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2008年4月22日 (火)

「月食の日」ファイナル(木村紅美「月食の日」文學界5月号)

     ~前回までのあらすじ~

kenzee教授ウソ解説がバレてショボン。そんな教授を尻目にこの数ヶ月目一杯仕事をした木村先生南の島へバカンス! そこで教授一計を案じる。あんまり技術的、技法的な話するとボロがでるので極力印象批評で逃げ切る作戦! コードネームは渡辺淳一大作戦。さて、今夜はどんな愉快なトークが飛び出しますことやら……(中村正ナレーション口調で)

司会者「まず前々回の「kenzeeさん、アンタァ…」における蘭丸さんのボケの採点からいきいと思います。それではみなさん、お手元のフリップオープン!」

kenzee「2ボケー」

kenzee教授「80スベリー」

司会者「ホント、二人ともキビシイですね。あなたたち、「月食の日」でボケれるんですか?」

kenzee教授「やってみようじゃないか」

   ~連作短篇第一回のタイトルが「月食の日」。では第二回目のタイトルは?~

kenzee教授「日直の日」

司会者「……」

kenzee教授「当番かよ!みたいな」

司会者「後から付け足さないでください」

kenzee教授「ハ~イハ~イ」

司会者「ハイ、教授」

kenzee教授「雑穀の日」

kenzee「ダイエットかよ!みたいな」

司会者「月食」の原型をとどめてください」

kenzee教授「ポンギの日」

kenzee「バブルの頃の遊び人かよ!」

kenzee教授「広告代理店勤務かよ!」

kenzee「ハナキンかよ!」

司会者「もうムリです」

kenzee教授「ホンット、オレらスベリ知らずだよな」

司会者「それでは「月食の日」のファイナルへと行きます」

kenzee教授「まず「月食の日」は多くの人物が登場し、視点は複数にまたがり、読者はこの世界の全てを見渡せるかのような万能感を感じるだろう。だが、空間的にはそうでも時間的にはひどく限定的な世界なのだ。今までの木村作品は主に主人公の成長を描いていたので時間的なスパンが広く取られていた。「風化する女」ならばれい子さんを失った現在があり、かつてれい子さんとランチなどをともにした過去があり、れい子さんの来し方をたどる旅にでる、という時間軸がある。「海行き」はもっとシンプルだ。すっかり大人になって分別のついた学生時代の友人たち、と過去の青春時代というベタな現在と過去の往還で描かれる。「ねぐら探し」もまりあと長井さんの出会いから沖縄への逃避行、そして突然の別れまでを時間を追って描かれる。つまり木村小説とは時間の蓄積のなかでドラマを展開してゆく自然主義の小説なのだね。それらに比べると「月食の日」はたった一日の出来事だ」

司会者「小説の舞台は2000年7月16日という限定的な時間ですが、それぞれの人物に来し方や生い立ちが触れられているのは従来の木村作品的です」

kenzee「しかし、それらの過去は現在への伏線にはなっていません。タダの人物紹介です」

kenzee教授「小説の長所として、どんな長尺のスパンにも耐えれるということがある。最近の例でいえば「肝心の子供」だ。あれは100枚の間にあっという間に4~50年の時間が過ぎてしまう。映画などの映像芸術では不得手なこんな表現も小説は可能なのだ」

司会者「その代わり、映画はその瞬間、時間を切り取る表現に長けています」

kenzee教授「シドニー・ルメットが得意とした手法だ。「12人の怒れる男」や「狼たちの午後」などは上映時間がそのままドラマの進行時間だ。タランティーノの「レザボア・ドッグス」も回想が挟まれるが時間通りにドラマが進んでいく。こういった手法の映画作品は大抵群像劇となる。ひとりのの人間に焦点を当てたところであまり変化はないからね。日本映画でその手の映画を探せばは女子校の演劇部の一日をスケッチした「櫻の園」などが挙げられる。優れた群像劇だ」

司会者「月食の日」は実に映画的だ、と言えますね」

kenzee教授「映画は当然神視点で描かれるわけだが、各々の心理や心情は行動や発言でしか表現できない。心理がわからないからこそ「12人の怒れる男」や「レザボア」は観客を引っ張ることができるのだ。そこで「月食の日」だが、今までになく具体的な名称や固有名詞が多用されていることに気付く。木村小説はこれまで、具体的な表現を控えてきた。たとえば「島の夜」に登場する舞台はディティールなどから実在する竹富島と推測されるが本文では「T島」としか書かれていない。また、「風化する女」でれい子さんの恋人らしき人物を追ってたどり着くのは「オホーツク海沿岸の町」だ。ところがこの作品は固有名詞の嵐なのだ。長崎屋、ローゾン、京成八幡駅、ニッケコルトンプラザ、などこれほど場所を限定する表現は木村作品でお目にかかったとこはない。「パークライフ」や「パレード」のころの吉田修一を思わせる」

司会者「文藝の高橋源一郎斉藤美奈子対談の言葉を借りれば「行間がなくなった」という感じですね」

kenzee教授「そうだね。解像度が高くなった、という感じだ。木村氏といえば川上弘美の激賞を受けてデビューしたが、「月食の日」は川上弘美とは真逆の世界だ」

kenzee「映画的なのは構わないのですが気持ち悪いのはこの小説には中心となる人物が存在しないことです。いくら群像劇といってもたとえば「仁義なき戦い」ならあれほど多くの人物が登場しては死んでいきますが、中心には必ず広能昌三という主人公がいて彼を中心に世界は回っている。でも、この小説には中心たる人物がいないのです。隆を中心と考えるには幸正と亜由子の関係が無関係すぎる。隣の部屋の鈴木まどかもまったく隆と関わることがないのに、やけに具体的な人物像なのだ。つまり、隆を中心にアメーバ状に広がっていく人間関係(仁義なき戦いはこれに当る)ではなくて数珠繋ぎ的に繋がっていく関係を思わせるのだ」

司会者「でも、ソレ「肝心の子供」がそうだったじゃないですか」

kenzee教授「ガルシア・マルケス「百年の孤独」もそうだ。次々人が現れては消えていく。「百年の孤独」の主人公は舞台となるマコンドの村そのものなんだね。こういう方法はガルシア・マルケスが開発したものではなくて昔からある。叙事詩や歴史物語、英雄譚などサーガと呼ばれる物語はこんな手法で書かれたものが多い。バルザックの小説は全ての作品が関連性があり、全部読むとバルザックが捉えたフランス社会が見えてくる、という寸法だ」

司会者「壮大ですね」

kenzee教授「アメリカではフォークナーがいる。「響きと怒り」「八月の光」「アブサロム、アブサロム」などの長編は同じアメリカ南部の町、ヨクナパトウファ郡を舞台に展開される。日本に目を転じればやはり中上健次だ。「枯木灘」「岬」「地の果て 至上の時」はすべて中上氏の故郷、新宮の「路地」と呼ばれる地域を舞台としている。人物も関連している。最近の作家なら阿部和重の「神町サーガ」がこうした試みを受け継いでいる。「シンセミア」や「グランドフィナーレ」は同じ作品世界を背景に書かれている」

司会者「佐藤友哉にも鏡家サーガシリーズがありますね」

kenzee教授「そこで、「月食の日」はナゼここまで具体的な名称にこだわるのか、と考えるとやはり、将来的にこの世界をサーガ化していくための布石なのではないか、と考えるのが妥当ではないかと思うのだ」

司会者「本八幡駅周辺サーガ!」

kenzee「せま!」

kenzee「だって直接隆に関係ない人物にも妙に存在感あるのがヘンなんだ。代表は亜由子だ。この女は隆とも詩織ともなんにも関わらないのになんでこんなに存在感があるのか」

司会者「初期設定も細かいですしね」

kenzee教授「もうひとり不気味な人物がいる。鈴木まどかだ。この年頃のOLは彼氏とか友人の気配が感じられないのだ。彼女は月食のこの日、夕方から5時間、ひとりでブラブラしている。トム・クルーズ(←ここに性格の手がかりが)の映画を観て、スパゲティ屋と喫茶店をハシゴしてなんと一人でカラオケに行くのだ」

司会者「これはブキミですね。一人ファミレス、一人居酒屋くらいならセーフですが」

kenzee「一人カラオケなんて、こんなネクラなボクでも行ったことないですよ」

kenzee教授「そして鈴木まどかは存分に歌いまくるのだ。この小説がこれで完結するならこんな不気味な人物や行動はまったく不必要だ」

司会者「バラバラな印象がありすよね」

kenzee教授「それぞれの行動や思惑がバラバラでチグハグだ。肝心のラストシーンも隆はイヤがる詩織にムリクリガムランのCDを貸す」

司会者「ハッキリ言って詩織はイヤがってますしね」

kenzee教授「それを不思議そうにまどかは眺めている」

司会者「そして幸正と亜由子の行方は最後までわからずじまい」

kenzee「実験的な作品ですね。こういうことを阿部和重とか佐藤友哉がやるのはわかりますよ。ネクラ粘着タイプの彼らがね」

kenzee教授「でも作者はあの切ない青春小説でオナジミの木村紅美なのだ」

司会者「先生ヘンなもん食ったんじゃないですか? 外国で」

kenzee教授「ちょっと幻覚がでてるのかも知れん」

司会者「マジックマッシュルームってスゴイ幻覚症状と万能感に包まれるそうですね」

kenzee教授「そのあとバッドトリップに陥るのだ」

司会者「というワケで、「月食の日」ファイナルはこれが結論です。それでは教授のほうからどうぞ!」

kenzee教授「先生、外国でヘンなキノコには気をつけて!」

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コメント

kenzeeさん、こんばんは。
「2ボケー、80スベリ―」の蘭丸です(TT)

ふむふむ。すると、kenzeeさんも月食の日はシリーズ第1回作品と見るのが妥当という結論なんですね。私とは違う角度からのご指摘ですけど、やっぱりそう思いますよね。というか、読みたいです。この作品の登場人物たちがまだまだ動いていく姿を。
で、シリーズ化して単行本になるとき、「月食の日」「日蝕の日」「日直の日」「雑穀の日」とか「日」で統一されていたら、それはすごく興味深いかもしれませんね。後ろ3つはないでしょうけど(笑
楽しみです。

投稿: 蘭丸 | 2008年4月22日 (火) 21時58分

蘭丸さん。
「月食の日」がコレで終わってしまうのはあまりに不自然です。最大の問題は幸正と亜由子問題。彼らを野放しにして終了では作家としてどうかという話です。あと、地球儀のシーンがこの小説のクライマックスならば路子との思い出は「一緒にバリに行った」ってことだけに集約されてしまいますが、彼らの思い出の中心にあるのは美術館めぐりのはずでその辺チグハグです。このような「ナゾばっかり散りばめておいてあとで回収しないフロシキ拡げて畳まない小説」のことを我々専門家筋では「村上春樹ねじまき鳥クロニクル戦法」と呼んでいますが、木村先生はアレで結構ストーリーテリングに関して誠実なタイプの作家なので考えられるのは次の三つです。
①中上健次や阿部和重バリの壮大な叙事詩に発展する。
②木村先生南の島で「これナントカカントカペペロンチーノ」とか言いながらヘンなキノコ食べた。で、ギンギンの状態で書き上げたサイケデリック小説。
③木村先生、ガルシア・マルケス「百年の孤独」か吉田修一「パレード」のいずれかを読んだ。
ボクはやっぱり②だと思いますね。

投稿: kenzee | 2008年4月23日 (水) 00時17分

う~~~むむ、私としては、これ以上書いて欲しくないです。まして幸正と亜由子の話は書いて欲しくない。いわゆる読者に想像させておくだけにして欲しい。書くなら、鈴木まどかくらいにして欲しいなぁ。
こうした三人称なら、すべてが書けるはずなのに、書かない、ということにこそ、この小説の意味を見出したいです。私の記事の論点はまさにそこでした。小説は書き尽くせないということ。
こうした三人称で、サーガを書いてしまったのでは、結局19世紀以来の近代小説が果たそうとして果たせないと気づかされたはずの小説の全体化、全体小説への指向に向かってしまうのでは? 私としては、それは残念な選択です。

投稿: Lydwine. | 2008年4月23日 (水) 23時03分

Lydwineさん、こんばんは。
蘭丸です。

仰りたいことは理解しているつもりですが、19世紀的な意味の全体小説を書いてほしいなどと言っているわけではありません。
私は幸正と亜由子の話はどうでもよいのです。
まずは、隆という全盲の青年の普通の生活をきちんと描いた木村さんに、その阪神淡路大震災の話も書いてほしいのです。それは小説が全部書かないという話とは別だと思います。また、どちらかといえば、鈴木まどかも含めて普通の人の普通の悩みが書かれ、隆自体もそれに埋もれることが作者の意図にかなっていると思うのです。
木村さんは「イギリス海岸」で見せたように、余韻を書くのが巧い人です。決して19世紀のような全体小説など目指すことはないと思います。そのうえで、書くべきことを書いていくことを木村さんに求めていきたいと思うのです。

投稿: 蘭丸 | 2008年4月24日 (木) 01時54分

ひゃ~
昨夜、お酒に酔った勢いで言葉足らずなことを書いてしまいました。
皆様、失礼の段、どうかお許しくださいませ(TT

投稿: 蘭丸 | 2008年4月24日 (木) 12時55分

Lydwineさん。蘭丸さん。どうも
「重力のおともだち」拝読いたしました。中村文則テイストのちょっと危険な香りのクライムストーリー。映画のカメラワークを思わせる視点の切り替え、腐敗してゆく子供の頭部と地球儀のシーンが挟まれるトコにゾクゾクです。「重力…」はまずあのカメラワークありきで書かれた小説で、登場人物はサーファーの彼女、コンビニのチンピラに至るまで必然性があります。ところが「月食の日」はアレで完結とすれば非常に散漫な印象なんですね。短篇小説はタイトさが命だと思うのですよ。その点「重力…」は引き締まった小説です。ただ、「犯罪小説」のための犯罪、という印象も否めませんが…。中村文則にも吉村萬壱にも感じることですけどね。亜由子も鈴木まどかも阪神大震災も隆が盲目のキーボーディストであったという事実もなんにも伏線として生きてこないってのはどうでしょうね。それらは読者はナゾとして受け取って読むワケですよ。(特に亜由子)「世界とは散漫なものだ」という意図をこめてこれが書かれたのなら成功だと思います。でもLydwineさんの作品は散漫ではなかったですよ。ボクは人物とか人間関係ではなく「八幡駅周辺」という舞台そのものに意味を持たせていくのかなあと思ったんですが。どこにでもある日本の郊外のダサイ感じというか。こうなると固有名詞に必然性がある。日常的な「百年の孤独」をやろうとしているのかな、と。それは全体小説を目指すのとは別の試みかなあと思うのですが。

投稿: kenzee | 2008年4月25日 (金) 00時40分

ひゃっ! 拙作を読んでくださった由、お恥ずかしい限りです。

投稿: Lydwine. | 2008年4月25日 (金) 23時50分

読んじゃいマシタ。

投稿: kenzee | 2008年4月26日 (土) 00時10分

kenzeeさん、お久しぶりです。
GWはいかがお過ごしでしたか?

私は産経新聞を取っているのですが、文芸時評で『月食の日』について触れられていました。評者は石原千秋さん(早稲田大学教授)です。
「木村紅美『月食の日』の中心は、目の見えない有山隆が、月食の日に友人の家で夕食を取るというだけの話だが、ほかの家とまちがえないようにアパートのドアのノブに輪ゴムをかけておくといった細部の積み上げが、「そうか、目の見えない人の日常はこうして成り立っているのか」という驚きをもたらす。僕たちの日常が異化(見慣れないものになること)されるのである。ただし、視点の切り替えの多さが、ただそれだけの小説ではない何かを、読後感としてもたらす」

これで終わり。
その何かが何かってことを書くのがあんたの役目でしょーが!!
と思ったのでありました。
他の時評ではどんな扱いだったのかなあ。
早稲田大教授よりkenzee教授の方がためになるなあと思ったのでありましたw

今月も楽しみにしていますので、よろしくです。

投稿: 蘭丸 | 2008年5月 7日 (水) 19時35分

蘭丸さん。お久しぶりです。
GWは飲んだり食ったりしてる間に過ぎていってしまいました。文芸誌以外の書物をまとめて読んだり散歩したり鯨食って酒飲んで冷麺食って寝て、気がついたら終わっていたのだった。ア、盛岡とか行ってみれば良かったんジャン! とか今頃気がついてみたり。長いこと休んでてスイマセン。そういや一年前って一日のアクセス数10もいかないヘッポコブログだったんですよ。なんにも更新してないのに余裕で100アクセス超える今の状況にフト我に返ってナニが起こったんだっけ?とか思ったりしています。去年の今頃に例えば作家の方からコメントがついたり(怒りの、でしたが)作家の方からメールをいただいたり、いろんな方からリンクを張っていただいたり、ログの中に出版社ドメインのIPが出てきたり、とかいったことはまったくの想定外のことでした。(続く)

投稿: kenzee | 2008年5月 8日 (木) 01時31分

(続き)で、2年ぶりぐらいに実家の近所とか(奈良で、鉄道が開通した所で風景が一変した)ブラブラ散歩とかしててヘッドフォンとかしながらかなり変質者ムードなんですが、シミジミしちゃったんですね。
ALL ABOUTってサイトあるじゃないスか。アレで「純文学」で検索するとコレが外部リンク張られてて「漫談形式で、でも読みが深い…」とか紹介されてて口ポカンみたいな。随分無責任に書いてきたつもりなんですが少なからず価値を認めてくれる人がいたりするのかなあとか。こういうシミったれた話は本編の記事にはあんまりできませんしまあ聞いてくれる人も蘭丸さんぐらいしかいないのでアレなんですがとっても不思議な気分です。「他人にわかる形でアピールしないと他人は自分の作品に注意を払ってくれない」と山下達郎が自主制作盤を作ったときの話で言ってたんですが「他人にわかる形」というのと「ブログ」という形式は自分に合ってたんだと思いますね。
 明らかに才能ないのに何年も小説書き続けてる人とかいるじゃないスか。他人が価値を認めてくれるもので勝負せんとイカンのだよなあ、とかゴチャゴチャと考えていたのです。(続く)

投稿: kenzee | 2008年5月 8日 (木) 01時56分

それにしてもこんな狭い範囲(純文学でしかも新人限定)しか扱わないブログに興味持つ人がこんなにいるのかなあ、と考えると(ラノベだのベストセラーだのならわかる)やっぱり新しい人、今の時代を映すってトコに興味あるんだと思うんですよ。で、そういうメディアがないワケじゃないんですけどエライ文学者みたいな人が書く原稿ってあんまり面白くないんですね。エライ人ほど価値が定まってない作品にウッカリしたこと書くのを恐れますからね。kenzee教授ぐらいテキトーなオッサンが好きなこと言うのがホントは作品にとっては幸せなことだと思うんですがね。その点、石原先生よりkenzee教授のほうがツラの皮が厚い分、イロイロ言えるワケです。そもそもなんでこのブログを始めたのか、という話を。文学を広く普及させたい、純文学の地位向上に貢献したいと思ったから、というのは大ウソで、豊崎とか大森の例のヤツ読んで「こんなんでエエんやったらオレの方が面白いワ」と思ったからです。物事が始まるときって大体そんなモンです。

投稿: kenzee | 2008年5月 8日 (木) 02時14分

そんなイーカゲンなアレで始まったとはいえ、もうアッという間に芥川賞(つまりkenzee賞)の季節だし、ていうか文學界新人賞、群像新人賞は発表されちゃうしで、円城さんのヤツとかまだだし、成り行き上、ナオコーラさんも取り上げたいしでアワワワとか言ってます。ああ、そう言えばオレ高校ぐらいからアワアワ言ってるわ。(ハッ、村上龍の新刊が!プライマルスクリームの新譜が!でも定期テストが!みたいな意味です)
「人間とはなんと、知ることの早く、おこなうことの遅い生き物だろう!」(ゲーテ「イタリア紀行」1787年3月17日から)

投稿: kenzee | 2008年5月 8日 (木) 02時26分

ところでゲーテと言えば(歴史上の人物で最もサシで飲みに行きたい人物)一番グッとくるのはこういう言葉ですね。「君の値打ちを楽しもうと思ったら君は世の中に価値を与えなければならない」(「格言的」から)
でも、なにによって価値を与えられるかってとこが問題なワケで。ゲーテっち。
「おいしいケーキを作ろうってこと以外のことを考えちゃダメだ。他の考えが混じるとうまく膨らまないから」(瀬尾まいこ「図書館の神様」)これは私の小説の判断の基準である。
「心配するな、目一杯前向きな話ばかりだ」(BOSS THE MCザ・ブルーハーブ)自分の書くものはこうあってほしいと思いますね。でも永遠に届かない蜃気楼のようなものだとも思います。それでは今後とも当ブログをヨロ。

投稿: kenzee | 2008年5月 8日 (木) 02時49分

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