポストモダンを超えてー高橋源一郎氏に答える」と題し、さらに高橋氏に反論、というもの。現在の文芸評論シーンにおいてこれだけ小説家と評論家がガチで論争になるのも珍しいですし、もうちょっと引っ張ったら面白いのに、と思います。つーか、若手評論家もっと年寄りの挑発にノればいいのに、石川忠司とか。あしたは「本当に評論家は小説が読めていないのか?」について。

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