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2008年5月31日 (土)

可能性というよりリサイクル(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作)Part.3

…中原昌也ほど囲いにくい作家は稀である。例えばあるウェブサイトで公表された中原作品の感想(第14回三島賞をきっかけに)には困惑気味にこう記されているー「中原昌也の小説jの面白さーとくに一定の長さを無理に確保しようとしたかに見える「あらゆる場所に花束が……」の面白さが私にはまったくわかりません。(中略)「いま、「中原昌也の小説は本当に面白いのか」という問いを私より明敏なみなさんに発してみて、その答えをヒントに中原昌也を読み直してみたい。」と提案する。(囲われない批評)

kenzee教授「これは2001年の中原・青山真治の二作受賞のときのコメントだ。この浅田彰の問いにすが秀美と渡部直己がリアクションするのだが、このウェブサイトは現存していて、今もフツーに読める。武田氏はこれだけの論客にこれだけ歯切れの悪い文章を書かせる中原とはナニモノ!?と興味を持つ。すが秀美はミュージシャンだの映画監督だのに賞を与えるなど茶番だ、ぐらいにしか思っていないようだが渡部直己はマジメに中原昌也の小説とはなんなのか?と論考している」

司会者「この時点では中原昌也は本業・ミュージシャンという認識で作家としては全然認知されてなかったんですね。この3人の評価として共通しているのは中原よりよっぽど文学らしい文学の青山真治は過大評価だという点でしょうか」

kenzee教授「浅田彰は「わからない」といいながら大いに興味を持っているし、渡部直己はこの時点でまとまった中原論を展開している。それほど中原小説はこの時点では異質なものだったんだね。今じゃ木下古栗のような中原に影響を受けたような新人が群像からデビューしたりする状況だが。2001年当時の文学の状況はどんなもんだったんだろうか」

司会者「ここで文藝・作家ファイルのデビュー年一覧が役立ちます。オシドリ夫婦・佐藤友哉島本理生がこの年にデビューしてます。舞城王太郎もデビューしてます。綿矢りさの文藝賞もこの年です」

kenzee教授「2001年は文学の転換点だったのかもしれないね。阿部和重も「ニッポニアニッポン」をこの年に発表しているし「シンセミア」はまさに執筆中だった。上記に三人の論客の歯切れの悪さも時代を考えれば仕方ないのかもしれない。ついでに東浩紀の「動物化するポストモダン」も2001年だ。中原文学を語る際に最もよく言われるのは「紋切り型の表現や陳腐な言葉を多用することによる「文学的」とされる言語への風刺・冷笑」といった評だ。武田氏は比較対象としてフローベール「紋切り型辞典」・スウィフト「上品な会話集」などを挙げている。しかし、これらの洗練された書き手たちは紋切り型の言葉を収集しつつ自分たちは模範的な文章をしたためていた。武田氏はこの点で中原氏の文章は決定的に違う、と指摘している。上記の文豪たちは世の言説を改良しようという目的でこれらの著書を著したのだが中原氏の場合は全ての文章を愚劣化しようとしているようだ、と。すべてをパロディー化しようとしているのだ、と」

司会者「中原のあのアホな小説にそんな意味を見出すなんて」

kenzee教授「三島賞受賞作「あらゆる場所に花束が……」文庫版解説に渡部直己の中原論が収録されている。初期の中原文学がどう読まれていたかを知る恰好の資料だ。渡部氏は武田氏と違って、中原文学をヌーヴォーロマンの系譜として捉えていたようだ。ロブ=グリエとの影響を指摘したうえでプルースト、カフカ、ジョイス、フォークナーなどの後に現れた「新たな小説を書くことの不可能性自体を糧とした試み、こういった50年代フランス文学との感性の連続性を指摘している」

司会者「そんな大層なモンかい!」

kenzee「みんな中原の音楽って知ってるのかなあ、渡部直己とか聞いたらガッカリするんじゃないですかね」

kenzee教授「そして「囲われない批評」はいよいよ佳境に入る。中原氏の芥川賞候補作「点滅……」を引用して、東浩紀が「ソルジェニーツィン試論」で提案した批評と文学のあり方が中原作品でどう実現されているのかを検証していくのだ」

司会者「それにしてもこの「囲われない批評」はこういう流れでいくなら重要な論点を見落としている気がするのですが」

kenzee教授「なにかね」

司会者「中原氏は小説家である前にキャリア十数年に及ぶ映画評論家です。東氏の批評論と対応させて中原氏の評論については武田氏は言及しなかったんですかね。手っ取り早く手に入る中原映画批評といえば「エーガ界に捧ぐ」「続・エーガ界に捧ぐ」がありますが、フツー映画評論家って、みんなそれぞれの映画観、芸術観があってそれに基づいて判断するワケですけど中原の映画評はそんなのないんですよ。基準は中原氏の体調とか精神状態であって、たまたま中原氏が鬱状態であったためにボロクソ書かれた映画も数知れず。エンエン金がないとか金がないとか本当に金がないとかいう話をして、最後の一行くらいで思い出したように「ああ、この作品はボクの憂鬱を吹き飛ばしてはくれなかった」とかいってオワリ、というヒドイ評論ばっかりです」

kenzee教授「そういえばどうして中原の映画評論を取り上げなかったのかな? 東氏が「ソルジェ…」で目指した囲い込まれない、非論理を内包した批評は中原氏によってすでに90年代から実践されていたとはいえないかな」

kenzee「ソレ、評論ていうかグチ言ってるだけの本だよ!」

kenzee教授「武田氏は「点滅……」において青木という雑誌記者の描写に東氏が見た可能性を見出したのだ。青木の白々しい発話はまさに中原氏の得意とするものだが主人公の「俺」はそれが青木自身が発言ではなくどこかにいる操作者によって言わされているのではないかという疑念を抱くのだ。そして青木自身も操作されていることに気付いているのではないか、と「俺」は妄想する。青木のとった態度は「操作者に読まれないように」気付いていないふりをする、ということ、彼らしい落ち着き払った態度を維持すること、だ。そしてそれは「俺」の妄想なのだ。ここで武田氏は東氏の「ソルジェ…試論」を想起する。ソルジェニーツィンが「民衆」などと陳腐な言葉をあえて口にするのは批評的な言説によって事実性が隠蔽されないための戦略であった。青木の「操作者の存在に気付きつつ、気付かないふりをしつつ、相手には操作者の存在を気付かせる」態度とソルジェニーツィンとの近似性を発見するのだ」

司会者「青木がそんなにスゴイ文学的キャラだったとは! ホントかよ!ってここはツッコんでいいとこですよね」

kenzee教授「点滅……」ってフツー「俺」が自宅に帰ってきて例によって「金がない」だの「どうして文章なんか書かなきゃいけないんだ」とかブツブツ言うシーンか最後の爆破のシーンあたりが印象的で青木なんてほとんど言及されることないんだけど、そここそがポイントで中原の創作論だと武田氏は言うのだ。そしてその創作論としてのカタルシスを迎えるのが点滅機械の爆破シーンだ。「俺」は点滅する機械を修理するつもりで爆破してしまう。この、意識と意思の分裂した行為こそが東氏の夢見た非論理の発露であり世界の無規則性の表出であり、偶然性の原理を暴く論理ではない分裂なのだ、と。最後に武田氏はこう警告する。明晰さのなかに狂気をノイズとして響かせろ、と。一貫した論理の囲い込みから文学を解き放て、と。批評を忘れた文学は自滅するしかない、と」

司会者「古典主義、ロマン主義に続く第3の批評が必要だ、と現在の衰退しつつある批評の場と純文学の現状を」考えれば、と」

kenzee教授「で、東氏の試論と中原の創作に可能性を見出せる、という散漫な印象も残るが明解な結論にいたる、良質な評論だね」

司会者「なにか言いたいことあります?」

kenzee教授「武田氏の指摘する東氏の「狂気のノイズ」また、中原氏の「分裂」といった論はワタシは新しさや未来の文学の可能性は感じないんだよね。別に。渡部直己が指摘しているように中原文学を世界文学史に当てはめてみれば50年代フランスのヌーヴォーロマンの系譜に属するだろう。で、世界文学はこの後、60年代に突然、南米文学の興隆を迎えるのだ。中原の創作論はバルガス・ジョサやコルターサルの方法意識を想起させるところがあるのではないか。つながりのない断片を羅列するというやり方は読みにくいが解釈の幅を広げる。「あらゆる場所に…」は断片をエンエンと繋げて気がついたら長編になってた、という感じだ。中原の創作論は60年代までに多くの部分が試され、やりつくされてるんじゃないか。また、「ソルジェニーツィン試論」ではないが東浩紀が最近提唱している「ゲーム的リアリズム」についてもこの時代にさまざまに実験されつくされた感がある。東氏の言う「キャラクター小説」「ゲーム的」というのは重要な論点として「自然主義リアリズム」と違い、登場人物、時間はなんども生き返り、複数の生を生きる。それはロールプレイングゲームを写生するようなものだ、と。だが、そのような小説はすでに60年代にコルターサル「石蹴り遊び」で実践されているようなことではないか。「石蹴り遊び」は短い断章に番号が付いていて、断章の最後に来ると次に読むべき断章番号が記されているのだ。例えば2のつぎは116に飛べ、とか。その通り読んだからといってちゃんとストーリーが追えるというワケではなくて結局断片断片でメチャクチャなの。じゃあ作者の指示など無視して順番に読んだらどうなるかというと、それはさすがにちゃんとストーリーがある。これはなにを意図したかというと作者の意図、というものを可能な限り放棄して読者に最大限の解釈の自由をあたえてみたらどうなるかという実験なのだ。そして読者の数だけ少しずつ違う「石蹴り遊び」が生成される。「東氏のゲーム的リアリズム」のいくつかの部分はすでに50年前に実践されているとはいえないだろうか。モチロン、ゲーム的リアリズムは「複数の生を生きる」という点でのみ論じられているわけではない。例えば「キャラ萌え」という概念は60年代にはなったハズだし、美少女ゲームやライトノベルを取り上げるとなると別の論点が必要になる。ワタシが武田氏に違和感を感じるのは武田氏が「ソルジェ…」や「点滅…」で指摘したようなポイントは新しい視点や可能性なんかではなくてむしろ50年代~60年代の感性や実験性がリサイクルされていると考えるのが妥当ではないか、ということだ。武田氏がどの程度、現在純文シーンに精通しているのかは知らない。だが、モノホンの大学の先生こう言うとリアルに響くね。

…それ(現在の純文学)はもはや知識人の文学ではない。今の大学生はもちろん、大学教員でさえほとんどが現代文学の動向とは無縁に暮らしている。(囲われない批評)

ワタシなりに現在のシーンを概観する限り、今の純文学は60年代回帰を起こしている。磯崎憲一郎は直球の南米文学だし、高橋文樹、谷崎由依などの新人がガルシア・マルケスの影響を公言している。円城塔は60~70年代のSF・ミステリから多くを吸収している。諏訪哲史は50年代フランスヌーヴォーロマンだ。中原の亜流といえる木下古栗も「分裂」を描く作家だ。「受粉」において主人公は地下鉄で「自分で自分の尻を揉む」セルフ痴漢を見て、自分もやってみようと早起きを試みるのだが、寝坊するのだ」

司会者「ホント、読むのが苦痛なくらいバカバカしい話でした」

kenzee教授「ライトノベルでなにが起こっているのかは不勉強にしてよく知らないんだけど武田氏が東浩紀、中原昌也を取り上げて指摘したようなことは彼らに特徴的、というより現在の純文学シーンの一断面、という気がする。武田氏は批評の場を失ったことによって純文学も衰退した。現実と接続する意思を失った、というがなんのジャンルでも玉と石では圧倒的に石のほうが多いよ。「ロマン主義に続く新しい批評の方法論」というのはあまりにスケールの大きな夢で想像もつかないけど、ネットの普及によって金としがらみのないところからゴチャゴチャ好きなこと言うヤツがでてきてるこの状況こそにボクは可能性を見るがね。武田氏が「確率の位相」で述べられているように大衆っていろんなことをいっぺんにゴチャゴチャ言うけど長い目で見れば正しい結論をだすようなところがある。むしろ東氏は「ソルジェ…」で提示したようなテーマを今は2ちゃんねるなどに見ている気がする」

司会者「まあ我々、清涼院流水も舞城王太郎も谷川流もロクに読んだことないんで飽くまで純文学ウォッチャーの立場からの発言ですがね」

kenzee「中原論は小説だけでやってもなにか見落とすようなところがある。音楽、映画評、対談、先輩作家に対するイヤガラセまで含めて中原作品だ、と思ってるフシがあるよ。10代のときに暴力温泉芸者のCD買った(1回しか聴かなかったが)ボクのような世代の人間から見れば」

kenzee教授「でも、批評、評論の場がどんどん狭まっていく状況に危機感を持っているもは同感だよ。批評を失ったジャンルが衰退するのは音楽だろうが映画だろうが文学だろうが事実だからね」

kenzee「武田氏のような同い年の人にガンバッテ欲しいですね!」

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2008年5月29日 (木)

ソルジェ論を解読してみる(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作)Part.2

司会者「ところで肝心の「ソルジェニーツィン試論」は読んだんですか?」

kenzee教授「モチロン読んでないヨ」

司会者「……(インチキ野郎)」

kenzee教授「なんか、スゲームズカシー論文らしいよ」

司会者「スゲームズカシー論文読むのが文学者だろう!」

kenzee教授「でも後半中原だから大丈夫だと思うんだ」

司会者「ソルジェ…」には「確率の手触り」という副題がついているのですが、ここで論じられている「確率」とはなんの話なんですかね」

kenzee教授「東浩紀「ソルジェニーツィン試論」の概略は「囲われない批評」の前半で要領よくまとめられているんだが、まず「試論」てナニ?ってトコだけど「試論」とはもともとエッセーの訳語で真剣な論文とは性格の違うものなのだ。あまり実証的なことにはこだわらず自由に考え方のアウトラインやアイデアを示す、そんな記述方法のことだ。「ソルジェ…」は批評がガチガチの論理で凝り固まっていては小説から肝心な要素を見落としてしまう、むしろ批評とは本来、非論理を志向するものではないか、と。例として「カラマーゾフの兄弟」においてアリョーシャとスピリドンは素朴な人間として描きながら結果的に誤らずにすんでいる、という「論理を超えた正しさ」を体現する存在だ」

司会者「あー、「正しさを論理で示せない」というのはわかる気がします。あの、間違ってるかも知れませんが、頭デッカチのニートみたいな子より単純バカのほうがちゃんと就職して勤めあげたりするじゃないですか。結局いい人生をまっとうするじゃないですか」

kenzee教授「事実は事実」なんだ。そこに理屈をつけようとすると「根源的な領域」へ事実性が囲い込まれてしまう。そういった危険を回避する試みとして東氏はソルジェニーツィンを取り上げているのだね。同様の理由で東氏はカフカも取り上げる。「ザムザが虫に変身しました」という設定自体「確率」の問題なんだが、読者は一般的にそこにツッコミは入れない。そんな不条理な設定でなにを描こうとしたか、という出来事の解釈へと向いていく」

司会者「確かに、「なんでザムザ?なんで虫?」という問いは文芸評論においてはナンセンスだといわれるでしょうね。「変身」を読んで哲学的問題や政治的問題を読み込まないとイッパシの評論とはいえない」

kenzee教授「その認識自体に疑い持たなきゃダメだろう、というのが「ソルジェ…」の重要な論点だ。てなことを踏まえて、今、有効な批評はあるのか、と。こっからが武田氏の現代批評論だ。そして武田氏の視線は過去の批評体系へと向かっていく。まず、古典主義からだ。古典主義のいいところはギリシャ・ローマの古典古代を理想とする、という基準があったために批評の場が共有されていた。ところがそのやり方ではその基準に当てはまらない新しい概念の美を見落としてしまうかも知れない。これは昔の話だと笑っていられる問題ではなくて卑近な例では村上春樹が芥川賞を獲れなかったのは当時の批評家たちの文学観が村上文学を判断する基準を持っていなかったからだろう」

司会者「古い価値観をひっくり返すのがロックでパンクでヒップホップなワケですから」

kenzee教授「そこで新しい批評的実践に向かったのがロマン主義作家たちだ。彼らの特徴は詩作と批評を同時に行っていたことだ」

司会者「高橋源一郎じゃないですか」

kenzee教授「ウン、もしかしたら「小説は小説家にしかわからない論争」ってのは古典主義vsロマン主義の論争だったのかも知れないね。ロマン主義の批評家・作家たちは美の規則を定めようとしなかった。新しいものもドンドン受け入れる素地があった。ホントに高橋源一郎だな。ロマン主義では批評はそれ自体が美しいものでなければならず、言説行為によって美を体現するものなのだ」

司会者「東さんもグチばっかり言ってないでロマン主義者の爪のアカでも煎じて飲んで欲しいですね」

kenzee教授「美の規則・基準がないということは批評家自らが「立法者」でなければならない、とシェリーは定義した。さらに言説は世界と同期し、言葉と世界の同期が完成すれば言葉が世界を動かす力となると信じた」

司会者「ラッパーみたいですね」

kenzee教授「立法者」となるべく、小林秀雄や江藤淳なども創作に挑戦したのだ。そんなシェリーのロッケンローラーな考え方に反論したのがポール・ド・マンだ。「言葉も行為も文も偶発的な出来事として生じるのだ、と。その力は死の力のように発生の偶発性からきているのだ、とロマン主義に対して非常にネガティブなツッコミを入れている。世界と言葉が同期する?チャンチャラおかしいぜ、と。世界は無規則なんだよ、と。言葉も論理も通用しないよ、と」

司会者「話終わっちゃうじゃないスか。ポール・ド・マンは空気読めないヤツだったんですね」

kenzee教授「ポール・ド・マンが見出したのはカフカの不条理のような「確率の位相」だった。そこで武田氏は「ソルジェ…」の東氏とポール・ド・マンに共通の匂いを感じ取ったのだ。だが、ド・マンが終末を見た場所に東氏は可能性を見出してたのだ。世界の無規則性、偶発性を受け入れながら、なおも批評が言葉を発するにはどうすればいいか」

司会者「それが「キャラクターズ」におけるグチだったのですね!」

kenzee教授「違うよ! で、若き哲学者東浩紀はこんな問題意識を持って出発したわけだ。その後の東氏の活動はよく知られているようにサブカルチャー全般の言説空間を分析する仕事にシフトしていく。これが前半の「ソルジェ…」論だ。こうやってまとめてみると東氏の現在の活動が決してサブカル者のオタク談義ではなくその先に見据えている目的があるのだね。無規則、偶発的な世界にたいして自らも非論理を取り込んで言葉を発する、という」

司会者「非論理っていうか……グチじゃあ…。武田氏は「キャラクターズ」をどう評価してるんでしょうね」

ときに真剣な小説論、時に悪趣味な暴力・性表現、時に自己を含む実在の人々へのゴシップ的な言及を挟みつつ…(中略)単体の小説としての完成度を意図的に放棄して純文学の現状に批判的な介入を試み、純文学的言説の閉鎖性を明解に示した点は積極的に評価すべきであるが「キャラクターズ」のなかに現行の言説と現実との関係性を変更する可能性を読み取るのは難しい。(囲われない批評)

kenzee教授「キャラクターズ」の言説と実践が同時進行して他人のツッコミを無視して暴走するさまは、一見サブカル者らしいフザケっぷりで人気取りをしているようにみえる。過激なパフォーマンスで東ファンをサービスしているようなね。でも、「ソルジェ…」の論旨を理解すれば「批評は非論理を志向する」という21歳のときの批評観に基づいた活動だとわかる。15年前と同じスピリッツが流れているのだね。でも、「キャラクターズ」の試みの面白さは認めるけどもワタシは純文学としては認められないな。相変わらず「試論」なんだよこの人は」

司会者「で、現在批評の場は衰退していて、純文学シーンはドンドン自らを囲い込む方向へ向かっている、と。そんな自閉的なシーンにおいて中原昌也は注目に値する、と」

kenzee教授「武田氏は随分と現在のシーンを悲観的に見ているが、そこは我々としては反論大アリなのだが、とりあえずそこは置いといて武田氏の中原論を読み込んでみよう。そして、どう東氏が21歳のときに命題に掲げた「非論理を志向する批評の言葉とは」という遠大なテーマと中原氏のフザけた世界がどうリンクし、現代文学の可能性を指摘するのか見ものだ」

司会者「じゃ、明日はホントに中原篇てコトで」

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2008年5月27日 (火)

で、やっと(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作)

司会者「で、やっと群像の評論受賞作に入れます」

kenzee教授「え~この武田将明氏の評論を読むに当ってお勉強した」

司会者「エ!? おっぱいパブにもキャバクラにも行かず、現代文学について研究していたのですか!? で、ナニを読んだんですか?」

kenzee教授「そのう、オレこの東浩紀って人についてあんまよく知らなかったんだよね。なんかライトノベルとかゲームとかアニメとかの批評やってる人ってイメージだけは持ってたんだけど「オレはカンケーない」と思ってたんだ。でもね、今回のこの「囲われない批評」とか、あとこのブログにリンク張ってくれてる人たちのサイトとか見るとさ、東さんって今かなりホットな人みたいね」

司会者「やめてくださいよ、まるで「今、Pufumeってのが売れとるらしいね~ところで彼女らはMAXとかとは違うのかね」みたいな必死でオヤジが若者におもねるみたいな興味の持ち方は」

kenzee教授「で、慌てて最近、「キャラクターズ」とか「動物化するポストモダン」とか「ゲーム的リアリズムの誕生」とか読んでみたワケ」

司会者「いまさらですか! 完全にオヤジの行動パターンじゃないですか! 「とりあえずPufumeのベスト盤あるかね?」ってツタヤの店員に聞いてるオッサンレベルの遅れっぷり! どうしたんだ? アンタ昔はもっと尖ったナイフだったぜ!?」

kenzee「そこでボクもひとこと言わせていただきたいんですがね。そろそろボクも10歳以上年下の人の小説とかわからなくなってきてるんですよ。人っていうかシーンが理解できないっていうか…。例えばケータイ小説市場とかラノベシーンとかもうワカランわけです。でも、なんか意味はあると思うんですよね。わからんものは切り捨て、じゃ石原慎太郎ですから」

司会者「諏訪哲史ですよね」

kenzee「で、そういうイマドキのシーンをオッサンにもわかりやす~く教えてくれる批評家として東浩紀ってありがたい存在なんですね。って東氏ってオレより年上なんだが」

司会者「で、どうなんですか。わかったんですか? 現在のサブカルチャーを取り巻くシーンについては」

kenzee教授「キャラクターズ」はスゴイ小説だぞ」

司会者「やめてくださいいまさら。もう東さん、新潮に新しい長編も発表してるのになんスか!その間の悪さ」

kenzee教授「ワタシは文芸誌でこれほどグチをこぼす小説を読んだことがない。中原昌也を除いて」

…というわけで、ぼく、すなわち東浩紀、21歳で批評家としてデビューし、かつて浅田彰の後継者や阿部和重の盟友と呼ばれ栄華を誇り、しかしただちに文芸誌から忘れ去られ、ネットぐらいにしか活路がなく、そこでもいまや時代遅れと見なされて新著も大して話題になってない、この中途半端な学者くずれは自分の一コ上の谷川流に経済資本のすべてを、桜庭一樹に象徴資本のすべてをかっさらわれて生き残るためにもはや毒でもなんでも食らう気になっているやぶれかぶれのライトノベル作家をだまくらかし、筒井康隆の二番煎じのような共作を編集長との10年来のコネを活用して「新潮」に押し込むことを決意した。(中略)こっちはもう15年も前からちょっとデビューが早かったからってバカな年長世代にさんざんおもちゃにされて浅田彰から山形浩生を通って大塚英志あ唐沢俊一までおれの文章なんてぜんぜん理解できてないくせに若い世代をクサしてれば生き残れると思って調子に乗って説教かましてやつの文章か、笠井潔のようにおれを利用することしか考えてないやつの文章ばかり読ませられて、笙野頼子のようにおれが男の批評家だってだけで嫌がらせをしてくるやつも現れるし……(中略)結果として、東と桜坂は3000部の作家の対談のためにホテルとハイヤーを用意し、賞金50万円の文学賞の選考委員に30万円の選考料を払う、コネと既得権益だけで作られた華やかな「文学」の世界に足を踏み入れることになるだろう……(東浩紀+桜坂洋「キャラクターズ」)

司会者「どこのタチの悪い筒井康隆だよ!」

kenzee教授「武田氏の「囲われない批評」の論旨はまず、「批評は呪われている」というものなのだが……。批評が呪われてるっていうか…」

司会者「批評家が呪われてるっていうか……」

kenzee教授「東さん個人が呪われてるだけじゃないんですか?」

司会者「たぶん、小林秀雄とかこんなグチとか言わなかったと思います」

kenzee教授「小林秀雄って海原雄山みたいな人だったらしいからな」

司会者「で、200枚ひたすらグチってるんですか?「キャラクターズ」って」

kenzee教授「ウン、180枚ぐらいが東氏のグチだ。あとの20枚が桜坂氏の小説のパートだ」

司会者「ホントかよ!」

kenzee教授「で、最後、東氏はタンクローリーで築地にある朝日新聞社本社に突っ込んで自爆テロを起こす。大火事となった社屋からは火だるまになった唐沢俊一とか北田暁大とか香山リカとかが現れては死んでいくのだ」

司会者「なんで香山リカまで出てくるんですか!」

kenzee教授「ま、このように「理屈っぽいドリフ」みたいな話だったんだけどね。で、なんで批評家の東氏が小説を書こうと思ったかというと」

司会者「たいして上手くもないですよね」

kenzee教授「文芸誌の現状を考えると「小説」という体裁なら「巻頭一挙200枚掲載」という展開が可能だがこれが評論となるとどうしても「分載」という形にならざるを得ない。評論の連載なんて誰も読まない。モチロン巻頭などありえない。東氏としては「ゲーム的リアリズム」で展開したよう文学論を文芸誌に載せたかったのだが「文載」じゃなあ、という理由で「じゃ、小説ってコトで」と、まんまと「新潮」にネジこんだらしいのだ」

司会者「合理主義者か!」

kenzee教授「ま、そんなこんなでいまやスターな東氏なのだが彼はもともとジャック・デリダの研究をやっていて本来の肩書は哲学者なのだ」

司会者「こんなにハヤリモノがすきな哲学者も珍しいですね」

kenzee教授「変わり者なのだと思うよ。哲学って不易流行でいったら「不易」について突き詰める学問だからね。で、武田氏が扱った「東浩紀」とは現在のサブカルチャー評論でスターの「東浩紀」ではなくて、いまから15年前、21歳の若き哲学者の東氏だ。そのデビュー作「ソルジェニーツィン試論」を採り上げ、現在のマルチ評論家「東浩紀」との変わらぬ視点、スタンスについて指摘し、また「キャラクターズ」が現在の閉鎖的な純文学シーンへの批判である、と位置づけている。そういった文脈に基づいて純文学シーンを見渡したとき、注目すべき作家として中原昌也が浮かび上がってくる、と」

司会者「よりによって中原ですか」

kenzee教授「でね、この評論、前半はムズかしくてワケわかんないんだ」

司会者「(…アンタ、ホントに文学者……?)」

kenzee教授「ところが後半、話が現在の純文学の現状、みたいな論旨に移っていくと急に物言いが粗雑になってくるんだな」

…「批評空間」が売り上げ部数の減少といった経済的な理由でなく、編集者の死、という偶発的な出来事を主な原因として廃刊されてから理論的な文章の発表される場は急に狭められ、理論は現実に圧倒され、沈黙を余儀なくされている。(中略)しかし、状況全体を見たとき、批評が分野として衰退しており、新たな展望も見えないのは否定しがたい。(囲われない批評)

司会者「新潮も評論部門なくなっちゃいましたからねえ」

kenzee教授「で、このあと、批評は衰退したけど、純文学シーンそのものは活況を呈している、と。この10年、平野啓一郎、金原ひとみ、綿矢りさ、中村文則、青山七恵などの若い芥川賞作家が登場し、新人賞の応募数もウナギ昇りだ、と。でも評論部門はむしろ減ってるケド、と。でも、今の純文学がホントに現実に、事実性に向き合えているのか、と。応えは否。ドイツもコイツも社会的に見れば適応障害を起こしている人々の醜い部分まで赤裸々に描いているという点ではリアリズム小説と呼べるかも知れないが、それらの「リアリズム」はむしろ現実から目を背けることで成立している、と。毎月の文芸誌を手にとってみればニート男かメンヘル女を主人公にした一人称小説ばっかりじゃないか! つーかオマエラ運動せえ!と」

司会者「変わった評論ですね」

kenzee教授「むしろ、純文学よりミステリーやライトノベル作家、清涼院流水や舞城王太郎、谷川流などのほうがよっぽどかつての「ポストモダン文学」の実験精神を受け継いでいるではないか!と。今日の純文学が批評を必要としないのは、批評によって囲い込まれる前に、自らを囲っているからなのだ、と!」

司会者「ちょっとそれは、一面的な見方、と言えやしませんかネ? 武田先生!」

kenzee教授「ま、我々はテクストからしか判断するしかないんだが、武田氏はもしかして純文学を芥川賞作品だけ読んで論じてないかしらん?」

司会者「芥川賞って獲ったヤツより落ちたヤツのほうが実験的だったりするんですよ、ホレ、よく漫才とかのコンクールで優勝したヤツより審査員特別賞みたいなヤツのほうが妙に生き残ったりするでしょう? アレと一緒で」

kenzee教授「ニート男やメンヘル女を主人公とする一人称小説……ウ~ン、とりあえず木下古栗を読んでみて下さい。あと、田中慎哉と」

司会者「いまや、純文学の規定は、それがマイナーな文学だという形式性にしかない」

kenzee教授「ウ~ン、円城塔読んでみてください。つーか、芥川はチェックしてるんだったら「アサッテの人」は読んでらっしゃるんだろうが」

司会者「でも、武田氏が問題にしているのは言説と現実の関わりという、批評が解決できなかった問題に、じゃあ、上記の作家たちは答えているのか、と言ってるワケでしょう?」

kenzee教授「確かに木下古栗じゃちょっとムリかな……」

司会者「で、武田氏はそういった問題に自覚的な作品として東氏の「キャラクターズ」を挙げているのですが」

kenzee教授「みんなでグチ言いだしてもなあ」

司会者「いや、べつに「キャラクターズ」グチ言ってるだけじゃないですよ。自然主義リアリズム(現実の写生)ではもう現実と関われない、なのでゲーム的、アニメ、まんが的リアリズム(キャラクターは複数の生を生きる)で小説は書かれるべきだ、というメッセージが基本のテーマです」

kenzee教授「で、唯一、そういった武田氏の考える問題に対応している作家として中原昌也が挙げられる、というのが後半の展開だ」

司会者「ハイ、それでは明日は後半の中原論はどうなの!?(P103以降)というテーマでくっちゃべってみましょうかね」

kenzee教授「でもアレだよ? コレ「囲われない批評」やるために東浩紀やら宇野常寛やら泥縄式に読んだのだよ」

司会者「だからソレ、オヤジの行動だから」

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2008年5月26日 (月)

批評が必要になる瞬間

司会者「オ! 評論いきますか! 評論。kenzee教授も文学者ですからね~」(注・ホントはこの記事は群像評論当選作について書く予定だった)

kenzee教授「ドキドキ。(このテのヤツ、下手なこと言うとすぐ揚げ足とるヤツでてくるからな~)チョロイもんだヨ。ワタシも文学者だからね~」

kenzee「その前にyutakkoさんからコメントをいただいたんですが、やっぱり女性の読みって男には思いもよらないとこから攻めてきますよね。「月食」の月が子宮の象徴だと。確かにそう読むと料理→津田と亜由子の密会→地球儀のシーンまでのバタバタした展開も説明しやすいです。食がエロスの表出で、隆は盲人で味覚が発達していますから会食のシーンが妙に濃密なのも必然性があったのです」

司会者「でも、料理は失敗してて、隆はその失敗に気付いて、詩織は一瞬、ムッとするんですよね」

kenzee「そういった小さなすれ違いが後半の隆を送っていく場面、CDの貸し借りあたりのグダグダの伏線にもなっているのさ」

kenzee教授「子宮って言葉がでてきたんで気になったんだけど、最近読んだ評論で宇野常寛「ゼロ年代の想像力」ってのがあるんだけど、これの第8回で高橋留美子の世界は母性のディストピアだと論じてるんだな」

kenzee「高橋留美子って「うる星やつら」とか「めぞん一刻」の人ですか?」

kenzee教授「そう。で、東浩紀って10代のときに押井守監督作品「うる星やつら2・ビューティフルドリーマー」を観てかなり影響を受けたそうなのだ。そもそも「ビューティフルドリーマー」は押井守による高橋ワールドへの批評なのだ」

kenzee「ボクも、高校のときに夜中にテレビで観ました。「永遠に続く文化祭の前日」という設定はビックリしました。因みにボクの高校は管理教育バリバリだったので「文化祭などで生徒がウカれ騒ぐのをよしとしなかったので、夏休みが明けると同時に文化祭をやっつけてしまう、というスケジュールだったのです。9月3日~4日開催、とか」

kenzee教授「その「永遠に続く文化祭の前日」という設定自体が高橋ワールドへの批判なのだ。登場人物たちは永遠に年を取らず、ひたすら楽しい「楽園」を描く。「うる星やつら」「めぞん一刻」などが描き出す「楽園」は後のオタク系ラブコメの先駆となった。「萌え」の原点だとも言われている。主人公のあたるはその「楽園」の欺瞞に気付く。そしてあたるは「楽園」からの脱出(現実への回帰)を試みるのだ。つまり、こんな対立軸で構成される。ラムの願望(いつまでもこのメンバーと楽しい学園生活を送りたい)を叶えるため、妖怪・夢邪気が設定した「楽園」。そしてその欺瞞に気付いた人物たち。彼らは「楽園」にふさわしくない者であり、「楽園」から排除され、夢邪気の力で石柱にされ、楽園の人柱となる。これらが象徴するのラムの願望が「母性」であり、夢邪気の力は「肥大した母性」の暴力である、と」

kenzee「楽園」として描かれる学園生活は胎内のメタファーである、と」

kenzee教授「めぞん一刻」においても貧乏下宿・一刻館に住む学生、五代祐作はその管理人、音無響子のふさわしい男になるべく努力する。結果、彼らは結ばれるが、子供が生まれても彼らは一刻館に住み続ける。今度は「一刻館」が「楽園」となる。本来なら五代はモラトリアムの象徴たる一刻館を出て、広い世界へ羽ばたかなければならないのだが、高橋ワールドは五代を「一刻館」という胎内の外へ放り出すことはない。これもまた「肥大した母性」の物語だったのだ。こういった構造は後の「萌え」系アニメや美少女アニメには見られない構造なのだ。ナゼならそれらの作者は大抵男性で「母性」を創作の原動力としていない。むしろ家父長制的なマッチョイズムを原動力としている。つまり、母親の胎内を思わせる「楽園」で美少女とずっと一緒♥、というより美少女(病に冒されてたりする)をボクが救う、という父性の視点から描かれるので高橋ワールドとは別の発展を遂げてきたのだね。この宇野氏の評論は主に東氏への批判なんだけどその辺はどうでもいいや。ここで言及されている「母性の重力」「楽園というモラトリアム」「そこからの脱出」というポイントで「月食の日」までの木村文学とはなんだったのか、ということが説明できたりするのかナ?とか思ったワケ」

司会者「yutakkoさんの指摘したように詩織、料理、月食、子宮。もてなされる(味覚の優れた)盲人の男、という要素はエロスの表出であるとともに「母性の重力」をも思わせますね」 

kenzee教授「津田がいなくなった部屋はまさに「楽園」だ。だから「楽園」を出たとたん、二人の関係はギクシャクする。木村文学史を考える上で重要なのは「木村紅美」は「高橋留美子」ではない、ということだ。「ビューティフルドリーマー」における対立軸で考えれば、従来の木村作品は「あたる」側、つまりモラトリアムの側で、いつもそこからの脱出を試みる人物が描かれていたのだ。木村作品の登場人物がいつも旅にでて、移動するのも「脱出する側」の立場だからだと考えれば当然だ。「海行き」はいうまでもなくモラトリアムの物語だし、「島の夜」もそうだ。「ねぐら探し」の逃避行も「脱出」のストーリーだ」

司会者「木村さんは「あたる」だったんですね」

kenzee教授「うん、決してラムの側ではない。「楽園」から出て行く、その過程で人間が成熟していくさまを描いてきた作家だったのだ。文体はライトでもやろうとしていることが王道の純文学の伝統を受け継ぐものだったのだね。ところが最新作はさんざん「あたる」の側、モラトリアムの立場を守ってきた作者が「脱出」の先を描こうとしたものだ。人称の問題、移動、旅というモラトリアムの側の記号の封印、そしていびつな「楽園」の表出、作品全体から感じられるぎこちなさ、「母性の重力」を思わせるが、なんともいえない不穏な雰囲気がある。これまでが「あたる」の側だったので今度は「ラム、夢邪気」の側で、っていうほど単純じゃなさそうなんだな」

司会者「高橋留美子は押井守るの批評に対してリアクションしてるんですか」

kenzee教授「人魚シリーズというのがその回答らしい。人魚の肉を食べることによって永遠の命を手に入れた主人公は元の「死にゆく身体」を求めて数百年にわたって旅するというものだ。永遠という「楽園」を手に入れてしまったために永遠にモラトリアムを、旅を続けなければならなくなってしまうという自作へのアイロニーが込められている。「月食の日」は木村氏の自作への批評だったのではないかと思えてくる。さんざん「モラトリアムからの脱出」「旅と成熟」というテーマで走ってきた作者の批評の目は自作に向けられたのだ。今回の群像評論部門は「今、批評の場所はどこにあるか」というテーマで東浩紀と中原昌也について書かれているのだが、批評と批評の場所が生まれる条件とは、といったことにも触れられている」

司会者「ホントはその「囲われない批評」についてやる予定だったんですが」

kenzee教授「高橋留美子の話で終わっちゃいました」

司会者「kenzeeさんに質問。最近、新人賞関係は読んだのか?」

kenzee「ウ…ウン…。あのう……。文芸誌の編集者ってタイヘンなんじゃないかと最近思えてきました。だって、毎月スゴイ量の新作が書かれてるワケじゃないですか。で、賞の候補とか選出しようと思ったらヨソの文芸誌とかチェックしとかなきゃだし、どうやってみんな時間作ってるんでしょうね。でもまあ、一応読んでるんでボチボチやります。ハイ」

司会者「ホント、まーたアっという間に6月になっちゃいますよ!」

kenzee「ホント、トシ取ると時間が流れるのが早くなるよ……」

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2008年5月12日 (月)

またッスか?(昔話)

司会者「ボクは今日という今日はkenzeeさん(このブログの作者)に言いたいことがあいます!」

kenzee「なんかズイブン鼻息が荒いね。城ヶ崎くん」

kenzee教授「確かキミだけ一応名前があったっけ」

司会者「最近全然小説のレビューしてないじゃないですか! 先月は「月食の日」だけ! その前は「11人座談会」で6回も引っ張って小説やってないし。どうするんですか! 7月中旬までにkenzee賞候補とレビューやっちゃわないといけないのに、円城作品も磯崎作品もやるやるいいながら群像合評でちゃったじゃないですか! いまさらやんのも超タイミング悪いし」

kenzee「今月パッとしないようだったらじっくり取り組もうかなあと思ってたんだけど。ナオコーラさんとか宮崎誉子とか」

司会者「そんなこと言って、今月、文學界と群像は新人賞だってわかってたじゃないですか!」

kenzee「その上、柴崎さんの新作に楊逸の新作まであるとはね」

司会者「アンタが連休の間、飲んだり食ったり歌ったりしてるときでもシーンはどんどん動いてるんだよ!」

kenzee「つーか、まあ、趣味のブログじゃん」

司会者「ア!開き直った」

kenzee教授「大体、連休中はなに読んでたんだね?」

kenzee「心に染みた順にいくとまずコレ「吉田豪「BANDLIFE~バンドマン20人の音楽人生劇場独白インタビュー集~」90年前後のバンドブームの時代に一世を風靡したバンドマンたちの現在。また、バンドバブルとまで言われたあの時代とはなんだったのかを問う音楽奇書! あの頃のスターたちもいまやすっかり40代。ゴーバンズの森若香織やプリプリの中山加奈子、レピッシュのマグミ、たまの石川浩司、ユニコーンの阿部義晴、サンプラザ中野あたりがかなり赤裸々に当時を語ってくれていてグッときます。大槻ケンヂなどはこの手のインタビューはもう庭みたいなもんで相変わらず面白いです。この吉田豪というインタビュアーはスゴイ人で、例えば小説家の仕事場なんかは文学書や文芸誌なんかで埋まってるモンじゃないスか」

司会者「あと、新作用の資料とか」

kenzee「吉田豪の仕事場はタレント本で埋まってるんです。タレント本てアレですよ郷ひろみのダディとかブックオフの100円コーナーで投売りされてるアレですよ。この人は全国のブックオフ等のバッタ系古本屋でその手の絶版タレント本を買い漁ってはちゃんと読むんですね。BAKUとかジュンスカの写真集とか100円でガンガンゲットしてるんです。アホらしすぎて神です」

司会者「木村先生が大ファンのたまの石川のインタビューは貴重ですね」

kenzee「この人、なんか障害者とカン違いされることが多かったらしいですね。確かに完全に山下清でしたし。不思議と演歌歌手のウケはよかったそうです。最近は文筆業もやっているそうです。旅行記、エッセイ、インスタントラーメン批評、なぞなぞの本など」

kenzee教授「後半よくわからんが」

kenzee「あと、西荻窪でアートギャラリー雑貨店を営んでいるそうです」

司会者「ああ見えて意外と多角経営のやり手なんじゃないですか」

kenzee「さよなら人類」でガーッ行ってるときの金の動きなんてムチャクチャだったみたいね。他のバンドもそうだったみたいだけど。

吉田「事務所はPCMでしたよね。PCMは大槻ケンヂさんも森若香織さんも氏神一番さんも言われているように非常に問題があるところだったみたいですけど……」

石川「そうそう(笑)だから僕らも、これはヤバいってんで2年間の契約を終えてすぐ出て自分達で会社作ったんですけど」

吉田「事務所の社長も怪しかったみたいですね」

石川「そうそう、まず見るからに怪しい(笑)僕はその怪しさは嫌いじゃなかったの。たまは2年前に解散したんだけど解散ライブにもその社長は来てくれたし。「いまなにやってんですか?」って聞いたら「そりゃあ怪しいことやってるよ」って相変わらず」

吉田「非常に期待通りの答えです」

石川「インテリヤクザみたいな感じで」

吉田「皆さん給料が非常に安かったってボヤいてますけど実際どうだったんですか?」

石川「そんな悪くはなかったかな。最初の何ヶ月かはよくなかったけどすぐ60万とか貰って。それ以外にも僕印税ってあんまりよくわかんないだけどとにかく何百万とかいきなり振り込まれてきたりして。なんのお金だかよくわかんないけど(笑)」

司会者「バブルスゲー」

kenzee「CCBの関口誠とかもっとスゴイよ。CCBて80年代に大ヒット連発のアイドルバンドですけど若いときに芸能界の一番スゴイものを見てしまった人じゃないスか。で、ブームが去っても勘違いモードで自滅、と語っています。で、その後は裸一貫になって収入もなくなって」

司会者「Vシネデビュー、とかありガチですよね」

kenzee「もっとすごいよ。関口氏はラーメン屋でバイトを始めたのだ。白い割烹着着て」

司会者「マジッスか!」

kenzee「本格的な中華とかじゃなくてフツーの定食屋みたいなヤツね。で、テレビとかつけっぱなしなワケ。そうすると関口さんが「レバニラ定食お待ち~」とか言ってる後ろでテレビで歌番組やってて、フミヤが歌ってたりするワケですよ。アレ?おかしいなオレ昔テレビでフミヤと一緒に出てたのに」みたいな」

kenzee教授「昔、阿部譲二のエッセイで刑務所時代の話だけど外で野球かなんかやってて、そこへ飛行機がブーンなんて飛んでいったんだって。で、仲間に「オレ、昔、JALのパーサーだったんだ~」とか言ったら「ジョーちゃんナニワケわかんないウソ言ってんの?」みたいな。近いものがあるな」

司会者「逆に関口さんリスペクトだけどなあ。関口さんて一曲だけ作曲家でヒット出してるじゃないですか。中森明菜の。にも関わらずですか」

kenzee「まあ、芸能界コワイねって話ですよ。ホント、生きていくってタイヘンですよ。あのバンドブームの時代って自分の中高生時代と完全にリンクしてるんで感慨もひとしおでね」

司会者「木村先生なんかは二つ下だからまたちょっと違うかもしれませんね。あのぐらいの年頃の二つって大きいじゃないですか」

kenzee「確かにね。木村先生が高校生で純文学とか意識し始めたときにちょうど篠原一がデビューしてインパクトだったみたいです。で、本棚漁ったらあるんだよ、そのデビュー作「壊音」が。文庫版だけど。もちろん初版のみで絶版」

司会者「なんでもでてきますね。アンタの本棚は」

kenzee「で、当時の木村先生が羨望だったという坂本龍一の推薦文というのがナゼか文庫にも収録されてるのね。どういういきさつで教授が書くことになったのか知らないけど」

司会者「村上龍あたりがやるならわかりますがね」

「壊音」に寄せて

 この小説には進化、退化、崩壊、廃墟、戦争、内乱、虐殺、シンクロニシティ、ドラッグ等が充溢している。まるでデジャ・ヴュのように、それでいてとても現実感がある。この17歳の少女が描き出した風景、廃墟をぼくは確かに共有している。いったいこの少女はどうやってそれを視たのだろう? CNNから送られてくる映像を観、マンガを読み、ロールプレイイングゲームをし、テクノを聴く中で徐々に現実が姿を変えていったのだろうか? あるいはぼくたちが戦後の廃墟を既視したように彼女(たち)は1970年の廃墟を既視しているのだろうか?

kenzee「これが坂本龍一の推薦文」

司会者「kenzeeさん、この時代(90年代前半)で文学シーンでなにが印象に残ってるんですか」

kenzee「現在から通史で振り返ると阿部和重ってことになるんだけど当時はノーマークだったね。むしろキライだったの。あの「インディヴィジュアルプロジェクション」が。タランティーノみたいな内容と常盤響のデザインのせいでシブヤ系のカスみたいな連中がみんなアレ読んでたんでね。ボク、個人的にいいなと思った作家は93年のすばる文学賞の引間徹って人なんだけど。「19分25秒」という作品です。ワリとポジティブな話だったな。あの頃も今と同じで暗けりゃカッコいいみたいな風潮があって、完全自殺マニュアルみたいな本がベストセラーになったりしてた時代だからね。硫化水素騒ぎみたいな事件って当時だってゴロゴロしてた。引間さんの小説はその辺わかって違う方向こうとしてるフシがあっていいなと思ったんだ。今どうしてるのか知らないけど。でもおととしぐらいに野生時代で青春小説特集のときに伊坂幸太郎が青春小説ベスト5とかで引間徹を挙げてたんだよ! 結構オレビックリしてね。だって先月の文芸ファイルもそうだけどそういうときってみんなハッタリ臭い古典文学とか挙げたがるじゃない」

司会者「伊坂さんいい人ですね」

kenzee「あと、高校時代に一番ビックリしたのは中脇初枝さんの登場だな。「魚のように」は衝撃だった。今もアレなんだったんだろ?って思うよ」

司会者「去年、6回に亘って「魚のように」を特集しましたしね」

kenzee「あの頃、記事のアップの仕方が下手で、6回の続き物ってとこが読んでる人にちゃんと伝わらなかったんじゃないかなあ。アレ、続き物です!この順番でお読みください」

ゴブサタ(言い訳)←イントロ・「渡川を泳ぐ、魚のように」←コレが第一回・「あの夏の流れを」←第二回・「幻想の川をゆく」←第三回・「血の味がする」←第四回・「出奔のとき」←第五回・「青春の正体」←最終回

司会者「よくたった100枚の素人小説にここまであーじゃこーじゃ言えますね」

kenzee「だって15年ぐらいなんだろうなあって考えてたからね。「魚のように」文庫版のみ収録の「花盗人」がもう珠玉の青春小説なの。オレ「花盗人」についてだったら永遠にゴチャゴチャ書けるよ。「花盗人」篇もやろうと思ってたんだけど。そして「稲荷の家」→「赤い花」→「祈祷師の娘」→「ちゃあちゃんのむかしばなし」と続く予定だったんだけど。全部絶版だし」

司会者「文芸誌レビューもしなきゃだし」

kenzee「でもオレも33でしょ? もうトシなのよ。ボンヤリとやろうかなあとか思ってることはサッサと片付けるようにしようと思ってるのよ。で、こないだこんな若手映画作家のブログを見つけたのよ」

司会者「ハ? 中脇さんの「祈祷師の娘」を映画化!? 企画段階じゃなくてもう準備してるんですか!?」

kenzee「こういうイメージらしい。それだけじゃないよ。この人は「魚のように」映画化の企画も暖めているのだ。すでにシナリオと絵コンテはできてて、あとは資金集めが問題なのだそうだ。つーかそのシナリオ読みてー!」

司会者「魚のように」は15年前にNHKでドラマ化され、失敗してますからねー」

kenzee「イヤ、この方はなんか信用できそうな気がする。高知の人らしいし」

司会者「祈祷師の娘」はホントに動き始めてるワケですからね」

kenzee「イヤ~生きてみるモンだね。中脇さんの著書はどれも秒殺で絶版になったものばかりだけどホントに届くべきところには届いていくのだね」

司会者「中脇さん、4年に一作とかすごいペースだから仕方ない部分もありますが…」

kenzee「オレ、一度中脇さんのサイトからメールを差し上げたことがあってね」

司会者「ウソ!? どうせアンタのことだから思い入れタップリの長文メール寄越したんだろう!」

kenzee「…ウン(恥)で、「もっとグイグイいってくださいYO!」みたいなことも書いたのね。そしたらしゃー。とても丁寧な返事をいただいてですね」

司会者「やっぱり中脇さんいい人だったんだ」

kenzee「寡作であることについて大変に恐縮されている様子だったので悪いことしちゃったなあ、なんて」

司会者「もしかして気にしてたんじゃないですか! 世の中木村先生みたいにホイホイ書ける人ばっかじゃないんですよ!」

kenzee「だから人にあんまり「ガンガン行けYO!」みたいなことは言わないようにしようと心がけているのです。まあ、非常にきまぐれなブログですけども読者の方、サンクス!ということが言いたかったのです。たまにはこういうダラダラした話もいいんじゃないですかね。ブログらしくて」

司会者「この半年ぐらいが異常だったのかも知れません」

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2008年5月10日 (土)

グレートアマチュアリズム(文學界・同人雑誌評終了について)

司会者「文學界の同人雑誌評が今年いっぱいで終わるというニュースなんですが」

kenzee教授「30年余り続いた名物コーナーだけに残念だね。理由はイロイロあるんだろうけど」

司会者「同人誌の減少、同人に携わる人々の高齢化などが挙げられるようです」

kenzee教授「そうなのかな? 若い人は知らないんじゃないの? むしろ3月号では松本徹氏が苦言を呈しているぐらいだ」

 このところ雑誌の奥付を見ていると、住所以外にメールアドレスを記したものがぼつぼつ見られるようになっている。そして、今月創刊された一冊はメールアドレスだけである。正直なところ、採り上げる際に雑誌名と号数、次いで発行所として地名を記しているので、これでは困る。しかし、こうした雑誌が現れたのはインターネットで文芸活動を行う人々が増えて、グループを形成するとともに、インターネット上に留まっているのに満足できなくなったからではないのか。(中略)いま触れた創刊号だが「破滅派」で、「WEBから生まれたオフライン同人誌」と注記されている。(中略)この号では紹介したいと思う作品はなかった。今後に期待したい。また、発行所はやはり地名を記して欲しいとも思う。

司会者「ホンット、あの破滅派の連中ときたら……」

kenzee教授「スミマセン松本先生、非常識な連中で」

司会者「でも松本氏も紙面で文句いうよりキャツラに直接メールしたほうが早いと思います」

To,破滅派のみんな。

松本ッス。創刊号読みました。ロクなのなかったYO。つーかオマイラ地名ぐらい書いとけっつの。でわでわww

司会者「こんな感じでいいと思いますので」

kenzee「でも同人雑誌評が終わっちゃうのは寂しいですね。ま、ロクに読んだことなかったですけど」

kenzee教授「やっぱりここ数年の世の中全体の合理化の流れに抗えなかったってことかな」

司会者「どういうことですか」

kenzee教授「雑誌が存続するためには収入がなければならないワケだがその収入源ってなんだと思う?」

司会者「我々読者が支払う対価(定価)によってじゃないんですか? 文學界なら本体905円の」

kenzee教授「と、一般的な読者は普通思うよね」

kenzee「ええ、だって我々は木村紅美氏の新作が読みたくて5月号を買うワケです。その対価905円の内の何%かが木村先生のポッケに入っているものだと信じてるのですが」

kenzee教授「ところが世の中にある雑誌の殆んどはそんなピュアな金の流れで成立していない。雑誌、とくに文芸誌のような売れない雑誌の運営は大体広告収入でまかなわれている。つまり、電話帳とかフリーペーパーとかと紙一重なのだ」

司会者「ガーン」

kenzee教授「これはマジだ。音楽ライターのヤツが言ってたので間違いない。で、音楽誌でblastってのがあったでしょ?」

kenzee「去年、廃刊になっちゃいましたけど。音楽誌はバタバタ廃刊。CISCOリアル店舗全店閉鎖など音楽を取り巻く現場がこんなんなっちゃうなんて10年前には創造つかなかったッスわ」

kenzee教授「アレなんで廃刊に追い込まれたかというと売れなくなったというより広告が取れなくなったからなんだ。blastってヒップホップ、R&Bなどのブラックミュージックの専門誌なんだけど、紙面の半分近くは地方のインディーズのアーティストの紹介とかで占められてるんだよね。ブラックミュージックはストリートカルチャーなのでインディーズを採り上げるのは大事なのだよ。それによって文化全体の裾野も上がってくるしね」

kenzee「ホントにフツーに友達だ載ったりとかしてましたしね」

kenzee教授「でも広告主にしたらそれは面白くないんだ。だっていくら地方のインディーシーンを紹介したところで金を産まない世界なので広告効果が期待できない。広告主的には誰も知らないラッパーのインタビューより宇多田ヒカルだのメアリーJブライジだのJay-Zだのいった著名なミュージシャンの記事やインタビューで埋め尽くされてるほうが金を出しやすいワケ。でも編集側としてはやっぱりアマチュアリズム、ストリートイズム的なピュアな感じを打ち出したいワケ」

司会者「理想と現実の間で揺れる、という」

kenzee教授「で、My Space、You Tube、ブログなどの普及もあって一般紙に頼らなくともアマチュアが自分でメディアを持つことが可能になり、廃刊に至った、と。翻って一方で、ロッキンオンジャパンというしょーもないロック雑誌が現存する」

司会者「どうしてあんなにしょーもない上に絶対売れてなさそうな雑誌が廃刊に追い込まれないのですか?」

kenzee教授「アレを注意深く読めばわかることだが、アレ、インディーズは扱わないんだ。つまり、どんなしょうもないバンドの記事もすべてレコード会社の広告とのバーターで成立している。だからロクに売れなくても雑誌が存続するのだ」

司会者「どうりでドラゴンアッシュとかのチョーチン記事が多いワケです」

kenzee教授「で、同人雑誌評だけど、当然同人シーンってのは金が動かない世界なの。片や、商業出版の小説の世界はたまーにだけどとんでもない金を生み出すことがあるよね。綿矢さんとかの例を持ち出すまでもなく。広告主としてはそういう記事で埋め尽くされていれば金を出しやすい。文芸誌もまた、理想と現実の間で揺れまくっているのさ。商業性と無縁な同人の世界は野心的な作品を生み出す土壌として機能しているし、実際、西村賢太のような異能を最近でも輩出している。でも同人シーンそのものはいくらサポートしても広告主に利益を生み出さないんだ。若い人、例えば芸術系の学生さんなんかは理不尽と感じるだろうが金と芸術はいつの時代も密接に関わっている。90年代の初頭、アルゴプロジェクト、アルゴピクチャーズという日本映画の実験的な作品を輩出したレーベルが存在したが「櫻の園」のような少数のヒットを除いてほとんどが赤字に終わった。それでもサントリーのようなスポンサーがついていたのはまだ、当時はバブルのノリがあって、文化的な事業に関わることで企業イメージが良くなったりしたんだ。今はどっちかっていうとエコに手を出したほうがイメージがアップするよね」

司会者「つまり、スポンサー(金)あっての芸術だ、と」

kenzee教授「黒澤明なんてあれほど世界的な地位も名声もある映画作家だが、晩年はスポンサーがとにかくつかなかった。「乱」とか「夢」とか海外のスポンサーの出資で制作されたのだ。ナゼか。黒澤映画って意外と客が入らないからね」

司会者「売れないCDショップが閉店するように、売れない音楽雑誌が廃刊するように、才能があってもスポンサーがつかない芸術家がバイトするように(石井聰亙!)文學界も広告主のつかない不採算部門は切り捨てざるをえない、という状況なのですね」

kenzee教授「いつも言うけど10年以上昔って音楽にしろ映画にしろホントに元気だったし、豊かだったよ。サブカルチャー全体に金が回ってたからね」

司会者「ますますネットの同人誌のサイトとか文学フリマとかいったイベントは重要になりますね」

kenzee教授「インディーズとか同人といったアマチュアリズムが世の中からなくなったらホンットにつまんない世の中だよ。芸大入学したての学生みたいなこと言うけどアマチュアリズムこそがピュアな表現であって芸術の原点なんだよ。じゃ、今日はライムスターの「グレートアマチュアリズム」を聴いてお別れにしようかね。「同人雑誌評」に関わってたみなさん、オツカレ!」

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