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2008年3月20日 (木)

「ニッポンの評論はどこへいくのか」その3(「11人座談会」文學界4月号)

司会者「座談会ではケータイ小説問題にも触れてますがみんな割りと楽観的ですよね」
kenzee「ケータイ小説と文学は関係ないと思ってるんじゃないかな?」
司会者「筒井康隆氏の発言にもあるようにラノベには割りと関心があるようです」
kenzee「実際に筒井氏はラノベ(ダンシング・ヴァニティ)を発表したし桜庭一樹が直木賞獲るご時世ですからね。ラノベにはみんな興味を持ってるんだと思う。でもケータイ小説についてはまともに論じられることがありませんね」
司会者「ケータイ小説と文学は関係ないんですかね」
kenzee教授「関係あるよ。大有りだよ。そのまえに断っておかなければならないことがある。美嘉の「恋空」ってのがあるだろう。アレ書いたの実はワタシなのだ」
司会者「エッ! てっきり美嘉とは20代の若い女性かと思ってました」
kenzee教授「ゴメンネ。本当はおっぱいパブマニアのこのオレが書いたのだ。美嘉はオレのペンネームなの」
kenzee「じゃあ儲かってしょうがないんじゃないですか?」
kenzee教授「もう最近、毎晩新地でドンペリ開けまくってるヨ~ン。もう毎日アマゾンで「関連リスト」値段見ないで全クリックよ」
kenzee「億単位で稼いでるワリにセコいな」
司会者「家とか買ったらどうです?」
kenzee教授「今、確定申告じゃん。ボンヤリしてたら税金で5千万ぐらい持っていかれちゃうんだよね。来年から法人化しようと思ってるのヨ。経費でおっぱいパブ代も落とせるし」
司会者「法人名はどうするんですか」
オフィスkenzee。代表者kenzee教授。(評論、講演承ります)
kenzee「アホだろ。アンタ」
kenzee教授「あと、言い忘れてたけど綿矢りさの「蹴りたい背中」ってのもオレが書いたのね」
kenzee「ウソ!?」
司会者「じゃあこの女性は一体誰なのですか?」
kenzee教授「ああ、ソレ、サンミュージック所属のモデルさん。微妙なトコが作家っぽいかなあと思って「綿矢りさ」のビジュアルを担当してもらってるんだ。書いてるのは全部オレ」
司会者「驚愕の事実です」
kenzee「泣きそうですよ。あの可愛らしい女性が「蹴りたい背中」を書いたのだと思って萌えてたのに」
kenzee教授「この事実が判明したらどうなると思う?」
kenzee「確実に綿矢りさのファンは激減します」
司会者「綿矢フィーバーのときに熱狂したキモオタファンたちは自殺するんじゃないですかね」
kenzee教授「恐らくそうなるだろうね。でも、それおかしくない? だって「蹴りたい背中」のテクスト自体はなんにも変化していないのだ。「蹴りたい背中」の読者は「蹴りたい背中」というテクストを読んでいたのではないのか?」
kenzee「我々読者は「蹴りたい背中」のテクストだけを読んでいたのではない。あの「化粧っ気のないフツーの女性、多分フツーのサラリーマン家庭で育ったらしいフツーの女の子が書いた作品」というストーリー込みであのテクストに触れていたのです。デビュー作にあったような無邪気さが作品を重ねるごとに作者の成長とともに深みを増していくところに純文学としての迫力を感じていたのです」
kenzee教授「それもオレが意図してそういう風に書いたからね」
司会者「ガッカリですよ」
kenzee教授「つまり、綿矢りさの読者は綿矢りさ作品のテクストを読んでいたのではなく、作家論として読んでいたわけだ。ナオコーラさんの嫌がる読み方だけど、純文学における一般的な読者の態度なんだね。では翻って「恋空」だが、この事実が判明したとして「恋空」の読者は激減するだろうか?」
司会者・kenzee「!?」
kenzee教授「あくまで仮説だが、このヒヒオヤジのオレが書いてることがバレても「恋空」の読者は減らない。読者が「恋空」のテクストから受ける感動の質はいささかも変化しない。間違ってる?」
kenzee「そうでしょうね」
kenzee教授「その根拠として「Deep Love」の例が挙げられる。「Deep Love」はケータイ小説の原点といえる作品で、女子中高生を中心にシリーズ270万部の大ベストセラーとなった。内容はといえばアユという女の子が主人公でレイプされたり渋谷あたりで援助交際したりするんだが心優しい青年やおばあちゃんと出会うことによって真の愛をみつける、というものだ。当時、ワタシが不思議だったのはこの作者が20代の若い女性ではなく、いかにもウサン臭げなオッサンだったということだ。読者(中高生)の先輩にあたる年代の女性が自分の経験を赤裸々に描いて感動を得た、というのなら話はわかる。でも違うんだ。アレを書いたのは場外馬券あたり徘徊してそうなオヤジなんだよ。そんなオヤジが10代の女の子を主人公にした小説を書いたのだから…」
kenzee「普通に考えれば「キモ悪ッ! スケベオヤジ!」と思われ、リアル女子高生からは見向きもされないと考えるのが妥当でしょうね」
kenzee教授「ところが「Deep Love」は熱狂的ともいえる勢いで当の中高生たちの支持を得たのだ。同様に「恋空」の作者が私だとバレても「恋空」の人気には微塵も影響を与えないハズなのだ」
司会者「どうしてなんでしょうねえ」
kenzee教授「おそらくケータイ小説の読者は作者が誰かなんてどうでもいいのだ。美嘉でもリカでもkenzeeでも誰でもいいのだ。大事なのはテクストそのものなのだよ」
kenzee「ソレ、もしかしてナオコーラさんの理想郷かも知れないですよ」
kenzee教授「話はコロッと変わってこの記事のときに構造主義の話をチラッとしたけど軽~くおさらいします。レヴィ・ストロースは神話のなかに構造を発見した。20世紀初頭の話だ。神話は体系というものをもっている。天地創造に始まって実在の英雄や王様などに至るまで何代にも渡って物語が積み重ねられていく。そういったさまざまな神話のエピソードを分析すると似たような話が何度も登場することに気付いたのだ。古い神話は数百年、数千年という時間の淘汰を経て、洗練されると結局似たような話ばかりが生き残る、ということを発見したんだ。つまり大衆が喜ぶ話はワンパターンなのだ、ということ。このパターンをレヴィ・ストロースは「神話素」と呼んだ。そして神話素は文法のような一定の規則によって結び付けられることによって神話ができる、と考えた」
kenzee「でも、「神話」には作者がいないんですよね」
kenzee「そう、口承、伝承によって受け継がれてきたので個人の作者というものは存在しない。強いて言えば作者は「大衆」だ。「大衆」が結果的に似たような話ばかりを紡いでしまう。こういう現象をレヴィ・ストロースは「集団現象の無意識的性格」と呼んだ。そして彼は神話をこう定義したのだ「神話は作家などという特定の個人が考え出したものではなく、すべての人間の心の中にある普遍的な構築物だ」と。すべての人間の願望が物語であり、作家はそれを著す機能に過ぎないのだ、と。こうした研究によって文学は分析的な批評が可能になった。ここまでが古典的な構造主義だ。ここで発見された「構造」はハリウッド映画やロールプレイングゲームなどに応用された。神話とはつまり不特定多数の人間に受ける最大公約数の物語ってことだから。構造主義は資本主義と」結びつきやすい性質を持っていたんだね」
司会者「イヤ~このブログもたまにはマジメな話をするので昨日なんかアクセス300越えちゃってましたよ。で、その構造主義とケータイ小説と関係あるんですか?」
kenzee教授「これが大有りなのさ。どっかで豊崎由美が言ってたんだけどケータイ小説はワンパターンだと。どれもこれもでてくるエピソードはレイプ、妊娠、中絶、恋人の病死、両親の離婚。大体がこの組み合わせなんだと。アレ?って思わないかい、キミたち」
kenzee「それ、もしかして「神話素」じゃないんですか?」
kenzee教授「そうだ。ケータイ小説全体を俯瞰して言ってるワケじゃないんであんまり自信ないんだけど、ケータイ小説は多分、「ケータイ小説神話体系」とでもいうものを持っている。いくつかのパターンの「神話素」があってその組み合わせで構成される神話的構造を持っている。そう考えるとナゼ、ケータイ小説読者にとって作者はどうでもいいのか?という理由もわかる」
kenzee「でも、神話は作者不詳ですが「恋空」には匿名性が高いとはいえ、美嘉というレッキとした作者が存在します。「美嘉」という作者の書いた「恋空」というテクストを「ケータイ読者」が読むわけで、構造主義以前の読書環境と変わりないんではないですか?」
kenzee教授「神話」は「すべての人間の願望の表れであって、作者はそれを著す機能」なんだよ? ケータイ小説は読者が配信中の作品に感想を書くことができるんだけど、この「読者」ってのも書き手なんだよね。自分の小説も読んでくれって宣伝したりするらしい。で、作者は読者の要望に応えてストーリーを変えたりするらしいんだ。読者の感想で結末を変える、なんてこともザラだという」
司会者「そりゃナオコーラさんにはムリな世界だなあ」
kenzee教授「コレどういうこと? 神話は口承や伝承によって淘汰がなされてきたワケだけど今は「ケータイ」という文明の利器によってその淘汰のスピードが神話の時代とは比べ物にならないのだと思うのだ。たくさんの読者の「願望の表れ」が「作者」という機能を通して「テクスト」が書かれている、といえないだろうか?」
kenzee「レヴィ・ストロースもビックリですね」
kenzee教授「ケータイ小説の熱心な読者(つまり作者でもある)は主に10代から20代の若い女性だ。だから「すべての人間の願望」というには語弊がある。だが「10代から20代の多くを占める女性の願望」は間違いなく表されているだろう。最初に例として純文学代表として「蹴りたい背中」とケータイ小説代表として「恋空」を挙げたんだけど、私が言いたいのはこういうことだよ。「蹴りたい背中」は綿矢りさという作者個人が存在しなければ絶対存在しなかったテクストだ。だが「恋空」は美嘉が存在しなくても別の作者によって書かれていた可能性がある。ナゼなら神話とはそういうものだからだ」
司会者「わあ。スゴイですね。このブログも一応文芸評論ですからねえ」
kenzee教授「イヤ、コレ(ケータイ小説と古典的構造主義の近似性)発見したのオレが最初だと思うんだけど、どうスかね? コレ」
司会者「オモシロイんじゃないですか」
kenzee教授「座談会で諏訪氏が「ロラン・バルトはかつて作者を殺し、読者の自由を唱えましたが……」てなことを言ってるんだけどケータイ論はこことも関わっていくんだよ」
kenzee「楽しみですな」
司会者「ナオコーラさんにはケータイ小説はムリっぽいですねえ」

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コメント

こんにちは。
とても面白く読みました。ことに神話素の話とケータイ小説を面白く読みましたが、このとき、桜井亜美を思い出しました。桜井亜美とはプロジェクトに違いないと言われましたし、書いているものも、まさにケータイ小説の神話素そのまんまでしたからね。恥ずかしながら、私、桜井亜美を一時期までかたっぱしから読んでました。
また、読者の意見が反映されながら生成していく小説ということでは、ほぼリアルタイムで視聴者の意見が届き、都度シナリオが更新されていくという韓ドラの制作方法(参考→http://www.gbrc.jp/journal/amr/free/dlranklog.cgi?dl=AMR5-3-1.pdf)も思い出しました。

投稿: Lydwine. | 2008年3月20日 (木) 08時06分

Lydwineさま
韓流ドラマの話、興味深く読ませていただきました。そういえば少年ジャンプに代表される日本のコミックは自然淘汰が急速に行われるシステムでしたね。ドラゴンボールなどはその、最も洗練された形だったのでしょう。ワンピースなどの亜流を生み出した点においても。ただケータイ小説にはまだまだ疑問があります。ナゼ、レイプ妊娠中絶親の不仲恋人の死が神話素として形作られたのか。「悲劇」は神話素に多く含まれるパターンですが全部が全部じゃないんですよね。それにケータイ小説読者の年代ならいわゆる「トレンディドラマ」的な恋愛ストーリーのパターンが形作られていたとしてもおかしくないと思うのですが。桜井亜美プロジェクトの話は初めて聞きました。まあデビュー時からウサン臭さ満点だとは思っていましたが。貴重な意見をありがとうござました。

投稿: kenzee | 2008年3月20日 (木) 22時24分

kenzeeさん、こんにちは。
今回は期待通り内容濃いですね。それについてはたっぷりコメントしたいのですが、いま時間があまりなく、後で小出しにコメントしますw

Lydwineさん、お久しぶりです。
さ、桜井亜美をかたっぱしから読んでたんですか???
意外・・・・・w
さて、桜井亜美の実像についてですが、私の知る限りでは、桜井亜美の正体は90年代に援助交際系の記事で知られたフリーライターの速水由紀子さんだったと記憶しています。宮台真司さんとテレビに出ていた確か1955年生まれくらいの人で、宮台さんと内縁関係にあるとかないとか言われてたんじゃなかったかな・・・・
ともかく、桜井亜美の世界は徹底した女子高生ネットワークへの取材を通じて描かれたもので、彼女たちの声も作品にストレートに反映されたことは容易に想像できます。
だから、そういう意味では桜井亜美はある時期以降、ノンフィクション記事を書くときのプロジェクトみたいなチームで取材を行って、それに基づいて書かれた小説という形になったのではないかと推測できます。

投稿: 蘭丸 | 2008年3月21日 (金) 11時27分

kenzeeさんへ。
ケータイ小説と神話の近似性についての指摘はお見事です。ケータイ小説関連の記事ではあまりなかった指摘だと思います。私の知る限り、kenzeeさんと同じような指摘を行っていたのは二人だけです。
一人は中森明夫さん。
週刊朝日の連載コラム「アタシジャーナル」の2月1日号で「ケータイ小説の正体」と題して次のように書いています。

「作者不詳、どれも似たような物語で、受け手の反応が物語に繰り込まれるインタラクティブ性――これらは皆、近代以前の民話や昔話、語り物、いわゆる口承文芸の特徴ともいえる。つまりケータイ小説とは物語帰り、前近代回帰なのだ。小説は物語批判として始まった。グーテンベルクの印刷機と近代社会の成立が前提となる」
「いわばケータイ小説のほうが近代文学より保守的であり、古典的なのだ。ケータイ小説を読むと、始原の物語の野蛮さを感じる。携帯メディアの発展は再部族化をもたらし、若い世代はケータイ小説によって物語に支配されているのだ。解放しなければならない。真の小説によって。それこそが21世紀の文学者たちの大きな使命となるだろう」

そしてもう一人は、本田透さん。『電波男』で有名になり、ライトノベル作家であり評論家でもある本田さんは2月29日初版発行の『ケータイ小説はなぜ売れるのか』(ソフトバンク新書)でさらに詳細にケータイ小説の市場分析、文芸評論、ケータイ小説の始まりから出版社の動きまで取材し論評してます。この中で、本田さんはkenzeeさんと同様の指摘を行っています。他にも面白い指摘が満載なんですが、ここでは一つだけ挙げます。

ケータイ小説は『DeepLove』が東京渋谷の援助交際から始まってたので、その印象が強いのですが、実はその後はほとんど舞台は地方都市。ケータイ小説が売れてるのは圧倒的に地方都市なのだそうです。だから、ケータイ小説の読者にとって、テレビで見る東京の消費はリアルではなく、地方都市の寂れ感が背景にあり、だからケータイ小説はトレンディドラマには共感できない人々にとってリアルな物語として拡大したということみたいです。東京に生きる女の子が消費の圧迫を受けてるのに対し、地方に生きてる女の子は消費の圧迫ではなく、圧倒的に「とにかく誰かと恋愛関係になってないといけない」という圧迫感の中で生きてる、それが彼女たちのリアルだというのです。

とりあえず時間になりましたので、その他の私の感想などはまた後ほど・・・w

投稿: 蘭丸 | 2008年3月21日 (金) 12時04分

蘭丸さま。
スゴイですね相変わらずデータベースが! まあ自分が気付くことなんて大体誰かがとっくにやってるようなことなんですが。そうですか中森明夫が……。確かに現在のケータイ小説は「Deep love」とはだいぶ様相が変わってきてますよね。しかし、上記の二人が指摘したのが先月かよ! ボクのが思いっきりパクリ評論みたいになってしまいました。ボクの人生いっつもこんなんです。ホント、頭冷やして出直してきます…

投稿: kenzee | 2008年3月22日 (土) 00時02分

kenzeeさん。
いえいえ、誰もパクリなんて思ってませんから。だって、ここは文芸誌をナナメに読むプログであって、文学界4月号の座談会でケータイ小説が話題になったからkenzeeさんは3月に書いたわけですし、2月も3月も誤差の範囲でしょう。それより、レヴィ・ストロースの言う「神話素」という言葉も今回初めて目にしました。kenzeeさんの書評こそがオーソドックスな文芸評論であり、かつトリオ漫談でもあると感心した次第です。少なくとも文学界の座談会ではそのような指摘によって議論が深まることはなかったわけで、その意味ではこのブログでケータイ小説の本質に自ら触れたkenzeeさんの指摘は、今後ここでの純文学書評にとっても大きな意味があると思っています。
ちなみに、この座談会については、まだ続きますよね? 田中弥生さんや諏訪哲史さんの発言にkenzeeさんが反応してたようだったので、楽しみにしているんです。

さて、それはそうと、本日15時から青山ブックセンター本店で津村記久子&柴崎友香&山崎ナオコーラのトークショーがありますので、これから行ってまいります・・・・w

投稿: 蘭丸 | 2008年3月22日 (土) 13時48分

アッ!!そういえば今日は運命の日!
津村(神)記久子&柴崎(悪役。でもラブ)友香&ナオコーラさん(芸術家)の戦いの日でした。羨ましいっ!東京の人はいいなあ。どんな感じだったんでしょうねえ。やっぱりナオコーラさんは紫式部の話をしたのかな?レポート楽しみにしてま~ス。

投稿: kenzee | 2008年3月22日 (土) 19時45分

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