« で、やっと(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作) | トップページ | 可能性というよりリサイクル(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作)Part.3 »

ソルジェ論を解読してみる(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作)Part.2

司会者「ところで肝心の「ソルジェニーツィン試論」は読んだんですか?」

kenzee教授「モチロン読んでないヨ」

司会者「……(インチキ野郎)」

kenzee教授「なんか、スゲームズカシー論文らしいよ」

司会者「スゲームズカシー論文読むのが文学者だろう!」

kenzee教授「でも後半中原だから大丈夫だと思うんだ」

司会者「ソルジェ…」には「確率の手触り」という副題がついているのですが、ここで論じられている「確率」とはなんの話なんですかね」

kenzee教授「東浩紀「ソルジェニーツィン試論」の概略は「囲われない批評」の前半で要領よくまとめられているんだが、まず「試論」てナニ?ってトコだけど「試論」とはもともとエッセーの訳語で真剣な論文とは性格の違うものなのだ。あまり実証的なことにはこだわらず自由に考え方のアウトラインやアイデアを示す、そんな記述方法のことだ。「ソルジェ…」は批評がガチガチの論理で凝り固まっていては小説から肝心な要素を見落としてしまう、むしろ批評とは本来、非論理を志向するものではないか、と。例として「カラマーゾフの兄弟」においてアリョーシャとスピリドンは素朴な人間として描きながら結果的に誤らずにすんでいる、という「論理を超えた正しさ」を体現する存在だ」

司会者「あー、「正しさを論理で示せない」というのはわかる気がします。あの、間違ってるかも知れませんが、頭デッカチのニートみたいな子より単純バカのほうがちゃんと就職して勤めあげたりするじゃないですか。結局いい人生をまっとうするじゃないですか」

kenzee教授「事実は事実」なんだ。そこに理屈をつけようとすると「根源的な領域」へ事実性が囲い込まれてしまう。そういった危険を回避する試みとして東氏はソルジェニーツィンを取り上げているのだね。同様の理由で東氏はカフカも取り上げる。「ザムザが虫に変身しました」という設定自体「確率」の問題なんだが、読者は一般的にそこにツッコミは入れない。そんな不条理な設定でなにを描こうとしたか、という出来事の解釈へと向いていく」

司会者「確かに、「なんでザムザ?なんで虫?」という問いは文芸評論においてはナンセンスだといわれるでしょうね。「変身」を読んで哲学的問題や政治的問題を読み込まないとイッパシの評論とはいえない」

kenzee教授「その認識自体に疑い持たなきゃダメだろう、というのが「ソルジェ…」の重要な論点だ。てなことを踏まえて、今、有効な批評はあるのか、と。こっからが武田氏の現代批評論だ。そして武田氏の視線は過去の批評体系へと向かっていく。まず、古典主義からだ。古典主義のいいところはギリシャ・ローマの古典古代を理想とする、という基準があったために批評の場が共有されていた。ところがそのやり方ではその基準に当てはまらない新しい概念の美を見落としてしまうかも知れない。これは昔の話だと笑っていられる問題ではなくて卑近な例では村上春樹が芥川賞を獲れなかったのは当時の批評家たちの文学観が村上文学を判断する基準を持っていなかったからだろう」

司会者「古い価値観をひっくり返すのがロックでパンクでヒップホップなワケですから」

kenzee教授「そこで新しい批評的実践に向かったのがロマン主義作家たちだ。彼らの特徴は詩作と批評を同時に行っていたことだ」

司会者「高橋源一郎じゃないですか」

kenzee教授「ウン、もしかしたら「小説は小説家にしかわからない論争」ってのは古典主義vsロマン主義の論争だったのかも知れないね。ロマン主義の批評家・作家たちは美の規則を定めようとしなかった。新しいものもドンドン受け入れる素地があった。ホントに高橋源一郎だな。ロマン主義では批評はそれ自体が美しいものでなければならず、言説行為によって美を体現するものなのだ」

司会者「東さんもグチばっかり言ってないでロマン主義者の爪のアカでも煎じて飲んで欲しいですね」

kenzee教授「美の規則・基準がないということは批評家自らが「立法者」でなければならない、とシェリーは定義した。さらに言説は世界と同期し、言葉と世界の同期が完成すれば言葉が世界を動かす力となると信じた」

司会者「ラッパーみたいですね」

kenzee教授「立法者」となるべく、小林秀雄や江藤淳なども創作に挑戦したのだ。そんなシェリーのロッケンローラーな考え方に反論したのがポール・ド・マンだ。「言葉も行為も文も偶発的な出来事として生じるのだ、と。その力は死の力のように発生の偶発性からきているのだ、とロマン主義に対して非常にネガティブなツッコミを入れている。世界と言葉が同期する?チャンチャラおかしいぜ、と。世界は無規則なんだよ、と。言葉も論理も通用しないよ、と」

司会者「話終わっちゃうじゃないスか。ポール・ド・マンは空気読めないヤツだったんですね」

kenzee教授「ポール・ド・マンが見出したのはカフカの不条理のような「確率の位相」だった。そこで武田氏は「ソルジェ…」の東氏とポール・ド・マンに共通の匂いを感じ取ったのだ。だが、ド・マンが終末を見た場所に東氏は可能性を見出してたのだ。世界の無規則性、偶発性を受け入れながら、なおも批評が言葉を発するにはどうすればいいか」

司会者「それが「キャラクターズ」におけるグチだったのですね!」

kenzee教授「違うよ! で、若き哲学者東浩紀はこんな問題意識を持って出発したわけだ。その後の東氏の活動はよく知られているようにサブカルチャー全般の言説空間を分析する仕事にシフトしていく。これが前半の「ソルジェ…」論だ。こうやってまとめてみると東氏の現在の活動が決してサブカル者のオタク談義ではなくその先に見据えている目的があるのだね。無規則、偶発的な世界にたいして自らも非論理を取り込んで言葉を発する、という」

司会者「非論理っていうか……グチじゃあ…。武田氏は「キャラクターズ」をどう評価してるんでしょうね」

ときに真剣な小説論、時に悪趣味な暴力・性表現、時に自己を含む実在の人々へのゴシップ的な言及を挟みつつ…(中略)単体の小説としての完成度を意図的に放棄して純文学の現状に批判的な介入を試み、純文学的言説の閉鎖性を明解に示した点は積極的に評価すべきであるが「キャラクターズ」のなかに現行の言説と現実との関係性を変更する可能性を読み取るのは難しい。(囲われない批評)

kenzee教授「キャラクターズ」の言説と実践が同時進行して他人のツッコミを無視して暴走するさまは、一見サブカル者らしいフザケっぷりで人気取りをしているようにみえる。過激なパフォーマンスで東ファンをサービスしているようなね。でも、「ソルジェ…」の論旨を理解すれば「批評は非論理を志向する」という21歳のときの批評観に基づいた活動だとわかる。15年前と同じスピリッツが流れているのだね。でも、「キャラクターズ」の試みの面白さは認めるけどもワタシは純文学としては認められないな。相変わらず「試論」なんだよこの人は」

司会者「で、現在批評の場は衰退していて、純文学シーンはドンドン自らを囲い込む方向へ向かっている、と。そんな自閉的なシーンにおいて中原昌也は注目に値する、と」

kenzee教授「武田氏は随分と現在のシーンを悲観的に見ているが、そこは我々としては反論大アリなのだが、とりあえずそこは置いといて武田氏の中原論を読み込んでみよう。そして、どう東氏が21歳のときに命題に掲げた「非論理を志向する批評の言葉とは」という遠大なテーマと中原氏のフザけた世界がどうリンクし、現代文学の可能性を指摘するのか見ものだ」

司会者「じゃ、明日はホントに中原篇てコトで」

|

« で、やっと(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作) | トップページ | 可能性というよりリサイクル(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作)Part.3 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ソルジェ論を解読してみる(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作)Part.2:

« で、やっと(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作) | トップページ | 可能性というよりリサイクル(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作)Part.3 »