口のなかがギトギトになりませんか(谷崎由依「冬待ち」文學界7月号)
司会者「死んだのかと思ってましたよ」
kenzee「イヤあの、先週は人生で3番目ぐらいに忙しい1週間だったんじゃないかっていうぐらい多忙だったんです。そんで来週とか引越しとかするんですよ。それで本とCDだらけのこの6畳間ともお別れだと、今、パソコンとオーディオと数冊の本だけの部屋でゆく夏を惜しみながら……」
司会者「畳の部屋なんですか」
kenzee「ウン。物がなくなると部屋ってのは広く感じられるもんだね。ちょっと風情があります。で、夏の間手ェつけられなかった作品に今のうちに触れておこうと思いまして」
kenzee教授「それでは谷崎由依「冬待ち」に取り掛かりたいと思う。大学院生・糸乃は一人暮らしで修士論文を書くため、大学の図書館に通う毎日だ。哲学書ばかり借りているというから文系なのだろう。糸乃と、大学時代に知り合って現在は会社員の香川と図書館司書の慧子、大学時代の同窓生、恵子と椎野との人間関係を軸に描かれる。この関係性を糸乃はxの文字になぞらえるが、図書館で知り合い、親密になった慧子に「お守りをあげる」とスケッチブックに書き付けたのはヘブライ語の第一文字アレフ(変換できません)だった。そして慧子は「大丈夫、木は森で繋がっている」と言って別れた。そして、糸乃は春の訪れを感じるのだった(了)という幻想的な青春小説なのだが。現代文学の若手のなかでも言葉に対する意識の高い作家だ。前作「舞い落ちる村」における「予定より打ち寄せすぎた波のように列車がやってくる」といったような練られた文章は今作でも健在だ。
雪の中に別の匂いが混じる。春がほどけてゆく気配だ。
水底にプランクトンの積もる速度で、降る雪は時間の流れを欺くように遅くする。
冬空が「青い」というより「白い」感じがする、ということをこう表現する。
空は灰色でも青色でもなくて、均質な白い色をしていた。真珠の表面のような、光沢のある乳白色だ。鬱が反転せずにそのまま空に広がって、す、と馴染む。白い空に。
川上弘美を思わせるところもあるが、詩的な文体を持った作家だ。
「創造してみるんだ。何かとても壊れやすいもの、ちょっと間違えたらそのまま壊れてしまうようなガラス細工を私は手にしている」
まさに谷崎氏の文章だ。ゴーレム創造、アリアドネの糸、アラクネの糸、メフィストフェレス、ギリシア神話やドイツの民間伝承までが会話のはしばしに登場するがそれらも作品を読み解くカギというわけではなくて図書館が舞台のこの作品の雰囲気づくりのためという感じだ。因みに作中で引用されるゲルショム・ショーレム著、山下肇ほか訳「ユダヤ神秘主義」(法政大学出版局)は現在、アマゾンのマーケットプレイスでベラボーな高値が付いている。幻想的、格調が高くて自閉的という作品世界がますます充実している。後半、真夜中の図書館へ忍び込むシーンなどはドラマとしてのカタルシスへの意識も感じられる。谷崎氏でもストーリーテリングということを考えるんだね」
司会者「文學界も一応商業誌ですからね。谷崎氏自身大学院出身ですが、その時代の生活から取材されてるんでしょうか」
kenzee教授「浮世離れしたようなトコがあるね。ま、多少浮世離れした生活のなかからでないとこれほど練られた文章や作品世界というものは生み出せなかっただろうが」
司会者「舞い落ちる村」も「冬待ち」も登場人物たちは生活感がありませんね。クロワッサンとかつまみながらあとはワインとか飲んで生きてる感じです」
kenzee教授「主食ポッキーで生きてる女子高生とかよくいるけどな」
kenzee「谷崎氏といえば小食なイメージがありますが果たしてそうでしょうか! 確かに谷崎氏の小説は幻想的で儚げな世界。フルーツとかチョコレートだけで生きてるイメージありますが、前作「舞い落ちる村」にこんなシーンがあったのを覚えているでしょうか。夏休みが終わって村へ帰る「私」と付いていくという朔。道中、ラーメン屋に寄って小腹を満たした後、二人は別れるのです」
司会者「切ないシーンですね」
kenzee「そして今作にはこんなシーンが!
食べてもいいと思える食材はカップ麺くらいしかない。(中略)やかんのかたかた言う音で我に返り、火を止めてカップに注ぎいれる。待つあいだに具材の入っていた小袋とビニールの包装を捨てる。どちらにもプラスチックの表示がある。小袋は銀色をしているが、これでもアルミホイルではなくプラスチックなのだということを、最近まで知らなかった。プラスチックは無臭ではなくて、独特の匂いがある。百円均一店の前を通り過ぎるだけで気分が悪くなるくらいだ。
谷崎氏の文章とは思えないほど幻想性ゼロの世界。小袋とかどうでもいいじゃないですか!」
司会者「ダメですよ、アルミホイルだったら燃えないゴミになるんだから!」
kenzee教授「まさか谷崎小説において「カップ麺」とか「小袋」とか「百円均一」とかいう言葉にお目にかかるとはな。それにしても谷崎さんはラーメンが好きなのかな」
kenzee「それもラーメングルメというワケではなくてカップ麺でもOKなようです。因みにボクはカップラーメン食べません。一人暮らしですが小腹がすいたらお茶漬けでも食います。だって、カップラーメンて食べたあと口のなかギトギトになるじゃないですか!」
kenzee教授「そんなの歯ァ磨けばいいだろう!」
kenzee「なら、糸乃がラーメン食ったあと、歯ァ磨くシーンも欲しかったですね。
……必然的に、だから罪はある。そして報いも。ダイニングは隅々までがらんと広い。広々とした不安、ということを糸乃は思った。そしてカップ麺(スーパーカップ1.5倍とんこつ)で口のなかがギトギトになった糸乃は歯を磨くため、洗面所へ向かった。
kenzee教授「やめたまえ! 全然幻想的じゃない文章を付け足すのは!」
司会者「それにどう考えても谷崎氏はスーパーカップとんこつ味はありえないですよ。絶対しょうゆラーメン系ですよ!」
kenzee教授「で、まあこの作品に登場する固有名詞、例えばアリアドネとか。ググればすぐギリシア神話の逸話とかでてくるし、そうやってこの小説に埋め込まれた背景を読み込んでいくのもいいだろう。円城氏の「つぎの著者へつづく」などはもしかしたらネットで検索することを前提にあれだけの引用がなされていたのかも知れない。でもねえ、それ1コ1コ調べたところで、どうかな、と思うんだ。ま、糸乃がどんな論文書いてたのかの手がかりくらいにはなるだろうがね。それより「冬待ち」には谷崎作品にしては珍しく、生活が描かれた作品だね。冒頭から掃除をしなくては、と糸乃は思う。散らかった部屋の描写がある。冷蔵庫の中身について詳細に書かれる。飲んだり食ったりするシーンも多い」
司会者「谷崎作品のなかでも現実的な世界なんですよね」
kenzee教授「SFマガジン2月号に掲載された「夕暮れ畑」などはその牧歌的なタイトルとは裏腹に全く現実との接続性が感じられないまるっきりの幻想小説だ。ていうかナニがかいてあるのかわからない。「リアリズム小説」への挑戦で「ガロ系は大体好き」と話しているが、確かに「夕暮れ畑」にせよ「舞い落ちる村」にせよ、つげ義春を思わせるところがあるね」
kenzee「ガロ系は大体好きってことは蛭子さんとかみうらじゅんとかも好きなんですかね」
kenzee教授「女性ならではの感性」とかいうとyutakkoさんに怒られそうだが、男と女ではやっぱり書くものは違うよ。私は小説という表現形態は女性には敵わないんじゃないかと思うことがあるよ。解剖学的にいうと、男性の脳は左右が完全に分離されているのに女性の脳は左脳と右脳が太いパイプで繋がれている。これは肉体的な差異であって、しょうがないんだよね。往々にして女性の作家のほうが早熟なのはこの脳の構造と関係があるんじゃないかと思うんだよね。まあ、乙一みたいな早熟な男もいるが。「夕暮れ畑」はあまりに独特なので置いておくとして、谷崎由依という作家はやっぱり金井美恵子と川上弘美のあとに続く、というイメージだね。「冬待ち」は一見、読みにくい小説だけど結局なんの話かというと人と出会って別れて若者が成長していく話なのだ。一風変わった少女小説なんだよね。「舞い落ちる村」だって都会での経験を通じて「実存」としての少女がただの村人へと戻っていく「構造」の中へ向かう話で、純文学らしい純文学なのだ」
司会者「それにしても大学院生ってこんなにヒマなんですか」
kenzee「ゴダールの「中国女」という映画があるけど、左翼学生が誰かの別荘に集まってエンエン共産主義とはなにか?みたいな議論ばっかりして過ごす、みたいなノンキな映画なんだよ。で、夏休みが終わるとみんな去っていくんだ。「冬待ち」にはそういうノンキさがあるよね。インテリ学生だけに許された無為な時間というか。それは多分物凄く贅沢なことなんだよ。でも、やがて春が訪れ、そんな場所から糸乃も去っていくのだけどもね。確かにこんなノンキなモラトリアム学生生活にはカップ麺が似合うよね。ま、オレは夜10時以降、カップ麺なんか食ったら翌日胃が死ぬけどね」
| 固定リンク | コメント (2) | トラックバック (0)


最近のコメント