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で、やっと(武田将明「囲われない批評ー東浩紀と中原昌也」群像評論部門当選作)

司会者「で、やっと群像の評論受賞作に入れます」

kenzee教授「え~この武田将明氏の評論を読むに当ってお勉強した」

司会者「エ!? おっぱいパブにもキャバクラにも行かず、現代文学について研究していたのですか!? で、ナニを読んだんですか?」

kenzee教授「そのう、オレこの東浩紀って人についてあんまよく知らなかったんだよね。なんかライトノベルとかゲームとかアニメとかの批評やってる人ってイメージだけは持ってたんだけど「オレはカンケーない」と思ってたんだ。でもね、今回のこの「囲われない批評」とか、あとこのブログにリンク張ってくれてる人たちのサイトとか見るとさ、東さんって今かなりホットな人みたいね」

司会者「やめてくださいよ、まるで「今、Pufumeってのが売れとるらしいね~ところで彼女らはMAXとかとは違うのかね」みたいな必死でオヤジが若者におもねるみたいな興味の持ち方は」

kenzee教授「で、慌てて最近、「キャラクターズ」とか「動物化するポストモダン」とか「ゲーム的リアリズムの誕生」とか読んでみたワケ」

司会者「いまさらですか! 完全にオヤジの行動パターンじゃないですか! 「とりあえずPufumeのベスト盤あるかね?」ってツタヤの店員に聞いてるオッサンレベルの遅れっぷり! どうしたんだ? アンタ昔はもっと尖ったナイフだったぜ!?」

kenzee「そこでボクもひとこと言わせていただきたいんですがね。そろそろボクも10歳以上年下の人の小説とかわからなくなってきてるんですよ。人っていうかシーンが理解できないっていうか…。例えばケータイ小説市場とかラノベシーンとかもうワカランわけです。でも、なんか意味はあると思うんですよね。わからんものは切り捨て、じゃ石原慎太郎ですから」

司会者「諏訪哲史ですよね」

kenzee「で、そういうイマドキのシーンをオッサンにもわかりやす~く教えてくれる批評家として東浩紀ってありがたい存在なんですね。って東氏ってオレより年上なんだが」

司会者「で、どうなんですか。わかったんですか? 現在のサブカルチャーを取り巻くシーンについては」

kenzee教授「キャラクターズ」はスゴイ小説だぞ」

司会者「やめてくださいいまさら。もう東さん、新潮に新しい長編も発表してるのになんスか!その間の悪さ」

kenzee教授「ワタシは文芸誌でこれほどグチをこぼす小説を読んだことがない。中原昌也を除いて」

…というわけで、ぼく、すなわち東浩紀、21歳で批評家としてデビューし、かつて浅田彰の後継者や阿部和重の盟友と呼ばれ栄華を誇り、しかしただちに文芸誌から忘れ去られ、ネットぐらいにしか活路がなく、そこでもいまや時代遅れと見なされて新著も大して話題になってない、この中途半端な学者くずれは自分の一コ上の谷川流に経済資本のすべてを、桜庭一樹に象徴資本のすべてをかっさらわれて生き残るためにもはや毒でもなんでも食らう気になっているやぶれかぶれのライトノベル作家をだまくらかし、筒井康隆の二番煎じのような共作を編集長との10年来のコネを活用して「新潮」に押し込むことを決意した。(中略)こっちはもう15年も前からちょっとデビューが早かったからってバカな年長世代にさんざんおもちゃにされて浅田彰から山形浩生を通って大塚英志あ唐沢俊一までおれの文章なんてぜんぜん理解できてないくせに若い世代をクサしてれば生き残れると思って調子に乗って説教かましてやつの文章か、笠井潔のようにおれを利用することしか考えてないやつの文章ばかり読ませられて、笙野頼子のようにおれが男の批評家だってだけで嫌がらせをしてくるやつも現れるし……(中略)結果として、東と桜坂は3000部の作家の対談のためにホテルとハイヤーを用意し、賞金50万円の文学賞の選考委員に30万円の選考料を払う、コネと既得権益だけで作られた華やかな「文学」の世界に足を踏み入れることになるだろう……(東浩紀+桜坂洋「キャラクターズ」)

司会者「どこのタチの悪い筒井康隆だよ!」

kenzee教授「武田氏の「囲われない批評」の論旨はまず、「批評は呪われている」というものなのだが……。批評が呪われてるっていうか…」

司会者「批評家が呪われてるっていうか……」

kenzee教授「東さん個人が呪われてるだけじゃないんですか?」

司会者「たぶん、小林秀雄とかこんなグチとか言わなかったと思います」

kenzee教授「小林秀雄って海原雄山みたいな人だったらしいからな」

司会者「で、200枚ひたすらグチってるんですか?「キャラクターズ」って」

kenzee教授「ウン、180枚ぐらいが東氏のグチだ。あとの20枚が桜坂氏の小説のパートだ」

司会者「ホントかよ!」

kenzee教授「で、最後、東氏はタンクローリーで築地にある朝日新聞社本社に突っ込んで自爆テロを起こす。大火事となった社屋からは火だるまになった唐沢俊一とか北田暁大とか香山リカとかが現れては死んでいくのだ」

司会者「なんで香山リカまで出てくるんですか!」

kenzee教授「ま、このように「理屈っぽいドリフ」みたいな話だったんだけどね。で、なんで批評家の東氏が小説を書こうと思ったかというと」

司会者「たいして上手くもないですよね」

kenzee教授「文芸誌の現状を考えると「小説」という体裁なら「巻頭一挙200枚掲載」という展開が可能だがこれが評論となるとどうしても「分載」という形にならざるを得ない。評論の連載なんて誰も読まない。モチロン巻頭などありえない。東氏としては「ゲーム的リアリズム」で展開したよう文学論を文芸誌に載せたかったのだが「文載」じゃなあ、という理由で「じゃ、小説ってコトで」と、まんまと「新潮」にネジこんだらしいのだ」

司会者「合理主義者か!」

kenzee教授「ま、そんなこんなでいまやスターな東氏なのだが彼はもともとジャック・デリダの研究をやっていて本来の肩書は哲学者なのだ」

司会者「こんなにハヤリモノがすきな哲学者も珍しいですね」

kenzee教授「変わり者なのだと思うよ。哲学って不易流行でいったら「不易」について突き詰める学問だからね。で、武田氏が扱った「東浩紀」とは現在のサブカルチャー評論でスターの「東浩紀」ではなくて、いまから15年前、21歳の若き哲学者の東氏だ。そのデビュー作「ソルジェニーツィン試論」を採り上げ、現在のマルチ評論家「東浩紀」との変わらぬ視点、スタンスについて指摘し、また「キャラクターズ」が現在の閉鎖的な純文学シーンへの批判である、と位置づけている。そういった文脈に基づいて純文学シーンを見渡したとき、注目すべき作家として中原昌也が浮かび上がってくる、と」

司会者「よりによって中原ですか」

kenzee教授「でね、この評論、前半はムズかしくてワケわかんないんだ」

司会者「(…アンタ、ホントに文学者……?)」

kenzee教授「ところが後半、話が現在の純文学の現状、みたいな論旨に移っていくと急に物言いが粗雑になってくるんだな」

…「批評空間」が売り上げ部数の減少といった経済的な理由でなく、編集者の死、という偶発的な出来事を主な原因として廃刊されてから理論的な文章の発表される場は急に狭められ、理論は現実に圧倒され、沈黙を余儀なくされている。(中略)しかし、状況全体を見たとき、批評が分野として衰退しており、新たな展望も見えないのは否定しがたい。(囲われない批評)

司会者「新潮も評論部門なくなっちゃいましたからねえ」

kenzee教授「で、このあと、批評は衰退したけど、純文学シーンそのものは活況を呈している、と。この10年、平野啓一郎、金原ひとみ、綿矢りさ、中村文則、青山七恵などの若い芥川賞作家が登場し、新人賞の応募数もウナギ昇りだ、と。でも評論部門はむしろ減ってるケド、と。でも、今の純文学がホントに現実に、事実性に向き合えているのか、と。応えは否。ドイツもコイツも社会的に見れば適応障害を起こしている人々の醜い部分まで赤裸々に描いているという点ではリアリズム小説と呼べるかも知れないが、それらの「リアリズム」はむしろ現実から目を背けることで成立している、と。毎月の文芸誌を手にとってみればニート男かメンヘル女を主人公にした一人称小説ばっかりじゃないか! つーかオマエラ運動せえ!と」

司会者「変わった評論ですね」

kenzee教授「むしろ、純文学よりミステリーやライトノベル作家、清涼院流水や舞城王太郎、谷川流などのほうがよっぽどかつての「ポストモダン文学」の実験精神を受け継いでいるではないか!と。今日の純文学が批評を必要としないのは、批評によって囲い込まれる前に、自らを囲っているからなのだ、と!」

司会者「ちょっとそれは、一面的な見方、と言えやしませんかネ? 武田先生!」

kenzee教授「ま、我々はテクストからしか判断するしかないんだが、武田氏はもしかして純文学を芥川賞作品だけ読んで論じてないかしらん?」

司会者「芥川賞って獲ったヤツより落ちたヤツのほうが実験的だったりするんですよ、ホレ、よく漫才とかのコンクールで優勝したヤツより審査員特別賞みたいなヤツのほうが妙に生き残ったりするでしょう? アレと一緒で」

kenzee教授「ニート男やメンヘル女を主人公とする一人称小説……ウ~ン、とりあえず木下古栗を読んでみて下さい。あと、田中慎哉と」

司会者「いまや、純文学の規定は、それがマイナーな文学だという形式性にしかない」

kenzee教授「ウ~ン、円城塔読んでみてください。つーか、芥川はチェックしてるんだったら「アサッテの人」は読んでらっしゃるんだろうが」

司会者「でも、武田氏が問題にしているのは言説と現実の関わりという、批評が解決できなかった問題に、じゃあ、上記の作家たちは答えているのか、と言ってるワケでしょう?」

kenzee教授「確かに木下古栗じゃちょっとムリかな……」

司会者「で、武田氏はそういった問題に自覚的な作品として東氏の「キャラクターズ」を挙げているのですが」

kenzee教授「みんなでグチ言いだしてもなあ」

司会者「いや、べつに「キャラクターズ」グチ言ってるだけじゃないですよ。自然主義リアリズム(現実の写生)ではもう現実と関われない、なのでゲーム的、アニメ、まんが的リアリズム(キャラクターは複数の生を生きる)で小説は書かれるべきだ、というメッセージが基本のテーマです」

kenzee教授「で、唯一、そういった武田氏の考える問題に対応している作家として中原昌也が挙げられる、というのが後半の展開だ」

司会者「ハイ、それでは明日は後半の中原論はどうなの!?(P103以降)というテーマでくっちゃべってみましょうかね」

kenzee教授「でもアレだよ? コレ「囲われない批評」やるために東浩紀やら宇野常寛やら泥縄式に読んだのだよ」

司会者「だからソレ、オヤジの行動だから」

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