インチキ20世紀文学講座その②(磯崎憲一郎「肝心の子供」文藝冬号)
司会者「インチキ20世紀文学講座の時間です。特別講師に西中島南方産業大教授、kenzee教授をお招きしてお送りしてまいります」
kenzee教授「あ~kenzeeです。文藝賞受賞作「肝心の子供」を読み解きつつ、20世紀文学とはなんだったのか? これについて皆さんと一緒に勉強しましょう。エ、前回は「肝心の子供」の梗概、そしてこの小説が20世紀文学のさまざまな手法、方法論を吸収して書かれた作品だ、と述べました。キミイ、この小説の作者はどういう人物なのかね?」
司会者「プロフィールでは、「42歳、千葉出身。東京都在住。早稲田大学商学部卒。現在、会社員。とあります。やはり作家を輩出しまくってる早大出身でしたね。ところでkenzee教授の西中島南方産業大って偏差値ナンボくらいなんですか?」
kenzee教授「32」
司会者「ありえない数字ですよ、ソレ。ヘタすりゃ名前だけ書きゃ入れる世界ですよ」
kenzee教授「一芸入試が多いかなあ。ウチの場合」
司会者「フツーに受験した方が早いだろう! なんスか! 一芸って!」
kenzee教授「だいたいモノマネが多いかな? ワタシはユーミンさんとか怒ったときの大島渚のモノマネができるがね。ところで、キミはこの磯崎氏の写真にちゃんと着目したのかね?」
司会者「ええ、フツーのオッサンじゃないですか。これがどうかしたんですか?」
kenzee教授「キミの目はフシ穴かね。彼はジャケットの下にウッドストックのTシャツを着ているだろう」
司会者「エエ、Woodstock Festivalの文字が見えます」
kenzee教授「そして受賞の言葉のなかでロック史について語っているだろう? 68年から72年頃にはジャンルとして完成している、とそれ以降はオマケみたいなものだと」
司会者「そこまで言ってないですよ!」
kenzee教授「で、ウッドストックときたモンだよ。つまり彼は音楽的にはベタベタな趣味なのさ。恐らく愛読誌はミュージックマガジンではなくレココレ。作品の理屈っぽさからいってブリティッシュロック趣味。フーだのスモールフェイセスだのヤードバーズだのゾンビーズだのキンクスなどを好むインテリロックオヤジなのさ」
司会者「別にイイじゃないですか! 音楽の趣味はどうでも」
kenzee教授「ところで次のページの丹下健太氏のTシャツもバンドTシャツっぽいんだよなあ。ポストロック系ぽいんだけど」
司会者「トータスとかダフトパンクとかあの辺ですかね」
kenzee教授「多分そんな感じだと思うんだけど。今、その辺詳しいヤツと連絡とれなくてわかんないんだ。ま、Tシャツひとつとっても世代の違いがでとるね。今回の文藝賞」
司会者「まあTシャツの話は置いといて「肝心の子供」の解説をお願いしますよ」
kenzee教授「しゃーおらー!(亀田父のマネ)まず、磯崎氏も受賞の言葉で述べているように小説というジャンルが完成したのは1920年代だと、彼は言っておる。これは注釈を加えるならそれは主にリアリズムの手法で、またヒューマニズムに根ざした世界を構築していく近代小説のスタイルのことだ。このスタイルは19世紀のロシア文学、ドストエフスキーとトルストイによって頂点を迎えた。「リアリズム」という手法に限っていえばこの二人を越える者は未だでてきていない。20世紀文学はこの「越えられない壁」にブチ当たるところから始まるんだ。で、リアリズムの手法ではもう文学は発展しない、新しい方法論が必要だ、と20世紀の文学者たちは考えた。そこでさまざまな実験がおこなわれたんだ」
司会者「あ、マジメに文学の話してる」
kenzee教授「その過程で例えばカフカの「変身」に見られるアンチリアル、サルトルの「嘔吐」のようなヌーヴォーロマン、アンチロマンといった「実存」という哲学的テーマをそっくり小説化した哲学小説が生まれた。そうした文学的実験のなかで「神話的手法」や「構造主義」という考え方がでてくる。「神話的手法」の代表作といえばガルシア=マルケスの「百年の孤独」だが、そもそも「神話的手法」ってナニ?って話ですよ」
司会者「フムフム」
kenzee教授「レヴィ=ストロースという人類学者がおった。彼は南米の人々交流を持った。そして彼らの「婚姻規制」のなかに「構造」を発見するんだ。昔の将軍家なんかでもそうなんだけど○○家の跡継ぎは必ず××家からヨメをもらう、という代々伝わるしきたりがあるんだ。(逆のパターンもある)こうすることによって○○家と××家は未来永劫親密になる。堅牢な大家族ができあがるのだ。早い話がこうして集団としての結束を強めることで外敵から身を守る、という機能が婚姻規制にはある、という「構造」をレヴィ=ストロースは発見した。さらに、レヴィ=ストロースは神話にも似たような「構造」があると発見したんだ。まず、神話は体系というものを持っていて、天地創造から始まって何世代にもわたる物語が積み重ねられていく。でも、そのエピソードにはパターンがあるということがわかったんだ。例えば「父と子の対立」とか「呪いによる悲劇」とか「不倫から生じた複雑な関係」とかおんなじような話ばっかりでてくる。ギリシャ神話だろうが仏教説話だろうがインディアンの神話だろうが、関係ナシ。ナゼか? 神話というのは何百年、何千年という時間の試練に耐えて洗練されてきたもので、その背後には流行らなくなって淘汰された話が何万とあるだろう。そして「大衆にウケる要素」を備えた話だけが生き残った。今のハリウッド映画の脚本家などはまず、このレヴィ=ストロースの発見した神話の「構造」を徹底的に頭に叩き込むんだ。だって大衆にウケる要素の基本中の基本だから。そこに現代的なフレーバーを足して、量産する。モチロン、まったくそんなやり方カンケーなしでタランティーノみたいに大成功収めるヤツもいるけどね。「スター・ウォーズ」なんかは構造だけでできているといっていい。この「神話」の構造を取り入れた代表的な20世紀文学がガルシア=マルケス「百年の孤独」なのさ」
司会者「でも「肝心の子供」には「大衆にウケる要素」満載の神話的小説なのでしょうか?どう考えても「肝心の子供」は大衆にはウケませんぜ」
kenzee教授「20世紀文学は「神話的手法」だけではない。さまざまな実験的手法のひとつに過ぎない。例えばバルガス=ジョサ「ラ・カテドラルでの対話」はラ・カテドラルという居酒屋でエンエン二人がダラトークしてるだけの話なんだが」
司会者「このブログじゃないですか」
kenzee教授「そのトークの合間につながりのない断片がはいりこんでくる。それは当時の政治状況だったり野心家の立身出世話だったりするんだが、基本の居酒屋トークとは関係ないんだ。この手法は読みにくくはあるんだけど従来のリアリズム小説に比べて、読者の解釈の幅を大きく広げたんだ。ワタシは個人的にこのバルガス=ジョサの手法はヒップホップの手法に似ていると思うんだ。二人のトークの部分がラップ。で、間にでてくる断片はまさにサンプリングトラックじゃないか。サンプリングという手法はレコードの一部分を繋いでるだけだから、音楽理論的にはムリがあることが多い。例えばベースと上モノのコードが合ってないとか。でもその抽象性こそが聞き手の解釈を拡げる要素になってるんだ。政治的な断片の上にダラトークが乗っかっている「ラ・カテドラルでの対話」はパブリック・エネミーみたいなモンだよ。主要なストーリーの上に一見、無関係な断片を並べていく。これは「構造」を意図的に作っていく作業でもある。マーティン=スコセッシの映画にもヘンな断片がチョコチョコ登場するけどあれも「構造」を意図してつくる、という意味があるんだ」
司会者「ナルホド。では「肝心の子供」は20世紀文学のどういうエレメントを活用して書かれているのでしょうか?」
kenzee教授「まず、「肝心の子供」の特徴は確固たる主人公が存在しないことだ。家系図に沿って次々に主人公が変わっていく。これは「百年の孤独」そのままの手法だ。ブッダ、ラーフラ、ティッサ・メッテイヤという三代の親子を中心に話は進むのだけれど、たった104枚のなかに強烈な個性をもった人物が次から次へとでてくる。まず、ブッダのヨメ、ヤショダラ。彼女はたった一人でシャカ族を稲作の民族に変えてしまう。人々の生活習慣も変えてしまった。そしてマガダ国の若き国王、ビンビサーラ。彼は良質の鉄をジャンジャン採掘し、マガダ国を武装国家にするつもりだ。典型的な「組織への忠誠を誓う野心家である。後に、宗教家となるブッダとの対比として描かれている。ビンビサーラは息子、アジャータシャトルによって幽閉される。つまり、息子に父が王位を乗っ取られた格好だ。この「王子が王を破って新しい国を作る」というのも神話の典型的な「構造」である。いつの時代も大衆は政治に不満を持っているので政権交代を期待している。父殺しの話はウケがいいので繰り返される。そしてティッサ・メッテイヤの話へなだれ込む。サリアとティッサ・メッテイヤの話は恋愛の悲劇のパターンである。結婚もしないうちに子供ができてしまう。父親は逃げる。母と子は差別的な生活を余儀なくされる。ラーフラは祝福された赤ん坊だったがティッサ・メッテイヤは望まれない子供だった。ラーフラはやがて父、ブッダの弟子となる。が、ティッサ・メッテイヤは血縁を離れて生きていく。つまりこの親子はネガとポジの関係、まさに「構造」そのものである。そうして、誰からも望まれなかった子供ティッサ・メッテイヤは新しい世界の最初の人間となる。「新しい人」の誕生だ。そしてこんだけさまざまな登場人物がでてきて、それぞれが主人公になって短いエピソードが積み重ねられていく。
①ヤショダラ篇。結婚~稲作の定着~ラーフラ誕生。
②ビンビサーラ篇。ローヒニー河沿いの混乱。3年前洪水が起こったときの話~石、青銅、鉄へと続く戦争の話
③ブッダの悟りと出家
④ラーフラの思春期の大妄想篇。オレは過去の重さに耐えかねて死んでしまう。
⑤再びビンビサーラ篇。息子が虻に刺され、膿を飲んで助けようとした話。
⑥ティッサ・メッテイヤ篇。クワガタやカブトムシとの交流。
これらのエピソードはこの物語の流れと無関係に登場する。まさに「百年の孤独」ばりの「神話的リアリズム」だ。
このように19世紀的リアリズム小説以降に登場した手法テンコ盛りな大作なのだ「肝心の子供」は。物凄いスピードで40年近くを駆け抜けるのだが文体は落ち着き払っているしこれだけ実験的な手法を使いながら破綻していない。たった104枚でコンパクトに世界文学のテイストが味わえるまるでオムニバスCDのような小説なのだよ」
司会者「もっと長くてもよさそうなモンですよね」
kenzee教授「本当だ。文藝賞は規定枚数400枚以内なのだから、更にティッサ・メッテイヤが成長してマガダ国の革命戦士みたいなことになっちゃう展開に行っても良かっただろう。だが、「肝心の子供」には20世紀文学の手法のデパートでありながら使われていない手法がある」
司会者「ほう。それは」
kenzee教授「物語の物語」と呼ばれる手法だ。これは枠物語ともいって、アルゼンチンのマヌエル・プイグの「蜘蛛女のキス」などが有名だ。要するに登場人物がお話を始める劇中劇みたいなことなんだけど、エピソードを脈絡なく繋げることによってまた、神話的な「構造」を」浮かび上がらせるという方法論なのだ。「百年の孤独」も冒頭と最後が枠物語になっている。イタリアのウンベルト・エーコ「薔薇の名前」にも「物語の物語」が応用されている。磯崎氏の次作は今回手を付けれなかった「枠物語」でキマリだろう。「肝心の子供」は久々に「百年の孤独」を参考に真正面から神話的な「構造」に取り組んだ意欲作だ。かつて日本文学にもたくさんの作家がこの「百年の孤独」に挑戦したのだ。代表的なところで大江健三郎、中上健次、筒井康隆、寺山修司と名だたる作家が並ぶ。ここに磯崎氏は並ぼうとしたのだから実に意欲的な新人だね。ただ、欲を言えば「肝心の子供」を現代の日本社会に置き換えてやって欲しかったね。ワタシは。例えば中上健次なら「構造」を使って「路地」と熊野の神々の世界と生い立ちを語ることに成功している。大江健三郎もまた、60年代当時の左翼運動を睨みながら「万延元年のフットボール」を書いたのだからね」
司会者「なるほど。「肝心の子供」は「20世紀文学のデパート」だった。これが結論なのですね。kenzee教授の解説、とても勉強になりましたね~」
kenzee教授「ま、ちょいとやっかいな作品がでてきたらいつでもワタシを呼びなさい。ワタシも文学者だからね~。ま、キミも一度西中島南方へ来たまえ。おっぱいパブぐらいならいつでもオゴるよ~」
司会者「というわけで、インチキ20世紀文学講座。特別講師にkenzee教授をお招きしてお送りしました~。それじゃ、また来週~」
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