« またッスか?(昔話) | トップページ | で、やっと(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作) »

批評が必要になる瞬間

司会者「オ! 評論いきますか! 評論。kenzee教授も文学者ですからね~」(注・ホントはこの記事は群像評論当選作について書く予定だった)

kenzee教授「ドキドキ。(このテのヤツ、下手なこと言うとすぐ揚げ足とるヤツでてくるからな~)チョロイもんだヨ。ワタシも文学者だからね~」

kenzee「その前にyutakkoさんからコメントをいただいたんですが、やっぱり女性の読みって男には思いもよらないとこから攻めてきますよね。「月食」の月が子宮の象徴だと。確かにそう読むと料理→津田と亜由子の密会→地球儀のシーンまでのバタバタした展開も説明しやすいです。食がエロスの表出で、隆は盲人で味覚が発達していますから会食のシーンが妙に濃密なのも必然性があったのです」

司会者「でも、料理は失敗してて、隆はその失敗に気付いて、詩織は一瞬、ムッとするんですよね」

kenzee「そういった小さなすれ違いが後半の隆を送っていく場面、CDの貸し借りあたりのグダグダの伏線にもなっているのさ」

kenzee教授「子宮って言葉がでてきたんで気になったんだけど、最近読んだ評論で宇野常寛「ゼロ年代の想像力」ってのがあるんだけど、これの第8回で高橋留美子の世界は母性のディストピアだと論じてるんだな」

kenzee「高橋留美子って「うる星やつら」とか「めぞん一刻」の人ですか?」

kenzee教授「そう。で、東浩紀って10代のときに押井守監督作品「うる星やつら2・ビューティフルドリーマー」を観てかなり影響を受けたそうなのだ。そもそも「ビューティフルドリーマー」は押井守による高橋ワールドへの批評なのだ」

kenzee「ボクも、高校のときに夜中にテレビで観ました。「永遠に続く文化祭の前日」という設定はビックリしました。因みにボクの高校は管理教育バリバリだったので「文化祭などで生徒がウカれ騒ぐのをよしとしなかったので、夏休みが明けると同時に文化祭をやっつけてしまう、というスケジュールだったのです。9月3日~4日開催、とか」

kenzee教授「その「永遠に続く文化祭の前日」という設定自体が高橋ワールドへの批判なのだ。登場人物たちは永遠に年を取らず、ひたすら楽しい「楽園」を描く。「うる星やつら」「めぞん一刻」などが描き出す「楽園」は後のオタク系ラブコメの先駆となった。「萌え」の原点だとも言われている。主人公のあたるはその「楽園」の欺瞞に気付く。そしてあたるは「楽園」からの脱出(現実への回帰)を試みるのだ。つまり、こんな対立軸で構成される。ラムの願望(いつまでもこのメンバーと楽しい学園生活を送りたい)を叶えるため、妖怪・夢邪気が設定した「楽園」。そしてその欺瞞に気付いた人物たち。彼らは「楽園」にふさわしくない者であり、「楽園」から排除され、夢邪気の力で石柱にされ、楽園の人柱となる。これらが象徴するのラムの願望が「母性」であり、夢邪気の力は「肥大した母性」の暴力である、と」

kenzee「楽園」として描かれる学園生活は胎内のメタファーである、と」

kenzee教授「めぞん一刻」においても貧乏下宿・一刻館に住む学生、五代祐作はその管理人、音無響子のふさわしい男になるべく努力する。結果、彼らは結ばれるが、子供が生まれても彼らは一刻館に住み続ける。今度は「一刻館」が「楽園」となる。本来なら五代はモラトリアムの象徴たる一刻館を出て、広い世界へ羽ばたかなければならないのだが、高橋ワールドは五代を「一刻館」という胎内の外へ放り出すことはない。これもまた「肥大した母性」の物語だったのだ。こういった構造は後の「萌え」系アニメや美少女アニメには見られない構造なのだ。ナゼならそれらの作者は大抵男性で「母性」を創作の原動力としていない。むしろ家父長制的なマッチョイズムを原動力としている。つまり、母親の胎内を思わせる「楽園」で美少女とずっと一緒♥、というより美少女(病に冒されてたりする)をボクが救う、という父性の視点から描かれるので高橋ワールドとは別の発展を遂げてきたのだね。この宇野氏の評論は主に東氏への批判なんだけどその辺はどうでもいいや。ここで言及されている「母性の重力」「楽園というモラトリアム」「そこからの脱出」というポイントで「月食の日」までの木村文学とはなんだったのか、ということが説明できたりするのかナ?とか思ったワケ」

司会者「yutakkoさんの指摘したように詩織、料理、月食、子宮。もてなされる(味覚の優れた)盲人の男、という要素はエロスの表出であるとともに「母性の重力」をも思わせますね」 

kenzee教授「津田がいなくなった部屋はまさに「楽園」だ。だから「楽園」を出たとたん、二人の関係はギクシャクする。木村文学史を考える上で重要なのは「木村紅美」は「高橋留美子」ではない、ということだ。「ビューティフルドリーマー」における対立軸で考えれば、従来の木村作品は「あたる」側、つまりモラトリアムの側で、いつもそこからの脱出を試みる人物が描かれていたのだ。木村作品の登場人物がいつも旅にでて、移動するのも「脱出する側」の立場だからだと考えれば当然だ。「海行き」はいうまでもなくモラトリアムの物語だし、「島の夜」もそうだ。「ねぐら探し」の逃避行も「脱出」のストーリーだ」

司会者「木村さんは「あたる」だったんですね」

kenzee教授「うん、決してラムの側ではない。「楽園」から出て行く、その過程で人間が成熟していくさまを描いてきた作家だったのだ。文体はライトでもやろうとしていることが王道の純文学の伝統を受け継ぐものだったのだね。ところが最新作はさんざん「あたる」の側、モラトリアムの立場を守ってきた作者が「脱出」の先を描こうとしたものだ。人称の問題、移動、旅というモラトリアムの側の記号の封印、そしていびつな「楽園」の表出、作品全体から感じられるぎこちなさ、「母性の重力」を思わせるが、なんともいえない不穏な雰囲気がある。これまでが「あたる」の側だったので今度は「ラム、夢邪気」の側で、っていうほど単純じゃなさそうなんだな」

司会者「高橋留美子は押井守るの批評に対してリアクションしてるんですか」

kenzee教授「人魚シリーズというのがその回答らしい。人魚の肉を食べることによって永遠の命を手に入れた主人公は元の「死にゆく身体」を求めて数百年にわたって旅するというものだ。永遠という「楽園」を手に入れてしまったために永遠にモラトリアムを、旅を続けなければならなくなってしまうという自作へのアイロニーが込められている。「月食の日」は木村氏の自作への批評だったのではないかと思えてくる。さんざん「モラトリアムからの脱出」「旅と成熟」というテーマで走ってきた作者の批評の目は自作に向けられたのだ。今回の群像評論部門は「今、批評の場所はどこにあるか」というテーマで東浩紀と中原昌也について書かれているのだが、批評と批評の場所が生まれる条件とは、といったことにも触れられている」

司会者「ホントはその「囲われない批評」についてやる予定だったんですが」

kenzee教授「高橋留美子の話で終わっちゃいました」

司会者「kenzeeさんに質問。最近、新人賞関係は読んだのか?」

kenzee「ウ…ウン…。あのう……。文芸誌の編集者ってタイヘンなんじゃないかと最近思えてきました。だって、毎月スゴイ量の新作が書かれてるワケじゃないですか。で、賞の候補とか選出しようと思ったらヨソの文芸誌とかチェックしとかなきゃだし、どうやってみんな時間作ってるんでしょうね。でもまあ、一応読んでるんでボチボチやります。ハイ」

司会者「ホント、まーたアっという間に6月になっちゃいますよ!」

kenzee「ホント、トシ取ると時間が流れるのが早くなるよ……」

|

« またッスか?(昔話) | トップページ | で、やっと(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 批評が必要になる瞬間:

« またッスか?(昔話) | トップページ | で、やっと(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作) »