藤田さん、それではシンドイワ(閑話休題)
kenzee教授「カレコレ引っ張りまくってる「ゼロ年代の想像力」だが佐藤亜紀が自身のサイトでボロクソ言ってるようなのだ」
司会者「ああ、あの人昔平野啓一郎とかにも突っかかってましたもんね。今度は宇野氏ですか」
kenzee教授「まあ佐藤亜紀が誰に突っかかろうが一向に構わないのだが、ゼロアカメンバーでSFマガジンの評論賞作家の藤田直哉氏がその酷評に反論しているのだが、佐藤氏のみならず別のところからも袋叩きに遭っていて気の毒なのだ」
司会者「藤田氏といえばこのブログにもいち早くリンク張ってくださったウチの常連読者じゃないですか、そこはやっぱりkenzee教授の理論武装で助太刀したいところですよね!」
kenzee教授「ウン、助太刀しようかなと思って一連の顛末を読んでみたのだが、ウ~ン、コリャ藤田さんシンドイワ。まず、佐藤氏が「ゼロ年代」のどこが気に入らないのかといえば……読む前から偏見ガチガチっぽいんだけど、要するに宇野氏にしろ東氏にしろ彼らが取り上げるのはB級グルメである、と。そして彼らがやっているのは歴史性を省みない視野の狭い議論だと。一流のメシを食ったことがないのだろう。それがジャスコワールドってヤツですか、哀れよのう、と」
司会者「ハナから偏見のアレで読んでるのがビシビシと伝わってきますが」
kenzee教授「で、藤田氏が反論を試みるのだ。佐藤氏はブルジョアの教養主義だ、と。高級な文学の立場から宇野氏らの取り上げるアニメやテレビドラマのようなB級文化を哀れんでいる、と。しかし地方や郊外、つまり、文化的な啓蒙の機能をジャスコとかツタヤとかコンビニが掌ってるような田舎の人々(ジャスコワールド)にとってそのような(佐藤氏の言うB級グルメ)カルチャーから文学的想像力を読み取るという試みには相応の価値があるのではないか、とここまでは至極まっとうな疑問なのだが別のトコで袋叩きに遭ううちにだんだん物言いがメチャクチャになってくるのだ。
「芸術」という概念は僕の中には存在します。そしてその概念は、おそらく、あなたや、佐藤氏とは、信じるものが違うのです。
何に価値があり、何に価値が無いかの基準、何を芸術とするかは「人それぞれ」なのです。美学の伝統も苦心も知っていますが、
その「美学」自体に価値があるという判断を下さないというだけです。僕は違う美の論理を持っているんです。それとは。
「歴史的なもの、それを無条件で受け入れるべきだ」という態度こそ、まさに教養主義といわれるものではないでしょうか。(藤田氏の反論コメント)
……コレ、一応プロの批評家としてどうかと思うんだけど。これでは藤田氏をイニシエのデカルトの「我思う、故に我あり」という大昔の観念論者として我々としては認めざるを得ない。もしかしたら藤田氏は「この議論においては観念論的な立場をとったが普段からそういうワケではない」とかメタなスタンスで言い訳しそうだけど、批評家が観念論の立場をとるか唯物論の立場をとるかは根源的な問題であって、そこはハッキリしてなきゃいけないんだよ。「ボクはこう思う、こう感じる」「キミはこう思う」感じ方の問題だと。これでは読書感想文の言い合いであり批評にも理論にもなりえない。そうならないためにアナタの大先輩たちは文学理論というものを長年かけて構築してきたのだがね。文学批評というものは「人それぞれ」であってはいけない、客観的な視座が必要だ、ということで批評というものが生まれたのだが。いくら藤田氏が批評史、歴史を学んだといっても観念論の立場に立ってしまっては元も子もないのだ。唯物論か観念論か、という問題は哲学の根源的な問いであって、藤田氏の立場だと「神の存在」を認めることになるの。(モチロン藤田氏が特定の宗教に帰依していたとしてそれは藤田氏の自由なのだが)私は藤田氏の「ダークタワー論」も読んだしブログも定期的にチェキッているが藤田氏が常日頃から言っているのは「自分はこの格差社会においては「ジャスコ」の側の人間だと。日常的にネットカフェ難民に接する機会も多いので現代の低所得者層の現実をよく知っている。なので、小泉改革「新自由主義」ジャスコ化ネオリベ化はできる限り緩和しなくてはいけない」。でも、その新自由主義ってのはまさに「人それぞれ」「ネットカフェ難民になるのもその人の自由」という自民党的観念論哲学によって成立してるのであって。つまり、「誰が好きこのんでネットカフェで寝泊りするかボケ!」と訴える立場ならば藤田氏は唯物論の立場でないとオカシイわけ」
司会者「唯物論といえば「マルクス主義かよ!」で捨てられてしまいそうですが」
kenzee教授「藤田氏ほど文学に精通した批評家なら1990年代の人文科学の代表をなす活動「カルチュラル・スタディーズ」はご存知だろう。モノ凄く手短に説明すると、っていうか説明が難しいんだけど。よく言われるのは「理論」は「理論」。カルチュラル・スタディーズは実践だ、と。てっとりばやく「理論」と呼ばれているものを理論する実践といったところか」
司会者「ナニ言ってるのかわかりません」
kenzee教授「とにかくカルチュラル・スタディーズは意味、アイデンティティ、表象、行為主体をめぐる理論的な論争と関わっていくんでね。で、カルチュラル・スタディーズには二つの系統があってひとつ目は1960年代のフランスの構造主義での文化の実践における規則の研究というものだ。有名なところではロラン・バルトがプロレスとボクシングにおける規則の差異、といった研究をしている。プロレスは規則(場外乱闘などの)を破ることによって、プロレスショー足りえる。規則は破られるために存在している。つまり規則は試合の内部にある。だが、ボクシングでその手の規則は厳格に機能する。つまり規則は試合の外部にある。こんなふうにバルトは文化的イメージの内にひそむ意味の読み取りとか、大衆文化全般の社会的機能の分析をおこなっていった」
司会者「バルトって面白そうですね。ムズカシー批評家というイメージがありますが」
kenzee教授「ウン、あとプロレス以外に車と合成洗剤の広告とかアインシュタインの脳とか神話的な対象まで扱った。ここらの話はロラン・バルト「神話作用」(1957)で述べられている。ここでバルトは文化の中で自然に見えるようになったものは実は偶然、歴史の中で構築されたに過ぎないと言っている。藤田氏は「歴史を無批判に受け入れることが教養主義だ」と主張しているが、「主観的な、自然な感動」だって歴史の中で構築されたのだ、とバルトは半世紀前に結論づけている。そして、藤田氏が弱者の見方であり、ジャスコ層を擁護する立場をとるなら唯物論哲学の側に立ってないとおかしいんだが。(考えてみてください。観念論の立場の公明党がネットカフェ難民を救いますって言ってもなんにも説得力ない)現代のカルチュラル・スタディーズのもうひとつの源はイギリスのマルクス主義の文学理論だ。レイモンド・ウィリアムスとかリチャード・ホガートとかが文化が高級な文学と同一視(佐藤亜紀!)されるにつれて見失われてしまった労働者階級の民衆文化を取り戻そうという運動を展開した。コレ、50年代の運動なんだけど東氏や宇野氏の活動はむしろ、彼らの精神との連続性を感じるんだがどうかね?」
司会者「ま、佐藤氏なら「持ち上げスギ」とか言ってオワリでしょうけどね。で、宇野氏たちの先輩筋にあたるカモなレイモンドとかリチャードとかの研究は結局どういう末路をたどったんですか」
kenzee教授「失われた声を取り戻し、下から歴史を掘り起こそうとする彼らの計画は、もうひとつの文化の理論化とぶつかることとなった。レイモンド・ウィリアムスたちの運動は藤田氏同様、高級とかB級とかの壁をとっぱらって並べてみようゼ、という計画だったのだがヨーロッパのマルクス主義理論とぶつかったのだ。彼らはB級カルチャーってのはつまり、抑圧的なイデオロギーが作り上げたものであって読者は単に想定された「消費者」であり、国家権力の働きを正当化するように作用するために作られる、と分析した。いかにもマルクス主義らしい穿った見方だけど、一理あるんだよ。例えばラップ・ミュージックという大衆文化がある」
司会者「教授ってすぐラップの話しますよね。そういえば」
kenzee教授「ラップは本来、低所得者層が自らの境遇に対して怒りの声をあげたり、国家権力を告発したり、集団を煽動したりする、反権力、反イデオロギー的表現として現れたんだが、やがて、(国内においてはだけど)ラップミュージックが市民権を得て、それなりに金を引っ張るようになると急に「父や母に感謝、ストリートの先輩たちにリスペクト」とか妙に物分りのいい内容になってくる。ジャニーズタレントなども「ちょっとワルなボーイ」みたいなコンセプトで登場して「実はイイ人」とオチをつけることで女子のハートを鷲づかみにする、という構造を持っている。結局、安全な、国家権力に与する方向へ向かっていくんだね。モチロン、「こんな国、転覆しちまえ!」といった表現も存在するのだが圧倒的にカネを動かすのは前者なのだ。宇野氏や東氏はこういった半世紀前の議論と自己の評論をとくに比較したり参照することはない。なんでだろうね。ま、批評家には二種類いて、今ある文学がどっからきたのか、という過去に目がいく人と、今ある文学がどこへ向かっていくのか、という未来に興味ある人といるんだね。私は典型的な前者だが宇野氏や東氏は後者なのだろう。要するにだね、藤田氏の反論はちょっと、いきあたりばったりだったフシがあるね、と」
司会者「カルチュラル・スタディーズの源流についてはなんとなくわかりましたが、現在はどうなっているのですか」
kenzee教授「カルチュラル・スタディーズの実践者たちは現在の研究が単なる記述に終わらず、文化の介入になることを望んでいる。彼らはその知的な仕事によって従来とは違うものを生みだすことを期待されている。美少女ゲームや平成仮面ライダーシリーズに「従来と違うもの」とは佐藤亜紀は認めなかったようだが。でね、歴史的に見ると(藤田氏のキライな歴史で悪いが)ポピュラーカルチャーを研究するということと、それによって政治に介入するということは密接に関わっている。そしてその国や社会の歴史によってその意味はさまざまなのだ。60~70年代のイギリスでは、国民の文化的アイデンティティが(シェイクスピアとかジェーン・オースティンとか)高級な英文学の伝統に根ざしているのでポピュラーカルチャーの研究自体が反抗の姿勢を示すものだった。だが、アメリカでは「高級」イコール敵、みたいな感覚がある。未だにフロンティアスピリッツが生きているのだ。アメリカでB級文化を学術的に研究するということはマス・カルチャーをアカデミズム化する試みってことになってしまう。日本ではどうか。アニメ、美少女ゲーム批評の東浩紀が秋葉原の事件のコメントを求められたり、大塚英志に「戦後民主主義っていうキミの立場はどこにあるんだ!」と「リアルのゆくえ」で怒られてしまう、というところに見えるね。つまり、「政治への介入」とかに最も興味なさそうな東氏につめよってしまうのが日本におけるポピュラーカルチャー研究の風景なんだね。そう考えると藤田氏の「高級な文学「も」あっていい」とか「教養の設定のレベル」の問題とか言い逃れ可能な物言いではなかなか解決しない問題なんだね。コレは」
司会者「藤田氏はゼロアカメンバーのひとりとして、文学フリマに出場されるようです。コレは同人誌対決なんですよね」
kenzee教授「パンドラ」によると編集者の太田氏の得点は0点が決まってるらしいね。でも、フツーに円城塔氏に原稿依頼してホントに原稿もらっちゃう行動力とかスゴイと思いますよ。意外にこういう人がねえ」
司会者「次の時代のアレするかも知れないですよ、って円城さんもノリがいいですね相変わらず。で、文藝賞のつづきはどうなったんですか」
kenzee教授「明日、かな…」
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