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2007年10月28日 (日)

インチキ20世紀文学講座その②(磯崎憲一郎「肝心の子供」文藝冬号)

司会者「インチキ20世紀文学講座の時間です。特別講師に西中島南方産業大教授、kenzee教授をお招きしてお送りしてまいります」

kenzee教授「あ~kenzeeです。文藝賞受賞作「肝心の子供」を読み解きつつ、20世紀文学とはなんだったのか? これについて皆さんと一緒に勉強しましょう。エ、前回は「肝心の子供」の梗概、そしてこの小説が20世紀文学のさまざまな手法、方法論を吸収して書かれた作品だ、と述べました。キミイ、この小説の作者はどういう人物なのかね?」

司会者「プロフィールでは、「42歳、千葉出身。東京都在住。早稲田大学商学部卒。現在、会社員。とあります。やはり作家を輩出しまくってる早大出身でしたね。ところでkenzee教授の西中島南方産業大って偏差値ナンボくらいなんですか?」

kenzee教授「32」

司会者「ありえない数字ですよ、ソレ。ヘタすりゃ名前だけ書きゃ入れる世界ですよ」

kenzee教授「一芸入試が多いかなあ。ウチの場合」

司会者「フツーに受験した方が早いだろう! なんスか! 一芸って!」

kenzee教授「だいたいモノマネが多いかな? ワタシはユーミンさんとか怒ったときの大島渚のモノマネができるがね。ところで、キミはこの磯崎氏の写真にちゃんと着目したのかね?」

司会者「ええ、フツーのオッサンじゃないですか。これがどうかしたんですか?」

kenzee教授「キミの目はフシ穴かね。彼はジャケットの下にウッドストックのTシャツを着ているだろう」

司会者「エエ、Woodstock Festivalの文字が見えます」

kenzee教授「そして受賞の言葉のなかでロック史について語っているだろう? 68年から72年頃にはジャンルとして完成している、とそれ以降はオマケみたいなものだと」

司会者「そこまで言ってないですよ!」

kenzee教授「で、ウッドストックときたモンだよ。つまり彼は音楽的にはベタベタな趣味なのさ。恐らく愛読誌はミュージックマガジンではなくレココレ。作品の理屈っぽさからいってブリティッシュロック趣味。フーだのスモールフェイセスだのヤードバーズだのゾンビーズだのキンクスなどを好むインテリロックオヤジなのさ」

司会者「別にイイじゃないですか! 音楽の趣味はどうでも」

kenzee教授「ところで次のページの丹下健太氏のTシャツもバンドTシャツっぽいんだよなあ。ポストロック系ぽいんだけど」

司会者「トータスとかダフトパンクとかあの辺ですかね」

kenzee教授「多分そんな感じだと思うんだけど。今、その辺詳しいヤツと連絡とれなくてわかんないんだ。ま、Tシャツひとつとっても世代の違いがでとるね。今回の文藝賞」

司会者「まあTシャツの話は置いといて「肝心の子供」の解説をお願いしますよ」

kenzee教授「しゃーおらー!(亀田父のマネ)まず、磯崎氏も受賞の言葉で述べているように小説というジャンルが完成したのは1920年代だと、彼は言っておる。これは注釈を加えるならそれは主にリアリズムの手法で、またヒューマニズムに根ざした世界を構築していく近代小説のスタイルのことだ。このスタイルは19世紀のロシア文学、ドストエフスキーとトルストイによって頂点を迎えた。「リアリズム」という手法に限っていえばこの二人を越える者は未だでてきていない。20世紀文学はこの「越えられない壁」にブチ当たるところから始まるんだ。で、リアリズムの手法ではもう文学は発展しない、新しい方法論が必要だ、と20世紀の文学者たちは考えた。そこでさまざまな実験がおこなわれたんだ」

司会者「あ、マジメに文学の話してる」

kenzee教授「その過程で例えばカフカ「変身」に見られるアンチリアル、サルトル「嘔吐」のようなヌーヴォーロマン、アンチロマンといった「実存」という哲学的テーマをそっくり小説化した哲学小説が生まれた。そうした文学的実験のなかで「神話的手法」や「構造主義」という考え方がでてくる。「神話的手法」の代表作といえばガルシア=マルケス「百年の孤独」だが、そもそも「神話的手法」ってナニ?って話ですよ」

司会者「フムフム」

kenzee教授「レヴィ=ストロースという人類学者がおった。彼は南米の人々交流を持った。そして彼らの「婚姻規制」のなかに「構造」を発見するんだ。昔の将軍家なんかでもそうなんだけど○○家の跡継ぎは必ず××家からヨメをもらう、という代々伝わるしきたりがあるんだ。(逆のパターンもある)こうすることによって○○家と××家は未来永劫親密になる。堅牢な大家族ができあがるのだ。早い話がこうして集団としての結束を強めることで外敵から身を守る、という機能が婚姻規制にはある、という「構造」をレヴィ=ストロースは発見した。さらに、レヴィ=ストロースは神話にも似たような「構造」があると発見したんだ。まず、神話は体系というものを持っていて、天地創造から始まって何世代にもわたる物語が積み重ねられていく。でも、そのエピソードにはパターンがあるということがわかったんだ。例えば「父と子の対立」とか「呪いによる悲劇」とか「不倫から生じた複雑な関係」とかおんなじような話ばっかりでてくる。ギリシャ神話だろうが仏教説話だろうがインディアンの神話だろうが、関係ナシ。ナゼか? 神話というのは何百年、何千年という時間の試練に耐えて洗練されてきたもので、その背後には流行らなくなって淘汰された話が何万とあるだろう。そして「大衆にウケる要素」を備えた話だけが生き残った。今のハリウッド映画の脚本家などはまず、このレヴィ=ストロースの発見した神話の「構造」を徹底的に頭に叩き込むんだ。だって大衆にウケる要素の基本中の基本だから。そこに現代的なフレーバーを足して、量産する。モチロン、まったくそんなやり方カンケーなしでタランティーノみたいに大成功収めるヤツもいるけどね。「スター・ウォーズ」なんかは構造だけでできているといっていい。この「神話」の構造を取り入れた代表的な20世紀文学がガルシア=マルケス「百年の孤独」なのさ」

司会者「でも「肝心の子供」には「大衆にウケる要素」満載の神話的小説なのでしょうか?どう考えても「肝心の子供」は大衆にはウケませんぜ」

kenzee教授「20世紀文学は「神話的手法」だけではない。さまざまな実験的手法のひとつに過ぎない。例えばバルガス=ジョサラ・カテドラルでの対話」はラ・カテドラルという居酒屋でエンエン二人がダラトークしてるだけの話なんだが」

司会者「このブログじゃないですか」

kenzee教授「そのトークの合間につながりのない断片がはいりこんでくる。それは当時の政治状況だったり野心家の立身出世話だったりするんだが、基本の居酒屋トークとは関係ないんだ。この手法は読みにくくはあるんだけど従来のリアリズム小説に比べて、読者の解釈の幅を大きく広げたんだ。ワタシは個人的にこのバルガス=ジョサの手法はヒップホップの手法に似ていると思うんだ。二人のトークの部分がラップ。で、間にでてくる断片はまさにサンプリングトラックじゃないか。サンプリングという手法はレコードの一部分を繋いでるだけだから、音楽理論的にはムリがあることが多い。例えばベースと上モノのコードが合ってないとか。でもその抽象性こそが聞き手の解釈を拡げる要素になってるんだ。政治的な断片の上にダラトークが乗っかっている「ラ・カテドラルでの対話」はパブリック・エネミーみたいなモンだよ。主要なストーリーの上に一見、無関係な断片を並べていく。これは「構造」を意図的に作っていく作業でもある。マーティン=スコセッシの映画にもヘンな断片がチョコチョコ登場するけどあれも「構造」を意図してつくる、という意味があるんだ」

司会者「ナルホド。では「肝心の子供」は20世紀文学のどういうエレメントを活用して書かれているのでしょうか?」

kenzee教授「まず、「肝心の子供」の特徴は確固たる主人公が存在しないことだ。家系図に沿って次々に主人公が変わっていく。これは「百年の孤独」そのままの手法だ。ブッダ、ラーフラ、ティッサ・メッテイヤという三代の親子を中心に話は進むのだけれど、たった104枚のなかに強烈な個性をもった人物が次から次へとでてくる。まず、ブッダのヨメ、ヤショダラ。彼女はたった一人でシャカ族を稲作の民族に変えてしまう。人々の生活習慣も変えてしまった。そしてマガダ国の若き国王、ビンビサーラ。彼は良質の鉄をジャンジャン採掘し、マガダ国を武装国家にするつもりだ。典型的な「組織への忠誠を誓う野心家である。後に、宗教家となるブッダとの対比として描かれている。ビンビサーラは息子、アジャータシャトルによって幽閉される。つまり、息子に父が王位を乗っ取られた格好だ。この「王子が王を破って新しい国を作る」というのも神話の典型的な「構造」である。いつの時代も大衆は政治に不満を持っているので政権交代を期待している。父殺しの話はウケがいいので繰り返される。そしてティッサ・メッテイヤの話へなだれ込む。サリアとティッサ・メッテイヤの話は恋愛の悲劇のパターンである。結婚もしないうちに子供ができてしまう。父親は逃げる。母と子は差別的な生活を余儀なくされる。ラーフラは祝福された赤ん坊だったがティッサ・メッテイヤは望まれない子供だった。ラーフラはやがて父、ブッダの弟子となる。が、ティッサ・メッテイヤは血縁を離れて生きていく。つまりこの親子はネガとポジの関係、まさに「構造」そのものである。そうして、誰からも望まれなかった子供ティッサ・メッテイヤは新しい世界の最初の人間となる。「新しい人」の誕生だ。そしてこんだけさまざまな登場人物がでてきて、それぞれが主人公になって短いエピソードが積み重ねられていく。

①ヤショダラ篇。結婚~稲作の定着~ラーフラ誕生。

②ビンビサーラ篇。ローヒニー河沿いの混乱。3年前洪水が起こったときの話~石、青銅、鉄へと続く戦争の話

③ブッダの悟りと出家

④ラーフラの思春期の大妄想篇。オレは過去の重さに耐えかねて死んでしまう。

⑤再びビンビサーラ篇。息子が虻に刺され、膿を飲んで助けようとした話。

⑥ティッサ・メッテイヤ篇。クワガタやカブトムシとの交流。

これらのエピソードはこの物語の流れと無関係に登場する。まさに「百年の孤独」ばりの「神話的リアリズム」だ。

このように19世紀的リアリズム小説以降に登場した手法テンコ盛りな大作なのだ「肝心の子供」は。物凄いスピードで40年近くを駆け抜けるのだが文体は落ち着き払っているしこれだけ実験的な手法を使いながら破綻していない。たった104枚でコンパクトに世界文学のテイストが味わえるまるでオムニバスCDのような小説なのだよ」

司会者「もっと長くてもよさそうなモンですよね」

kenzee教授「本当だ。文藝賞は規定枚数400枚以内なのだから、更にティッサ・メッテイヤが成長してマガダ国の革命戦士みたいなことになっちゃう展開に行っても良かっただろう。だが、「肝心の子供」には20世紀文学の手法のデパートでありながら使われていない手法がある」

司会者「ほう。それは」

kenzee教授「物語の物語」と呼ばれる手法だ。これは枠物語ともいって、アルゼンチンのマヌエル・プイグ「蜘蛛女のキス」などが有名だ。要するに登場人物がお話を始める劇中劇みたいなことなんだけど、エピソードを脈絡なく繋げることによってまた、神話的な「構造」を」浮かび上がらせるという方法論なのだ。「百年の孤独」も冒頭と最後が枠物語になっている。イタリアのウンベルト・エーコ「薔薇の名前」にも「物語の物語」が応用されている。磯崎氏の次作は今回手を付けれなかった「枠物語」でキマリだろう。「肝心の子供」は久々に「百年の孤独」を参考に真正面から神話的な「構造」に取り組んだ意欲作だ。かつて日本文学にもたくさんの作家がこの「百年の孤独」に挑戦したのだ。代表的なところで大江健三郎、中上健次、筒井康隆、寺山修司と名だたる作家が並ぶ。ここに磯崎氏は並ぼうとしたのだから実に意欲的な新人だね。ただ、欲を言えば「肝心の子供」を現代の日本社会に置き換えてやって欲しかったね。ワタシは。例えば中上健次なら「構造」を使って「路地」と熊野の神々の世界と生い立ちを語ることに成功している。大江健三郎もまた、60年代当時の左翼運動を睨みながら「万延元年のフットボール」を書いたのだからね」

司会者「なるほど。「肝心の子供」は「20世紀文学のデパート」だった。これが結論なのですね。kenzee教授の解説、とても勉強になりましたね~」

kenzee教授「ま、ちょいとやっかいな作品がでてきたらいつでもワタシを呼びなさい。ワタシも文学者だからね~。ま、キミも一度西中島南方へ来たまえ。おっぱいパブぐらいならいつでもオゴるよ~」

司会者「というわけで、インチキ20世紀文学講座。特別講師にkenzee教授をお招きしてお送りしました~。それじゃ、また来週~」

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インチキ20世紀文学講座その①(磯崎憲一郎「肝心の子供」文藝冬号)

司会者「みなさんコンニチワ。インチキ20世紀文学講座の時間です。えー今日のテーマは20世紀文学における「アンチロマン」「神話的手法」「構造主義」。これらの概念についてみなさんと一緒に学んでいきたいと思います。特別講師に、西中島南方産業大学教授、kenzee教授をお招きしました。kenzee教授、どうぞ」

kenzee教授「あ~どうも~kenzeeです」

司会者「本日はどうも、わざわざ渋谷のNHKまで来ていただいてありがとうございます」

kenzee教授「イヤ、ま~ワタシは西中島南方だから、チャリで新大阪まで出れるから、どうってことないヨ。あと新幹線だから」

司会者「本当に西中島南方にお住まいなんですか?」

kenzee教授「そうだよ。おっぱいパブの二階に住んでおる」

司会者「おっぱいパブですか」

kenzee教授「なんせ西中島南方だからね~」

司会者「このブログの読者に関西方面に疎い人も多いと思うんですが…」

kenzee教授「ショーパブも多いよ」

司会者「フィリピン系ですか」

kenzee教授「イロイロだね~ま、西中島南方だから」

司会者「そろそろ文学講座をお願いしたいのですが……」

kenzee教授「あ~文学ネ、文学。えーっと今日取り上げるのは文藝賞受賞作「肝心の子供」コレなんだけど。キミ、これ読んだ?」

司会者「ええ、読みましたがサッパリ……。青木淳悟並みに口ポカーンとなってしまいました」

kenzee教授「そうだろうねえ。キミ程度の人間だと「肝心の子供」読み解くのはムリめだね。ワタシくらいの文学的教養があって初めて理解できる小説だよウン。キミにはムリ。ワタシもダテに西中島南方に住んでないから」

司会者「そうですよね。やはりkenzee教授ほどの教養のある文学者でないと……」

kenzee教授「ま、ワタシに言わせりゃ選考委員もロクに読めとらんがね。選評読む限り」

司会者「そ、そんなこと言って大丈夫ですか! アッチは本チャンの文学者ばかりですよ!」

kenzee教授「キミイ! ワタシも文学者だよ! 西中島南方産業大学東スポ学科を主席で卒業しておる!」

司会者「そ、そうでした。それでは解説をお願いいたします」

kenzee教授「じゃ、まず梗概からいこうかね~エ~!」

司会者「先生、先生声デカイです。ピンマイク死にますから」

「肝心の子供」梗概……オホン、たった104枚の作品だが、ストーリーはブッダという歴史上の実在の人物を中心にした親子3代に渡る大河ドラマだよ。ブッダ、この時、まだシャカ族の王子のシッダールダだったが、ヤショダラという同じ年の女を妃に迎える。で、なんせ王子ですから40日間に渡る盛大な婚礼の祝典が執り行われたワケね。ブッダとヤショダラはイキナシ倦怠期を迎えたがヤショダラは働き者で、城の周りを水田だらけにして、稲作を国中に流行らせ、民衆の米の主食化に貢献した。ブッダはネムの木の下とかでグータラしてただけなんだけどね。とにかくヤショダラはしっかり者だったのでセックスも子供を作る目的以外のなにものでもなかった!」

司会者「そりゃブッダ的にちょとツライですね」

kenzee教授「ウン、ワタシならグレる。で、結婚7年後にようやく子供をもうけた。ブッダは孫の顔を見にやってきた父、スッドーダナ王に、「この子供は私に、ある日突然嵌められた箍、束縛となるでしょう」と言い、それではとスッドーダナ王は孫の名を束縛という意味のラーフラと名づけることにした。

隣国との国境を挟んで農民同士の紛争が起こった。そこでブッダはそのマガダ国の王、ビンビサーラを訪ねた。会ってみると、若いブッダよりビンビサーラはさらに若かった。だが、子供のようにも老人のようにも見えた。そして例のローヒニー河沿いの混乱について慇懃に饒舌に語った。そしてローヒニー河沿いの農民を千人を鉱石の採掘のために移住させる、空いた土地はシャカ族に移譲したい、と意外な申し出をした。

ある日、ブッダはラーフラを散歩に連れていった。ラーフラが蝶を追いかけたとき、ブッダは悟った。ブッダが一生を費やしても、これ(子供)以上の何かを作り出せるはずはなく、彼の人生で成すべき最大の仕事はすでに終わっていることを悟った。この日を境に、ブッダがヤショダラと口をきくことはなかった。一年後、ブッダは出家した。ヤショダラは激しく怒った。悲しんだ。一方ラーフラは思春期を迎えつつあり、自分の名前、「束縛」とは毎日どんどん溜まっていく思い出の重さに押しつぶされていく、ということではないか。自分は大きくなった過去に耐え切れず死んでしまうのではないか。という考えに憑かれる。一年半後、ブッダが立ち上げた教団を引き連れて、シャカ族の村へ帰ってきたという知らせを聞いたラーフラはブッダが説法を行っているローヒニー河岸へ一人で向かった。河の両岸には3、4000人もの信者で埋め尽くされていた。ラーフラの身体はその教団の信者の群れとともに歩き始めていた。彼は後に、教団の10大弟子のひとりとなるのだが、まだ思春期だったラーフラは性欲を抑えることはできなかった。夜中にこっそり修行からぬけだしては……」

司会者「西中島南方、ですか?」

kenzee教授「違うよ! 女のもとへ通っていたのさ。モチロン、そのことはすぐ教団にバレた。ブッダは息子を女から引き離すため、マガダ国訪問へ同行させた。あの子供のような老人のようなビンビサーラはその息子、アジャータシャトルによって長い間幽閉されていた。ビンビサーラが閉じ込められていた石牢を訪ねると、彼は白髪でやせ衰えていた。あがビンビサーラはあのときと同じように饒舌に、今度は息子との思い出を語った。ラーフラの元彼女だったサリアは農村の家畜小屋で男の子を産んだ。父親のいない母子。サリアは子供のために農民達の食料を盗み、村を追い出された母と子は川沿いを転々とした。ようやくラーフラが帰ってきたのは一年もたった頃だった。サリアはラーフラを激しく責め立てたが彼も二人がどこに住んでいるのかもわからなかったのだ。サリアの外見は変わり果てていた。丸々太って肌の色は浅黒く、あの美しい面影はなかった。ラーフラには母、ヤショダラの非難が聞こえてくる錯覚がしばしば起こった。アンタって子はもう! 城を捨て、祖父王や母を捨て、修行の道に入ったと思ったら奴隷の女にポワ~ンとなって性欲に流されて、そのうえ子供まで作って、どーすんの! もう教団には戻れないし、城にも戻れないでしょ! バカ!」

司会者「イヤ~耳がイタいですな。これは男心を描いた傑作だ」

kenzee教授「イヤそこただのワンエピソードだから! で、ラーフラ的には「肝心の子供はどこにいるんだ?」とサリアに聞いた。「そこで寝てるわよ」さきほどから藁の束に見えていたのは泥だらけの子供だった。本来ならシャカ族の王子として大理石の宮殿に住み、美しい侍女たちに育てられていたはずの子供!それが藁の束! スマン……。ラーフラは子供をティッサ・メッテイヤと名づけた。村八分の子供なのでいつもひとりで遊んでいた。ある日、役人がやってきて、「マガダ国のすべての男の子は軍役の義務があるといってティッサ・メッテイヤを連れていった。そしてマガダ国の北側で国境を接しているヴァイシャーリー国への遠征に徴用された。二十日間歩かされ、マガダ国の都、ラージャグリハに着いた。ティッサ・メッテイヤのような子供は前線に立たされることはなく、兵器や食料の運搬がおもな仕事だった。モーガラージャという少年とティッサ・メッテイヤは仲良くなった。二人は昼間の退屈な時間、野営を離れ、森を分け入って歩くことを好んだ。ある日、二人は森で虎にバッタリ遭遇した。二人は別れて逃げたが虎はティッサ・メッテイヤを追いかけてきた。ティッサ・メッテイヤ(あー書きにくい)は目の前の杉の木に飛びつき、ひたすら上へ登った。だんだん枝が細くなってきた。すると、突然、光に包まれた。そこには別世界が広がっていた。どこまでも続く若い緑の大海原の遥か先、地平線にはこの地球上でもっとも高い山々がそびえていた。ティッサ・メッテイヤは人類が始まって以来、その世界を最初に見た人間となった。ブッダ50歳、ラーフラ24歳のときのことだった。(了)

kenzee教授「どうかね。ゴッツイ長大な大河小説の梗概のようだが、この作品、104枚なんだよね」

司会者「親子三代に渡って40年近い歳月が流れてますからね。猛スピードですね。そもそもこの話、史実に基づいて書かれているのでしょうか?」

kenzee教授「違うね。実在の人物が登場するフィクションだ」

司会者「そんなんアリなんですか?」

kenzee教授「大アリだよ。「一休さん」にも実在の足利義満とかでてくるだろ?」

司会者「そうえばドラゴンボールだって「孫悟空」ってアリもののキャラ使ってますもんね」

kenzee教授「そうさ。高橋源一郎なんてもっとヒドい。則巻千兵衛とかアラレちゃんとか鉄腕アトムとかキン肉マンとかサザエさんとかフツーにでてくるからな(ペンギン村に陽は落ちて)」

司会者「じゃー「肝心の子供」はアリものキャラを使った偽史小説ってコトで終了、ですかね」

kenzee教授「そうね。じゃあ終了ってコトで銭湯風おっぱいパブでもいこうかなって違うんだよバカ! この小説にはたった104枚の中に20世紀文学のあらゆる手法、方法論がギチギチに詰め合わせてあるんだよ! ザッと読んだだけでは明確な主人公はいないし、次から次へとエピソードは右から左に流れていくし、それらは一見、関連性がないように見える。しかし、この小説には膨大な文学の知識と情報が背後に控えているのさ。次回はその辺を一個一個文学者であるkenzee教授が解説していこう!」

司会者「ところでkenzee教授は西中島南方産業大の何学部出身なんですか?」

kenzee教授「文学部」

司会者「そこはフツーなんですね。ボケないんですか」

kenzee教授「徹底的になんでもボケ倒せばよい、というものではない」

司会者「今日はどうもありがとうございました」

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2007年10月19日 (金)

青色讃歌ファイナル(丹下健太「青色讃歌」文藝冬号)

 「青色讃歌」にはさまざまな社会的身分の若者が登場する。フリーター、会社員、無職ネットトレーダー……。こうなるとそれぞれの立場が対立するさまを描いて「格差社会」の現状をあぶりだす、みたいな展開になりそうなモンである。ところが「青色讃歌」はそのようなベタな図式には陥っていない。「青色讃歌」の登場人物は立場が流動的なのだ。例えば、主人公、高橋は大学卒業後、フリーターをやりつつバンド活動を続けていたが、音楽はあきらめ、なんとなく就職活動を始める。そんないいかげんなやり方では当然採用はされないのだが、ひょんなことから友人の紹介でデザイン会社に就職する。大学時代の友人設楽は卒業後、ちゃんと就職したが退職し、今は株ニートだ。大西という男は商社に勤める自称エリートだがのちに横領容疑で指名手配となる。岡本もちゃんと就職したクチだが辞めてしまった。ついでにめぐみは夜の仕事を辞め、今は無職だ。この小説ではそれぞれの登場人物は立場は明確でなく、流動していく。会社員などのカタギの世界を「あっち」フリーター、株ニートなどヤクザな生き方を「こっち」と高橋たちは表現する。通常、「格差社会」を語る際、「あっち」対「こっち」の図式で語られ、現状の社会状況では「あっち」と「こっち」の格差は拡がる一方だ、さてどうする? という論理で展開される。だが、高橋はこう思う。

あまりにすんなり社会人になるということに高橋は逆に違和感を感じた。もしかしたらあっちとこっちとはそんなに離れていないかも知れない、と思った。もしかしたらあっちもこっちも同じ場所にあるんじゃないか。

ことの是非はともかく、この論理は今の若者を取り巻く状況に対する新しい見解といえるのではないか。確かに「正社員になればオールオッケー」という人生モデルの設定の仕方はよほどのトップ企業に就職するとか公務員になる、とかでない限り現在では無効になりつつある。もちろん「あっち」と「こっち」は所詮、地続き。という論理には異論はある。大いにある。だが今の20代の人間の意見としては一定の説得力もある。例えば私は途中まで高橋が友人たちの生き方に疑問や怒り、あるいは憧れを持たないのは不自然だと思っていたのだ。この主人公は設楽のような人物(会社員から株ニート)に対してなにも思わない。設楽など自称パチプロを名乗るレベルの人間なのではないか、とか井上のように才能がないのに音楽活動を続ける友人が心配になったりしないのか、と。また恋人に夜の商売をさせなければ生活を維持できない自分の不甲斐なさを嘆いたりしないのか、と。そういったことも「あっちもこっちも一緒」という論理により高橋のなかでは解決済みなのだ。一見高橋はその論理と状況の上でフワフワ浮遊して生きる(友人たちも)チャランポランな若者として描かれている。だが高橋には決定的な個性がある。めぐみがバイトを辞め、その収入減を埋め合わせるため肉体労働(草刈のバイト)に従事する。そこで高橋はこう感じるのだ。

作業は単純だったが、思った以上のハードワークだった。梅雨に差し掛かり蒸してきた空気の中で動き出すとすぐに体中がべたつき30分もすると汗が流れ落ちてきた。安全面から長袖の着用が義務づけられていたので現場監督から厚手の作業着を借り、それを一日に三回着替えた。その三枚とも搾れるくらいの汗がでたことに高橋はちょっと感動した。(中略)休憩中も水分を補給して各々が別の場所で昼寝をして体力を回復させた。言葉もなく、暑さと疲れ何も考えることのない時間は余計なものをどんどんそぎ落としていくようで心地よかった。(中略)高橋のバイトは最終日を迎えた。休憩中に山を眺めながら意外に面白い仕事だったなと思い返していると……

戦後日本文学は70年代に突入するまで「労働」といえば「搾取」であり「共闘」しなくてはならない。という左翼思想一点張りであった。そこに中上健次が現れ、「露路」のドロドロの日常を労働は忘れさせる、働くことは喜びだ、と表現した。中上の出現は文学が労働を捉え直したターニングポイントであった。「格差社会」以降、再び「労働」は文学において搾取、悲劇として描かれる。現代の労働文学の旗手といえば宮崎誉子だが宮崎氏もやはり「労働」を悲哀として描く。丹下小説がフリーターを主人公に「労働」を「充実」だ、と描いてみせたことは重要だ。「労働」を喜びと捉え、一流商社マンを羨むでもなく、株ニートを蔑むでもなく、夢を追うバンドマンを嘲るでもなく、「ぜ~んぶ一緒」と言い切る高橋は誰にも似ていないこの小説だけのキャラクターだ。私自身は高橋の主張には異論があるし、メガネギター井上に象徴的だが(サンボマスターや銀杏BOYSのボーカルの人を思わせる)この作者は「典型をデフォルメする才に長けている」とは思う。だが選考委員の人々が言うほど、別段ユーモラスだとは思わなかった。

「子供が欲しくなったからセックスしよっか」とその夜めぐみから言われて高橋はドキドキした。「いやでも、俺まだ働きだしたばっかりやしな。もうちょっと経ってからの方がいいんじゃないのかな」

丹下ワールドが槇原ワールドと決定的に違うのは、未だ確信は持てないながらも結婚という目標を設定しているらしいところだ。おぼつかない足取りではあるのだが。

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2007年10月18日 (木)

丹下ワールドは反社会的か?(丹下健太「青色讃歌」文藝冬号)Part.3

 アクセスログを見たところ「丹下健太」や「文藝賞」や「青色讃歌」といった検索ワードで来られた方も多いようだ。初めてこのブログをご覧になった方も多いだろう。そうした初心者の方に最初にお断りしておかなくてはならないことがあります。当ブログは書評ブログ界の「東スポ」であり、真剣な文芸評論ではありません。ブッチャケ、あることないこと並べ立て、作者の方にオコられたりすることもシバシバです。東ブログは例えば高田純次のインチキリポーターとか観る感覚で読んで頂くのが正しい接し方です。また、当ブログの記事は考えをまとめた上で書いているのではありません。書きながら(飲みながら)考えて書いています。ですから、最初に言ってることと結論に矛盾が生じるなど日常茶飯事です。ワタシはこの書き方を「必殺高橋源一郎文學界の連載的自己矛盾OKポストモダン戦法」と呼んでいます。今回の丹下氏のレビューも考えなどナ~ンにもまとまっていないうちに書き出したのであり、「青色讃歌」を読んだオレが「なんか、マキハラノリユキの歌みたいな小説だな」という印象を持った、というそれだけのとっかかりで書き出したものであり、結論など自分でもわからないまま突き進むオフロードなのであります。だからオコらないで読んでね♪

前回、前々回の記事の反響が以外に多く、反論もいくつかあったようなので今日はその辺にお答えしたいと思います。まず、槇原敬之の歌の世界が「反社会的」だと前記事で書いた。ワタシは「反社会的」といったのであって槇原ワールドが「悪」だとはいっていない。これはどういうことかというと槇原ワールドには一貫して①恋愛が成就しない(つまり永遠に結婚しない)②大前提的にモラトリアムを肯定している、という思想がある。こういった考え方は現行の社会システムとまったくそぐわない考え方なのです。①結婚しない→子供を産まない→人口減少→国力の低下というスパイラルを招く。②モラトリアムの肯定→若者がいつまでも就職などの形で社会と関わらなくなる→専門的な知識、技術を要する職種の地盤沈下を招く→また、多くの若者が低賃金労働から抜け出せなくなる→GDP(国内総生産)の低下。という事態を招きかねない世界観なのだ槇原ワールドは。ひいては槇原ワールドは社会不安を引き起こす要因ともなりえる。もちろん、私も現行の社会システムが100%正しいとは思っていない。むしろ現状に対してまともに機能しているか疑問だとも思っている。「大多数の人間が幸せになる」ということが人類の共通の目標とするなら現行の社会システムが間違っていて、槇原ワールドが正しい、という考え方もできるだろう。しかし、現行の社会システムは革命でも起きない限り、どう少なく見積もってもあと数十年は続くのである。若者が槇原ワールドを鵜呑みにしてしまった場合、先を行って痛い目を見ることになる。具体的にみていこう。例えば槇原ワールドが金持ちのボンボンの子息ばかりが登場する世界ならば私はどうでもいいのだ。そんな世界もあるだろう。だが、槇原ワールドは一般的にフリーターと呼ばれる低所得者層の若者を主人公にすることが多い。例えば接客・サービス業(僕の彼女はウェイトレス)深夜のビル清掃(Cleaning Man)など。そして彼ら槇原ワールドの主人公たちは大体恋人と同棲中である。槇原ワールドの住人がカネでモメることは絶対にないが、現実にこうした人物が存在した場合、その経済活動はカツカツであることがほとんどだ。こうした低所得者層のカップルが都内に2DKぐらいの部屋を借りて同棲を始めた場合、家賃等の固定費、生活費で彼らの収入のほとんどは消し飛んでしまう。差し引きゼロならまだマシなほうで、足がでると悲惨である。バイトを増やすか彼女のほうは割りの良いバイトへシフトしていかざるを得なくなる。愛の巣が火の車や修羅場と化すのは時間の問題である。「どうしようもない僕に天使が降りてきた」は主人公が元カノの目覚まし時計を使い続け、同棲相手の今カノが逆ギレ、「誰かを愛するためにはもっと努力が必要だ」と主人公は身にしみる。でも本当の槇原ワールドの住人が必要なのは「愛する努力」とかじゃなくて、ミもフタもない言い方だが「安定した生活を営むに足る収入」である。槇原ワールドはその恋愛がどこへ向かえばよいのか、というゴールを設定することはない、刹那的な世界観である。また、「どんなときも。」や「GREEN DAYS」にあるように人生に迷ったり探したりすることを肯定しているが、人間生き物である以上、年を重ねる。槇原ワールドの登場人物は永遠の20代かもしれないが、高一のときに初めて「どんなときも。」を歌う槇原氏をTVで観た筆者は既に33歳である。人生にゴールを設定したり、極力迷わないで効率的に人生を生きるべきだ、というメッセージも槇原ワールドには必要なのではないか。大した収入もないのにムリに実家を出ないでコツコツ貯金するほうが幸福な恋愛、といえるのではないか、といった問いかけも必要だろう。

槇原氏の歌世界がともすれば若者たちを間違った方向に導きかねない、という意味で私は「反社会的」だと言ったのだ。このことは槇原氏のセクシャリティーや逮捕歴、といったことを根拠にしていない。槇原ワールドは現在の若者を取り巻く状況に対して既にリアリティーを失っているのではないか、と思った次第なのだ。

で、話が長くなりましたが、「青色讃歌」である。

一見、同棲カップルの生活と意見について書かれた「青色讃歌」は槇原ワールドに似た印象がある。だが、よく読めば「青色讃歌」は槇原ワールドとは違う、格差社会に対する新しい見解や現代的な思想が横たわっていることがわかる。では一体、槇原ワールド似の「青色讃歌」はどこが新しいのか。次回に続く。

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2007年10月16日 (火)

丹下ワールドは反社会的か?(丹下健太「青色讃歌」文藝冬号)Part.2

槇原ワールドは経済感覚が欠如した世界だと書いた。では、丹下ワールドはどうか?

という問題を検証する前に果たして小説というものは正しく経済を描いていればよい、というものなのか。例えば保坂和志の小説の登場人物はなにによって生計を立てているのかわからないヤツばかりでてくるが、それが保坂作品の瑕とはなっていない。金原ひとみ「蛇にピアス」の同棲カップルにしても然りだ。彼らの生業(フリーター)がその生活ぶりとまったくバランスは取れていない。そもそも日本文学には夏目漱石の「高等遊民」に始まる「とりあえず銭カネの話はおいといて」という伝統がある。だが、丹下小説にその伝統をそのまま当てはめてよいものか? 小説にはそれぞれ目指す方向性があるはずで保坂作品なら実験的な手法、金原作品なら新手のファンタジーと読める。丹下小説が向いている方向はリアリズム小説なのではないか。「青色讃歌」は実験小説でも幻想小説でもない。現代に生きる若者の生活と意見、がこの小説のテーマであり現代的なリアリズム小説として読まれるべき作品である。リアリズム小説である以上、登場人物の経済は正確に描写されていなくてはならない。その点で「青色讃歌」はどうか。

 結構カネの話してるんですね。まず冒頭、風呂場で面接の練習に励む主人公はこう自己紹介する。「今はフリーターをやっています。時給は830円です。」おそらく彼の月の収入は10万ちょっとといったところだろう。同棲相手のめぐみはキャバ嬢なので主人公以上に稼いでいるはずである。「一応生活費は折半で出し合っていたが足りないところや余計な費用についてはめぐみが出していた」必然的にそうなる。だが、メグミはイヤな客がいる(大西)という理由で夜の仕事を突然辞めてしまう。この二人の収入源の約50%以上が消滅するのだからもっと大喧嘩が起こってもよさそうなもんだが主人公高橋は「バイトを増やす」というシンプルなワザでこの危機を切り抜ける。だがそのバイト先(草刈)で先輩のおじさんに「学生がこんな仕事してる場合じゃない」と言われる。この小説で初めて高橋の不安定な在り方を指摘するまっとうな社会人の視点が導入される瞬間である(面接官を除いて)。また冒頭の二人のやりとりの中で「あんまりバカなことしないでよ保険証ないんだから」というセリフにも現れているがこのふたりは年金や国保は払っていないようだ。こういったディティールの積み重ねによって二人の生活はギリギリであることが伝わってくる。

 丹下ワールドは「恋愛」を支える「経済」を見つめる視点がある。槇原ワールドとの決定的な違いであろう。

では「青色讃歌」がリアリズム小説ならば「労働」をどう描いているか、もまた重要なポイントである。「青色讃歌」は大学時代の友人関係、また猫探しという横軸を通して自称「まっとうな社会人」大西、会社員を辞め、現在ネット株無職の設楽、音楽活動を続けながらフリーターを続ける井上、というさまざまな労働と人生観という縦軸をあぶりだす、という手法が使われている。その辺りから「青色讃歌」がどのような労働観、人生観を描いているか? というところで明日に続きます。

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2007年10月15日 (月)

丹下ワールドは反社会的か?(丹下健太「青色讃歌」文藝冬号)

 「もう恋なんてしないなんていわないよ絶対」

上記の文章は日本語としてとても複雑な倒置がなされた一文である。そもそも文頭の「もう」がどこにかかるのか判然としない。

もう、わたしは絶対に「恋なんてしない」なんていわない。

この場合、「もう」は「いわない」にかかるワケで話者は今までサンザン「恋なんてコリゴリだ~ヒ~ン」などと抜かしていたことになる。だが、

わたしは絶対に「もう恋なんてしない」なんていわない。

という場合。「もう」は「恋なんてしない」にかかっているワケで、「わたしは恋をし続けることを誓う」という所信表明である。前者ならば話者はヨワヨワな人物と思われるが、後者なら生き方に明確なコンセプトを持った人物と言える。だが、この文章には句読点がない。したがって、どちらの人物なのか判然としないのだ。おそらく、この「判然としない」ことこそこの文章の意図ではないかと思えてくる。

「もう恋なんてしない」の主人公の男は(多分20代、フリーター)同棲中の彼女に去られてしまう。ひとりきりになって自由になったはずの主人公は寂しさを感じる。恋には「別れの辛さ」という側面もあったのだ。だが、主人公は高らかに宣言する。「もう恋なんてしないなんていわないよ絶対」と。ムチャクチャな倒置法で。ハッキリした物言いとみせかけて実はハッキリしていない。常に迷いがつきまとう。それではナゼ、迷うのか。それは槇原敬之の歌の主人公は永遠に社会制度に組み込まれることがないからだ。永遠に20代である代わりに永遠に定職に就くことはない。従って同棲相手と結婚することもない。永遠のモラトリアムの中で迷い続けることを許されたピーターパンの世界である。

「迷い探し続けることが 答えになること 僕は知っているから」(どんなときも。)

「わからないことだらけでも 本当のことだけ探してゆこう そんな気持ちを誰もがきっと「青春」と呼ぶのだろう」(GREEN DAYS)

槇原ソングにおいて「迷う」ことや「探す」lことは肯定されている。また、槇原ソングでは貧しい同棲生活の中でも小さな幸せさえあればそれを支えに生きていける、といった描写も多い。(「今年の冬」「どうしようもない僕に天使が降りてきた」「僕の彼女はウェイトレス」)

このままでは槇原ソングはフワフワしたフリーター賛歌ばかりのバブル歌手である。だが、槇原ソングのキモは更にその続きを描くところにある。むしろこっからが重要。

槇原ソングの主人公たちの恋は絶対に成就しないのだ。あれほど膨大な量の恋愛ソングを作っていながら「結婚」というゴールに至る歌、つまりブライダルソングが存在しないのである。「キミをきっと幸せにするよ、かわいい子供を産んで幸せな家庭を築こう」という歌は存在しない。その代わりにあるのは「別れの歌」なのだ。(「この傘をたためば」「髪を切る日」「NG」「Such A Lovely Place」「花水木」)

つまり、槇原ソングは恋愛や、思春期から大人へと成長する過程における「迷い」「探し」についてのみ歌われており、就職したり結婚したりすることのない世界なのである。子供が産まれることはありえないし、30年ローンで家を建てることもない。せいぜいローンで中古車を買うぐらいである。こうした槇原ワールドは槇原氏の人生やセクシャリティーと密接に関わっている。槇原ワールドに通低するモラトリアム感は三年も浪人生活を送った後、大学合格するも、結局キャンパスライフを送らなかった喪失感に起因しているのだろう。また、恋愛がけっして結婚などという形で社会制度と関わらないのは槇原氏のセクシャリティーを考えれば必然である。では槇原ソングの登場人物たちはどこをゴールに設定し、なにを人生の目的としているのか。この17年間、不明のままである。あれほどの国民的な支持を得ながら、槇原ソングが「人生の目的」を提示したことはない。ただし、漠然とした「人生のコンセプト」を標榜することはある。「ひとりひとりが世界にひとつだけの花なのだからそれぞれに努力をすべきだ」といったような。だが、登場人物たちにゴールを設定することはない。その代わりに槇原ワールドが描いてきたのは「幸せな一瞬の風景」である。ドライブデートで渋滞に巻き込まれるも、仲直りのキスをする二人(「Darlin」)ベッドで眠そうな君をずっと見つめてる(「Homework」)観覧車で二人きり、でも言い出せない(「てっぺんまでもうすぐ」)

これらの恋人たちが必ず別れを迎える、というのが槇原ワールドの真髄である。ある意味、槇原ワールドとは決して旧態依然たる社会システムに与しない、という反社会的ワールドでもあるのだ。「大人になる」ということは「あなたの中の槇原ワールドを捨てなさい」という意味でもある。槇原ワールドが危険なのは、その反社会的思想もさることながら、一見反社会的に見えない、ということであろう。槇原氏が一見して反社会的な風貌で、凶悪なサウンドを奏でる人物ならば話は早いのだが、槇原氏は風貌は好青年そのもの。その音楽も国民的といえるほど親しみやすく、カラオケとの親和性も高いものだ。故に若者たちは槇原ワールドと現実との区別がつかなくなる。槇原ワールドに決定的に欠けているのは経済感覚である。実際、同棲生活というものは恋とか愛ではなく、経済によっていとも簡単に破綻する。槇原ワールドに描かれる同棲生活は現代の社会状況、経済事情を考えればファンタジーである。槇原ワールドが経済感覚に乏しいのは槇原氏が経済的に逼迫した経験を持たないからだろう。でも、大抵のフリーターカップルは逼迫している。カネによって恋も愛も砕け散る。2007年、現在、フリーターを描く表現において「経済」の問題をどう描いたかでその評価は決まると思う。

第44回文藝賞受賞作「青色讃歌」は20代後半のフリーターが主人公だ。主人公、高橋はキャバクラ嬢めぐみと同棲中だ。高橋は大学卒業後、5年間フリーターをやっていたが現在就職活動中だ。そして落ち続けている。めぐみは最近、石を拾ってきては石にメモを敷いて日記代わりにしている。めぐみは高橋に「ヒマならいなくなった猫(マリー)を探してこい」という。高橋は素直にそこら中を探すがみつからない。ビラをつくろうとパソコンに強い友人、設楽にビラづくりを頼む。設楽は三年間デザイン会社に勤めていたが今は山内さんという工学部大学院卒の人物とネット株で稼いでいる。ビラをめぐみと近所にバラまいたがまともな反応はなかった。ある日、めぐみはキャバ嬢をやめるというので高橋は連日バイトを入れた。川辺の草刈のバイトで肉体労働だったが、充実していた。だが、先輩のおじさんには「学生ならしっかり勉強せよ。こんな仕事に戻ってきたらダメだ」といわれる。とっくに大学は卒業している、とは言えなかった。友人のバンドのライブイベントに行く。客は少なく、友人のバンドもマンネリ化していた。高橋はひょんなことから就職が決まった。設楽の紹介だ。デザイン会社の営業である。設楽たちと高橋の就職祝いが開かれた。朝まで飲んだあと、夜明けの工事現場でマリーを見つけた。マリーは死んでいた。高橋は近くにあったシャベルで穴を掘り、マリーを埋めた。そしてマリーの上の石を持ち帰った。マリーのことをめぐみに告げるとめぐみは引きこもってしまった。以前、ビラを見てメールをくれた少女に高橋とめぐみは会いに行く。めぐみは初対面の少女と打ち解け、元気さを取り戻したようだった。その晩、ふたりは久しぶりにセックスした。夜明けごろめぐみに起こされ、ふたりは自転車で川を上った。めぐみは川の真ん中までいくとリュックを開け、今まで集めた石を捨てた。その石の山に高橋は乗ろうとして山は崩れた。めぐみは文句を言ったが、やがてふたりは川岸へ向かった。(了)

典型的なフリーター小説です。角田光代のデビュー作あたりから連綿と続くアレです。そして作者の考えるモラトリアム感覚がとても槇原ワールド的である。「ゴールを設定しない感じ(例えば結婚等)」「その代わりその日常を克明に描く」「経済に対してあまり深く考察していないようだ」もちろん、槇原ワールド的、即反社会的小説ではない。問題は丹下健太ワールドが槇原ワールドのように社会と対話ができているか、時代の空気が吸えているか、である。ということについて明日は掘り下げてみたい。

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2007年10月 8日 (月)

無人島レコード(木村紅美「島の夜」角川書店刊)

 「せっかく南の島を舞台にしておきながら、ナンで無人島レコの話がないんですか!?」

と、角川書店に現在問い合わせが殺到している。ムリもない。沖縄本島ならイザ知らず、この小説は竹富島を中心に石垣島や波照間島など八重山諸島を舞台に繰り広げられる青春群像劇なのだ。やっぱ、南の島といえば、無人島レコでしょ

「イヤ、竹富島は無人じゃないから」

そんなのは言い訳にならない。どうせ人口300人くらいっしょ。無人島みたいなものである。むじんくんが無人でないのと同じ理屈である。白い砂浜とか透き通るような海とか淡い恋とか三線の音色とか(それはアリ)どうでもいい。要は無人島レコである。

トシミさん「ワタシのムジレコはやっぱフランソワーズケヴォーキアンのMixCDね。アレがあれば一晩中踊りまくれるわ。ホレ、ワタシオカマだからハウス以外聴けないのよね」

波子「わ、わたしは、せっかく南の島で一枚しかCD持ってこれないんだったら登川誠仁の「緑の沖縄」の入ってるソウルフラワーユニオンのベスト盤、ゴースト・ヒッツ00~05だわ」

トシミさん「フン、作者みたいな趣味ね。でも、無人島レコでベスト盤は邪道だわ。オリジナルコンセプトアルバムを小説を読むようにじっくり聴くのが真の無人島レコってもんよ」

小百合さん「そうかしらベスト盤はアリだと思うわ。だって無人島レコ2では鈴木さえ子さんが古今亭志ん生落語ベストを選んでいるし。わたしは中島みゆきベスト「大吟醸」「大銀幕」に限るわ」

トシミ・波子「(ウワ~いかにも38歳処女が好みそうなアーティスト……)」

トシミ「っていうかアンタ、無人島レコは一枚しか持っていけないっていうのが原則よ!そんなそんな調子だからいつまでたっても男ができないのよ!」

小百合「ムギー! オカマのアンタにいわれたくないわあ! ムギー!」

kenzee「まあまあ。ケンカはよくないね。キミたちは無人島レコを少しナメてないか? 無人島レコっていうのはヘタすりゃ一生つきあわなきゃいけない一生の伴侶となるべき一枚のことさ。辛いとき、悲しいとき、病めるとき、また幸せの絶頂のときにも人生のサントラとなるべき音楽がその一枚に収まってなきゃいけない。無人島で生きていくさまざまなシチュエーションに対応する一枚でなきゃいけないのさ。まず、トシミさん、南の島でハウスは考えモノだね。ハウスは本来あなたがかつていたような場所、すなわち新宿2丁目とか大阪の堂山のゴチャゴチャしたあたりで初めて威力を発揮する音楽さ。そして小百合さん。誰もいない南の島の砂浜であなたのような行かず後家の38歳処女が中島みゆきベストを二枚続けて聴いたらどうなるか? わかるよね?」

小百合さん「じ、自殺するかも知れないわ!」

kenzee「そうだろう。そう考えると波子のソウルフラワーベストはいかにも最適なチョイスと思われるが……」

波子「でしょっ」

kenzee「だが、元を正せばパンク~ニューウェイブから出発した彼らの音楽は南の島で聴くぶんにはちょいとヘヴィーなのさ。「緑の沖縄」を除いてね」

トシミさん「じゃあ、kenzeeの無人島レコはなんなのよ!」

kenzee「よくぞきいてくれました! ああ、ワタシにもついに来たのね。「無人島レコ質問され日」が。まず、オレには好きなレコードが山ほどある。パソコンのハードディスクには常に1万3000曲のwmaデータが常駐している(マジ)。そんなオレが一枚を選ぶのだから「単に好き」といったレベルの選択では到底選びきれないのさ。第一、無人島に流れついたからには脱出しなくてはならない。そのためには「音楽を聴く」以上にさまざまな用途に対応する機能を持ち合わせてなくちゃいけないのさ。無人島レコってヤツは」

トシミさん「じれったいわね。で、アンタの無人島レコはいったいなんなのよ」

kenzee「コイツさ。このTHE CRAZY RIDER横浜銀蠅ROLLING SPECIALの「仏恥義理」は裏表ともにキラキラ光るコーティング加工が施されている。つまり、イザ、飛行機やヘリコ等にSOS信号を送るさいにもこのジャケを反射板として使うことができるのさ。だからできればアナログであることが望ましい」

喫茶店のオバァ「島にはレコードなんていらないんだよ! 三線の音色があれば充分なのさ」

全員「その通りです」

と、いいがかりはこのくらいにして木村紅美氏の新刊「島の夜」である。かなりの南の島、竹富島に女子大生、波子はひとりでやってきた。民宿「ヤポネシアン・ハウス」は波子の父が経営している。父は波子が小さいころに家を出て行き、波子は母と祖母に育てられた。ガイドブックで父がここで民宿を経営しているのを知り、父に会いに来たのだ。母達にはそのことは言っていない。父はもと、プレイボーイの美少年であった。モテた。たくさんの女性とつきあっては別れた。自分のような隠し子も何人かいるようだ。波子は民宿でオカマのトシミさん、38歳処女の小百合さんと出会う。トシミさんは始終、明るくふるまっているが実は旅先で死んだという別れた彼氏の足跡をたどってここまで流れ着いた。小百合さんは秋田の出身で東京で15年間OLをしていたが親の介護のため、来週には秋田に帰らなくてはならない。民宿のヘルパー、雪ちゃんは現在の父の彼氏だ。オヤジから雪ちゃんを取り返すため、東京からロック野郎、景くんがやってきた。この地域ではもう初夏といっていい三月の終わり。彼らにとって忘れられない4日間となる。

という話です。この小説の草稿はデビュー前にすでに書かれていたという。よく「処女作には作家の全てのウンヌン」みたいな言い方があるが、この小説には島の描写や風俗が丹念に書き込まれていて、そういう「観光的な」側面の印象が強いのだが、その手の南方要素を取り除くと残るのはのちの木村作品につながるテーマである。例えば、死んだ彼氏の足跡を追ってはるばる南の果てまで彼氏の痕跡を探し続けるトシミさんは「風化する女」の時野桃子の原型を思わせるし、38歳処女の小百合さんの10年後はれい子さんを思わせる。複雑な家庭で育った波子が居場所を求めて(波子は放蕩者の父の子であるという理由で母からは疎ましがられていた)南へやってくる姿は「ねぐら探し」のまりあとオーバーラップするのだ。雪ちゃんと景くんはヨリを戻し、東京に戻ることを予感させる。波子は来週には大学へ戻る。小百合さんには介護が待ち受けている。トシミさんは彼氏の足跡をたどり終えたら再びゲイの世界へ帰ってゆくだろう。社会の根付く前の一瞬について描かれた作品といえば「海行き」である。つまり、「島の夜」は木村紅美ベストなのだ。

トシミさん「ベスト盤はダメだっていったじゃない!」

ボケが思わぬ伏線になることもある。この小説は「純文学作家」となってしまった今となってはだせないテイストがある。バンドのインディーズ時代にしかない熱気というか。のちの木村作品のあらゆるテーマがまだ未完成な形で、生煮えだがグツグツいっているのが聞こえる。この「島の夜」においては重要なテイストでありながら、未だ完成品として発表されていないテーマがある。マイノリティへの視点である。人口300人の島にとってオカマは異物以外の何者でもない。38歳処女もまた、作中で述べられている通りマイノリティである。波子と父の関係も一般家庭の概念から外れてしまっている。雪ちゃんも景くんも島にはそぐわない人間である。誰にとってもこの島は「居場所」ではない。彼らはここからでていくのだ。それでは「島」はただのモラトリアムだろうか。そもそもモラトリアムとは悪いことなのか。この小説には社会に根付くまえの人間だけが持つ悲しみと熱気がある。自由がある。作中、波子はいう。旅は旅だ。「観光」でも「自分探し」でもない。

そして、この少し、冗長で未成熟でわずかな熱を孕んだこの小説。これを書いた無名の作者は旅を終え、プロとして作家活動を始めることになる。

愛すべき未完成小説の登場である。

トシミさん「ちょっとそこのヘッポコ評論家! ナニこのキザな原稿。最近アンタ、キメ過ぎなのよ、こないだの中脇初枝論といい。なにが「愛すべき未完成小説」よ! それ、加藤典洋の「勇気ある失敗作」と同レベルの表現ね!」

ヘッポコ「おい、そんなモンと並べるな! 加藤典洋怒ってくんぞ!」

波子「そうよ! で、アンタの真の無人島レコはなんなのよ!」

ヘッポコ「まだ引っ張るのかい? あ、そういえば木村さんのケータイ小説、連載始まったらしいんだけどオレのムーバP506iCでは閲覧できないみたいなんだ。ま、そのうちムーバ自体使えなくなるらしいけどね。この小説にピッタリのサントラがあるとしたら……。まだ何者でもない若いヤツラが南の島でブラブラしてて、でもそんな時間もあとわずか…そんなシチュエーションにピッタリなのは北野武作品、久石譲「ソナチネ・サントラ盤」だろうね。三線や沖縄音階を使った久石作品の中でもかなり南方感の強い一枚さ。これとオリオンビールと泡盛とミミガーとか軽いツマミ持って夜の浜でボンヤリできたらスゴイよ」

全員「それはスゴイわ」

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