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2008年10月19日 (日)

藤田さん、それではシンドイワ(閑話休題)

kenzee教授「カレコレ引っ張りまくってる「ゼロ年代の想像力」だが佐藤亜紀が自身のサイトでボロクソ言ってるようなのだ」

司会者「ああ、あの人昔平野啓一郎とかにも突っかかってましたもんね。今度は宇野氏ですか」

kenzee教授「まあ佐藤亜紀が誰に突っかかろうが一向に構わないのだが、ゼロアカメンバーでSFマガジンの評論賞作家の藤田直哉氏がその酷評に反論しているのだが、佐藤氏のみならず別のところからも袋叩きに遭っていて気の毒なのだ」

司会者「藤田氏といえばこのブログにもいち早くリンク張ってくださったウチの常連読者じゃないですか、そこはやっぱりkenzee教授の理論武装で助太刀したいところですよね!」

kenzee教授「ウン、助太刀しようかなと思って一連の顛末を読んでみたのだが、ウ~ン、コリャ藤田さんシンドイワ。まず、佐藤氏が「ゼロ年代」のどこが気に入らないのかといえば……読む前から偏見ガチガチっぽいんだけど、要するに宇野氏にしろ東氏にしろ彼らが取り上げるのはB級グルメである、と。そして彼らがやっているのは歴史性を省みない視野の狭い議論だと。一流のメシを食ったことがないのだろう。それがジャスコワールドってヤツですか、哀れよのう、と」

司会者「ハナから偏見のアレで読んでるのがビシビシと伝わってきますが」

kenzee教授「で、藤田氏が反論を試みるのだ。佐藤氏はブルジョアの教養主義だ、と。高級な文学の立場から宇野氏らの取り上げるアニメやテレビドラマのようなB級文化を哀れんでいる、と。しかし地方や郊外、つまり、文化的な啓蒙の機能をジャスコとかツタヤとかコンビニが掌ってるような田舎の人々(ジャスコワールド)にとってそのような(佐藤氏の言うB級グルメ)カルチャーから文学的想像力を読み取るという試みには相応の価値があるのではないか、とここまでは至極まっとうな疑問なのだが別のトコで袋叩きに遭ううちにだんだん物言いがメチャクチャになってくるのだ。

「芸術」という概念は僕の中には存在します。そしてその概念は、おそらく、あなたや、佐藤氏とは、信じるものが違うのです。
何に価値があり、何に価値が無いかの基準、何を芸術とするかは「人それぞれ」なのです。美学の伝統も苦心も知っていますが、
その「美学」自体に価値があるという判断を下さないというだけです。僕は違う美の論理を持っているんです。それとは。
「歴史的なもの、それを無条件で受け入れるべきだ」という態度こそ、まさに教養主義といわれるものではないでしょうか。(藤田氏の反論コメント)

……コレ、一応プロの批評家としてどうかと思うんだけど。これでは藤田氏をイニシエのデカルトの「我思う、故に我あり」という大昔の観念論者として我々としては認めざるを得ない。もしかしたら藤田氏は「この議論においては観念論的な立場をとったが普段からそういうワケではない」とかメタなスタンスで言い訳しそうだけど、批評家が観念論の立場をとるか唯物論の立場をとるかは根源的な問題であって、そこはハッキリしてなきゃいけないんだよ。「ボクはこう思う、こう感じる」「キミはこう思う」感じ方の問題だと。これでは読書感想文の言い合いであり批評にも理論にもなりえない。そうならないためにアナタの大先輩たちは文学理論というものを長年かけて構築してきたのだがね。文学批評というものは「人それぞれ」であってはいけない、客観的な視座が必要だ、ということで批評というものが生まれたのだが。いくら藤田氏が批評史、歴史を学んだといっても観念論の立場に立ってしまっては元も子もないのだ。唯物論か観念論か、という問題は哲学の根源的な問いであって、藤田氏の立場だと「神の存在」を認めることになるの。(モチロン藤田氏が特定の宗教に帰依していたとしてそれは藤田氏の自由なのだが)私は藤田氏の「ダークタワー論」も読んだしブログも定期的にチェキッているが藤田氏が常日頃から言っているのは「自分はこの格差社会においては「ジャスコ」の側の人間だと。日常的にネットカフェ難民に接する機会も多いので現代の低所得者層の現実をよく知っている。なので、小泉改革「新自由主義」ジャスコ化ネオリベ化はできる限り緩和しなくてはいけない」。でも、その新自由主義ってのはまさに「人それぞれ」「ネットカフェ難民になるのもその人の自由」という自民党的観念論哲学によって成立してるのであって。つまり、「誰が好きこのんでネットカフェで寝泊りするかボケ!」と訴える立場ならば藤田氏は唯物論の立場でないとオカシイわけ」

司会者「唯物論といえば「マルクス主義かよ!」で捨てられてしまいそうですが」

kenzee教授「藤田氏ほど文学に精通した批評家なら1990年代の人文科学の代表をなす活動「カルチュラル・スタディーズ」はご存知だろう。モノ凄く手短に説明すると、っていうか説明が難しいんだけど。よく言われるのは「理論」は「理論」。カルチュラル・スタディーズは実践だ、と。てっとりばやく「理論」と呼ばれているものを理論する実践といったところか」

司会者「ナニ言ってるのかわかりません」

kenzee教授「とにかくカルチュラル・スタディーズは意味、アイデンティティ、表象、行為主体をめぐる理論的な論争と関わっていくんでね。で、カルチュラル・スタディーズには二つの系統があってひとつ目は1960年代のフランスの構造主義での文化の実践における規則の研究というものだ。有名なところではロラン・バルトがプロレスとボクシングにおける規則の差異、といった研究をしている。プロレスは規則(場外乱闘などの)を破ることによって、プロレスショー足りえる。規則は破られるために存在している。つまり規則は試合の内部にある。だが、ボクシングでその手の規則は厳格に機能する。つまり規則は試合の外部にある。こんなふうにバルトは文化的イメージの内にひそむ意味の読み取りとか、大衆文化全般の社会的機能の分析をおこなっていった」

司会者「バルトって面白そうですね。ムズカシー批評家というイメージがありますが」

kenzee教授「ウン、あとプロレス以外に車と合成洗剤の広告とかアインシュタインの脳とか神話的な対象まで扱った。ここらの話はロラン・バルト「神話作用」(1957)で述べられている。ここでバルトは文化の中で自然に見えるようになったものは実は偶然、歴史の中で構築されたに過ぎないと言っている。藤田氏は「歴史を無批判に受け入れることが教養主義だ」と主張しているが、「主観的な、自然な感動」だって歴史の中で構築されたのだ、とバルトは半世紀前に結論づけている。そして、藤田氏が弱者の見方であり、ジャスコ層を擁護する立場をとるなら唯物論哲学の側に立ってないとおかしいんだが。(考えてみてください。観念論の立場の公明党がネットカフェ難民を救いますって言ってもなんにも説得力ない)現代のカルチュラル・スタディーズのもうひとつの源はイギリスのマルクス主義の文学理論だ。レイモンド・ウィリアムスとかリチャード・ホガートとかが文化が高級な文学と同一視(佐藤亜紀!)されるにつれて見失われてしまった労働者階級の民衆文化を取り戻そうという運動を展開した。コレ、50年代の運動なんだけど東氏や宇野氏の活動はむしろ、彼らの精神との連続性を感じるんだがどうかね?」

司会者「ま、佐藤氏なら「持ち上げスギ」とか言ってオワリでしょうけどね。で、宇野氏たちの先輩筋にあたるカモなレイモンドとかリチャードとかの研究は結局どういう末路をたどったんですか」

kenzee教授「失われた声を取り戻し、下から歴史を掘り起こそうとする彼らの計画は、もうひとつの文化の理論化とぶつかることとなった。レイモンド・ウィリアムスたちの運動は藤田氏同様、高級とかB級とかの壁をとっぱらって並べてみようゼ、という計画だったのだがヨーロッパのマルクス主義理論とぶつかったのだ。彼らはB級カルチャーってのはつまり、抑圧的なイデオロギーが作り上げたものであって読者は単に想定された「消費者」であり、国家権力の働きを正当化するように作用するために作られる、と分析した。いかにもマルクス主義らしい穿った見方だけど、一理あるんだよ。例えばラップ・ミュージックという大衆文化がある」

司会者「教授ってすぐラップの話しますよね。そういえば」

kenzee教授「ラップは本来、低所得者層が自らの境遇に対して怒りの声をあげたり、国家権力を告発したり、集団を煽動したりする、反権力、反イデオロギー的表現として現れたんだが、やがて、(国内においてはだけど)ラップミュージックが市民権を得て、それなりに金を引っ張るようになると急に「父や母に感謝、ストリートの先輩たちにリスペクト」とか妙に物分りのいい内容になってくる。ジャニーズタレントなども「ちょっとワルなボーイ」みたいなコンセプトで登場して「実はイイ人」とオチをつけることで女子のハートを鷲づかみにする、という構造を持っている。結局、安全な、国家権力に与する方向へ向かっていくんだね。モチロン、「こんな国、転覆しちまえ!」といった表現も存在するのだが圧倒的にカネを動かすのは前者なのだ。宇野氏や東氏はこういった半世紀前の議論と自己の評論をとくに比較したり参照することはない。なんでだろうね。ま、批評家には二種類いて、今ある文学がどっからきたのか、という過去に目がいく人と、今ある文学がどこへ向かっていくのか、という未来に興味ある人といるんだね。私は典型的な前者だが宇野氏や東氏は後者なのだろう。要するにだね、藤田氏の反論はちょっと、いきあたりばったりだったフシがあるね、と」

司会者「カルチュラル・スタディーズの源流についてはなんとなくわかりましたが、現在はどうなっているのですか」

kenzee教授「カルチュラル・スタディーズの実践者たちは現在の研究が単なる記述に終わらず、文化の介入になることを望んでいる。彼らはその知的な仕事によって従来とは違うものを生みだすことを期待されている。美少女ゲームや平成仮面ライダーシリーズに「従来と違うもの」とは佐藤亜紀は認めなかったようだが。でね、歴史的に見ると(藤田氏のキライな歴史で悪いが)ポピュラーカルチャーを研究するということと、それによって政治に介入するということは密接に関わっている。そしてその国や社会の歴史によってその意味はさまざまなのだ。60~70年代のイギリスでは、国民の文化的アイデンティティが(シェイクスピアとかジェーン・オースティンとか)高級な英文学の伝統に根ざしているのでポピュラーカルチャーの研究自体が反抗の姿勢を示すものだった。だが、アメリカでは「高級」イコール敵、みたいな感覚がある。未だにフロンティアスピリッツが生きているのだ。アメリカでB級文化を学術的に研究するということはマス・カルチャーをアカデミズム化する試みってことになってしまう。日本ではどうか。アニメ、美少女ゲーム批評の東浩紀が秋葉原の事件のコメントを求められたり、大塚英志に「戦後民主主義っていうキミの立場はどこにあるんだ!」と「リアルのゆくえ」で怒られてしまう、というところに見えるね。つまり、「政治への介入」とかに最も興味なさそうな東氏につめよってしまうのが日本におけるポピュラーカルチャー研究の風景なんだね。そう考えると藤田氏の「高級な文学「も」あっていい」とか「教養の設定のレベル」の問題とか言い逃れ可能な物言いではなかなか解決しない問題なんだね。コレは」

司会者「藤田氏はゼロアカメンバーのひとりとして、文学フリマに出場されるようです。コレは同人誌対決なんですよね」

kenzee教授「パンドラ」によると編集者の太田氏の得点は0点が決まってるらしいね。でも、フツーに円城塔氏に原稿依頼してホントに原稿もらっちゃう行動力とかスゴイと思いますよ。意外にこういう人がねえ」

司会者「次の時代のアレするかも知れないですよ、って円城さんもノリがいいですね相変わらず。で、文藝賞のつづきはどうなったんですか」

kenzee教授「明日、かな…」

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2008年10月17日 (金)

切断主義が来たかもしれん(宇野常寛「ゼロ年代の想像力」、喜多ふあり「けちゃっぷ」文藝冬号)

(「DEATH NOTE」の主人公)夜神月は1995年以降の過剰流動性、つまり「何が正しいか、がはっきりしない世の中」を前提として、真正な価値はバトルロワイヤル(ゲーム)の勝者が政治的に支配することで暫定的に決定する、つまり「何が正しいか、は政治的に勝利した人間が決定する」という世界観で行動している。(中略)ここでは、ゲームの構造に自覚的で有能なプレイヤー=(メタ)決断主義者が、無自覚で無能なプレイヤー=決断主義者を動員することでコミュニティ(島宇宙)が形成され、この自分の島宇宙への動員ゲームがバトルロワイヤル(ゲーム)を形成するのだ。(ゼロ年代の想像力)

kenzee教授「宇野氏の議論では、現代社会では「決断主義的動員ゲーム」が展開されており、人は否応なくこのゲームの参戦を義務付けられている。で、このゲームにおいては自覚的なプレイヤーが設計者を兼ねるのだ。で、この設計者も兼ねる自覚的なプレイヤーのことを宇野氏は(メタ)決断主義者と名づけた。白岩玄の文藝賞受賞作「野ブタ。をプロデュース」はこのゼロ年代的な集団の有り様を的確にまとめられていると指摘している。教室内における決断主義的動員ゲームの設計者である主人公はいじめられっこの転校生を人気者に仕立て上げていく。どうやら「決断主義」というのはその大げさなネーミングに比して一種の処世術なんだね。かつて青春ドラマといえばそれぞれの個性や人格、生まれ育ちといった背景まで含めた実存を賭けたぶつかりあいを描いていたものだった。だが、この白岩玄の小説では登場人物たちはぶつかりあったりしない。彼らはまるでテレビドラマか映画の登場人物のようにそれぞれのキャラクターを演じているのだ。そんなルールも知らず、素の人格で転入してきた「野ブタ。」はイジメに会う。当然だね。宇野氏は「決断主義」の源流を1999年の高見広春の小説「バトルロワイアル」に見ている。登場人物の中学生たちは有無を言わさず殺し合いを命じられる。確かにこの小説はゼロ年代の感覚を先取りしていたといえるね。社会批評の宇野氏の論に付け足すなら1999年という年は労働者派遣法が改正された年でもある。ここからそれまで禁止されていた製造業等への派遣が可能になった。ゼロ年代の「格差社会」が政治レベルで設定された年と言える。だが、「バトル…」と「野ブタ。」では登場人物たちの実存の捉え方がずいぶん違うんだ。「バトル…」の中学生たちは文字通り命を賭して戦う。彼らは戦うべきか逃げるべきかという苦悩すら許されない。殺らなきゃ殺られる。1995年の時点では碇シンジはまだ苦悩してゲームから降りることが許されていたんだが(女性から軽蔑されたりしますが)たった4年の間に許されなくなったのだ。でも「バトル…」ではそれぞれの実存を、つまり彼らの人生を生きた上で殺され、死んでいくんだけど、「野ブタ」においては彼らの本来の人格は一旦保留されてるんだよね。だって学校という戦場では彼らは与えられたキャラを生きなくてはならないから。「野ブタ」のほうが複雑な人生を生きているのだね。これが映画やドラマの登場人物のキャラを演じているのならば、「カット」の声がかかれば役者は本来の人格に戻ることができる。楽屋トークに花を咲かせもするだろう。だが、」

司会者「野ブタ。」の高校生たちは一見青春を謳歌しているに見えるが、楽屋トークが存在しないんですね」

kenzee教授「そう、まるで疑心暗鬼の学校生活だ。あの、残忍でミもフタもない「バトル…」ですら腹を割った友との語らい、といったシーンはあったよ。でも、「野ブタ。」の彼らはのんびり楽屋で語り合ったりしているヒマはないんだ。この間、たった5年だよ。だが、もう2008年だ。さらにこの決断主義的動員ゲームは先へ進んでるんだよ。テレビドラマ版ではそういったキャラクターを承認しあうという希薄な人間関係とはべつの互いの人格を認め合う信頼関係を彼らは選択していく、らしいのだ」

司会者「テレビ版は観てないので宇野さんの受け売りですよ」

kenzee教授「で、こっから宇野氏の議論を我々なりに引き継いでみようと思うのだが、田中弥生氏の群像評論部門当選作。「乖離する私」という作品を覚えてるかな?」

司会者「中村文則論ですよね」

kenzee教授「で、読み返そうと思って本棚探してみたんだけど、でてこないんだな。コレが」

司会者「話終わっちゃうじゃないすか! こっからがキモでしょうが!」

kenzee教授「で、ウロ覚えで申し訳ないんだけど、確かこんな内容だったんだよ。まず、冒頭で綿矢りさ「蹴りたい背中」の冒頭のシーンを取り上げてた。「さびしさは鳴る」というヤツだ」

司会者「ハッていうスタンス」っていうヤツですね」

kenzee教授「そう。で、主人公のさびしさというのは彼女の内部から発生しているというよりどっかメタな視点から眺めてるかのようだ、と。なんせ「鳴る」だからね。で、彼女の教室内もまた「野ブタ。」同様、決断主義的動員ゲームにさらされているのだね。中学時代の親友はサッサと教室内の人気者グループの一員となってる。そして親友はそういう派手なグループの中におけるキャラをわきまえて楽しく高校生活を送っている。そんなゲームに対して、主人公は「ハッていうスタンス」で参加を放棄しているのだ。「スタンス」という言葉からわかるように彼女の思考というのは「立場を明確にする」というような大それたものじゃなくて暫定的な「スタンス」なんだね。「さびしさ」という感情に対しても距離を持っているし、教室内における自分を取り巻く状況に対しても距離があるんだ。彼女の在り方自体がとってもメタだ、と。金原ひとみ氏の作品にもそのような自己との距離感が見られる。自傷行為などのシーンにおいて主人公はとても醒めた視点から見下ろすのだ。で、中村文則氏の作品には特にそういう傾向が顕著で……とっても顕著だっていう内容だったと思う…ウロ覚えでゴメンね! 弥生サン」

司会者「従来の私小説においては物語世界の中心であり重心たる「私」がドンドン乖離していってますよコレどういうこと! という指摘だったんですね」

kenzee教授「田中氏の受賞は2006年だが、「野ブタ。」の「私」の二重性の問題まで踏み込めてればもっとナウい評論になってたのにね~。で、今回の文藝賞の話なんだけど」

司会者「やっと本題ですか!」

kenzee教授「こういう前提で進めないとどうしようもないんだよ。だっていつもの印象批評でアレしたらもうヒドイ、っていうしかない小説なんだもん」

司会者「喜多ふあり「けちゃっぷ」ですね」

kenzee教授「アホらしい話なので梗概書かないけど、主人公の少女は引きこもりで一日中ケータイに向かって思ったことをブログに更新し続けているのだ。小説は彼女の独白という構成で文体はとりあえずおいといて視点人物のあり方としてはベタな私小説なのだが、主人公の独白はすべてケータイのブログを通して世界に発信されているのだ。そしてそのブログの常連読者の男性と知り合うのだが、彼女は自意識過剰な引きこもりなので会話はすべてそのブログを通して行われる。ちなみにその文体というのがこんなんだ」

 ちょ、ちょ、ちょっと、これってマジって奴。こんなイっちゃってるブログにマジで書き込むなんてどんだけおバカさんなの? ちょっち可愛いじゃん、ヒロシ。どうしよっかな、どうしょっかな、ラーララ、ラララ、ルールル。って私が思うとでも思った? にゃはははは。マジでウケるんですけど。ですけど系なんですけど。って何? ですけど系って? にゃは。と私はブログに書き込んだ。(けちゃっぷ)

kenzee「一応、いちブロガーのオレから言わしてもらえばこんなイタい文体のブログは実際には存在しないよね。ブログ的な文章を極端にデフォルメすればこんな感じになるかもしれんが」

kenzee教授「で、154枚この文体で突っ切るのだ。で、いちいちイタいとか斉藤美奈子みたいなこと言っててもしょうがないので、先の議論に接続する。従来、一人称小説というものは主人公の本音トークだという大前提がある。つまり表面的にはニコニコしてるけど腹の中は煮えくり返ってるというような場面。コレは人間生きてりゃフツーにありうるシチュエーションなので、先のキャラと本来の人格の二重性という話とは別だよ。そこで地の文ではいかにムカついたかということをイロイロ比喩とかアレして書くのが一般的な一人称小説なんだけど。で、一人称における独白は小説内の他人には聞こえない、主人公と読者の間の秘密なんだよね。それが地の文の本音性を担保しているワケだけど「けちゃっぷ」のように思ったことを全部ブログに書き込む主人公ってどうしたらいいんだろう? 彼女の独白は従来の独白と違ってブログの読者を常に意識してるんだよ。「野ブタ。」の決断主義者たち同様、彼女は「自殺をほのめかすイタい文体のブログを書く引きこもり少女」というキャラを演じているのだ。そしてそのキャラのまま最後まで突っ切ってしまう。イタいキャラを最後までまっとうするのだ。まだ「野ブタ。」には僅かに残されていた(読者に対する)本音トーク、楽屋トークすら「けちゃっぷ」では消滅している。どこを探しても日本文学必殺の「私小説」の「私」など存在しない。それを裏付けるようにそのブログのキャラは非常に身の回りに起こる出来事に対して諧謔的なのだ」

司会者「宇野氏の議論ではキャラによる承認を確認しあうという回路ではまともな人間関係を構築できない、なぜならキャラクターの承認はフィクションが前提で成立しているためにその共同体が解除された途端に消滅するからだ、と。だからこそなんらかの行動なり経験で~したという事実によって関係を築くべきだ。そうして築いた信頼関係は共同体が解除されても(例えば卒業しても)残る、という話でした。決断主義の問題を解決するにはこれしかないと」

kenzee教授「ようするに本音でぶつかってマトモな人間関係築けよ、と。そういう傾向はドラマ版「野ブタ。」やよしながふみのマンガにも見られると宇野氏は指摘している。ところが「けちゃっぷ」はむしろ宇野氏の議論を裏切るような方向へ向かっている。ここにはもはやキャラしか存在しないのだ。そして主人公のHIROは生身の人間とコミュニケーションを一切とろうとしない。ではHIROはなにによってアイデンティテイを保っているのかといえばブログのコメント欄だ。田中弥生氏が指摘した2006年の時点ではまだ「私」は「乖離」する程度で済んでいたが、この小説では「私」はもはや切断されている。最後まで読者はHIROの本音トークも楽屋トークも聞くことはない。もしかしたら「けちゃっぷ」はあまりに奇矯な作品であり、宇野氏の議論に引き合いにだすのはフェアではない、と思う人もいるかも知れない。ところが、もうひとつの受賞作、安戸悠太「おひるのたびにさようなら」もまたキャラクターと実存を脱臼させてしまったような作品なのだ」

kenzee「いったい「おひるのたびにさようなら」とはどんな作品なのか! 久しぶりにいっぱい書くと疲れるね!」

司会者「ガンバレ! 無職!」

kenzee教授「時間ならタンマリあるんだからな!」

司会者「宇野さんは会社員らしいですね。スゴイなあ。いつ寝てるんだろ」

kenzee「オレだって今日の昼間、職安の説明会行ったり、パソコン教室行ったり忙しいんだゾ!」

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2008年10月15日 (水)

三歩進んで二歩下がるのが漸進的発展(宇野常寛「ゼロ年代の想像力」Part.2)

kenzee教授「まず、宇野常寛氏が東浩紀のどこを批判してるの確認しよう。その辺は主に「ゼロ年代の想像力」第二章「データベースの生む排除型社会」でまとめられているのだが、宇野氏はその冒頭で90年代的な古い想像力がどのようにして現代の想像力へ移行していったか、端的に述べている。
 
 90年代の「古い想像力」-世界の不透明さ、無秩序に怯え内面に引きこもり「~である」こと=自己像の承認を求める「引きこもり・心理主義」の碇シンジから、ゼロ年代の「現代の想像力」-世界の不透明さ・無秩序を前提として受け止めた上でその再構築を目指して立ち上がる「~すること」=自らの選択した価値観の正当化を目的にゲームを戦う「開き直り・決断主義」の夜神月(やがみらいと、「DEATH NOTE」の主人公)へー2001年を境界線として世界とその想像力は大きく変化した。しかし、この変化に現在の批評はまったく追いついていない。それは前述の通り、ここ10年間に最も影響力を行使した批評家である東浩紀がこの変化に無自覚であり、東の言説を劣化コピーすることしか知らない国内の批評家たちもまた、この変化を見逃しているためである。(ゼロ年代の想像力)

エライ言われようだが、具体的には東氏の90年代の評論活動の集大成とも言える著書「動物化するポストモダン」(2001年)での議論が槍玉に挙がっているようだ。「動物化…」の要点はこうだ。ポストモダン状況の進行に伴って、大きな物語は解体され、世界像は秩序だったツリーから無秩序なデータベースへ移行する。そして人々は、大きな物語ではなく、データベースから欲望する情報を読み込んで「小さな物語」を自身で生成するようになる。そのため、人々は意味の備給にコミュニケーションを必要としなくなる。これが「動物化」だ」

司会者「なんの話じゃい、って感じですが」

kenzee教授「大きな物語」とは我々が生きていくうえで希望を持って生きるための大前提となる価値観、とでも訳しておこうか。例えば女性の幸せな人生、という人生モデルを考えてみよう。パッと思いつくのは大学は文系私大でテニスサークルあたりで4年間チャラチャラ過ごす。その後、テキトーな大手生保あたりに就職。モチロン腰カケで25,6ぐらいでサークル時代の彼氏と結婚。27,8で子供をもうける。その後はひたすら専業主婦。亭主元気でルスがいい。かつて、バブルの頃にはこのような「大きな物語」がホントに機能していたのだ。今では信じられないが。かつて「トレンディドラマ」と呼ばれた20代の女性をターゲットにしたテレビドラマはこのような「大きな物語」が前提として機能していた時代に大量に制作された。それらの登場人物はきまってスッタモンダのあげく、二人は結ばれ、ゴールインするのだ。ナゼそうなるのかというと「結婚」は女性にとって大前提的に「幸せ」とされていたからだ。そこに疑問を差し挟む余地はなかった」

司会者「でも、今は結婚して逆にボロボロになる人もいます。現代に照らしてみるとあまり説得力のない物語ですね」

kenzee教授「ウン。つまりバブルの崩壊、雇用システムの変化、人生観の多様化そして格差社会。こういった背景を東氏はポストモダン状況と呼んだのだろう。こうなると万人に通用する「大前提」が機能しなくなる。そうすっと人は自分の求める情報(データベース)を集め、好きな「小さな物語」を生成するようになる。同じ30歳ぐらいの女性でも「冬ソナ」というデータベースを選択する人もいれば、BLに耽溺する腐女子もいるだろう。そうして「小さな物語」が乱立する状態になる。こんな状況がどういう影響を生むかというと、ま、オレらが心配することじゃないんだけど従来のマーケティングが成り立たなくなるんだよね。だって「20代の女性」とひとくちに言ってもいろんな価値観が並列してるのでどこにターゲットを絞ればいいのかわからなくなる。東氏の言うポストモダン状況というのは電通的な広告代理店的な発想が通用しなくなる状況のことだよ。こうした分断され、並列した価値観の間を越境し、連帯を可能にするのはもはや「物語」ではなくキャラクターだ、と。これが東氏の2001年での結論なのだ。確かに「綾波レイ」のようなキャラクターは「エヴァンゲリオン」という物語を越境して一人歩きしていった。膨大な二次創作を生んだ。そのなかで綾波レイの人格は限りなく改変されていった。もうエヴァだかなんだかわからないぐらいに。東氏はこの状況を「越境」と解釈した。だが、宇野氏はそこに違和を唱えた。キャラクターは越境するどころか、特定のコミュニティの共同性をより強化するものだ、別の価値観をむしろ排除するのだ、と。理由は仮に綾波レイをエロマンガ化した二次創作があったとしてその意義を理解するためには綾波の本来の人格とキャラクターを熟知していなくては意味がない。一見、綾波のエロ化は何かを越境したように見えるが、実は綾波的なコミュニティの共同性を再強化するだけだ、と。その点にはまったく同意だ」

司会者「なんスか! じゃあ、教授は宇野派なんですね」

kenzee教授「そっから先が問題なのだ。宇野氏はこう続ける。昨今の純文学の衰退は、純文学が「文体」に重きを置く表現スタイルだからだ、と。「文体」とは「国語」という明治政府による人口回路に依存するもので、それは国民国家的な「大きな物語」が後退した以上は必然的に弱体化する、と。そして相対的に物語構造に重きを置くケータイ小説、キャラクターに重きを置くライトノベルなどが支持を広げていったのだ、と。武田将明氏「囲われない批評」では純文学の衰退は批評の場がなくなったからだ、批評に耐えるという訓練をしなくなった小説は必然としてレベルが下がっていったと認識していたが同じ事象でも人によっていろいろ見方が変わるものだね。「ゼロ年代の想像力」をワタシは「ゼロ年代の文化史」として読んだ。これは一種の歴史書として読めると思うんだ。そこで宇野氏が心配なのは歴史というものを考えるうえで、社会科学と自然科学をゴッチャにすると絶対オカシクなっちゃう、ということなんだよ。常に、「今、自分が引き合いにだしているのは社会科学かな?自然科学かな?」と疑うクセをつけるべきだと思うね。宇野氏の批評のスタンスというのは大前提として「文学を始めとするサブカルチャー一般は社会状況を反映する」というものだ。この本は文化史というフィルターを通した社会批評なんだね。夜神月はナゼ、決断主義を選択するのか。それは小泉改革の新自由主義と9.11以降の社会の変容の反映なのだ、というような議論の仕方だ。そういえばホリエモンと夜神月は重なって見えるよ。根拠もコンセプトも美学もなんもない。勝ったモン勝ちだ、という。「ゼロ年代…」は割とこの調子でだいたい社会の変化を手がかりに文化史を構成していくようなところがあるね。歴史の本の作り方としてはオーソドックスな思考だと思う。ところで社会科学っていうのは三歩進んで二歩下がる。漸進的発展を遂げる。翻って自然科学のキモは不可逆性にある。前進的発展を遂げる。例えば核兵器が開発されたとする。そしたらもう、我々は核兵器のない世界には帰れないんだよ。なぜならテクノロジーの進展は前進的発展を遂げるからだ。もうこうなったらいいも悪いもなくて我々は核とともに生きていかなくてはならない。これが自然科学だ。ところが社会科学というのは一筋縄ではいかなくて後退したりもするんだよね。「政治」は社会科学だけど、最近コレ後退しっぱなしですからね。あと、「経済」も社会科学です」

司会者「最近、世界的に大後退しましたよね」

kenzee教授「同じ「科学」って付いてるけど全然違うものなのね。コレ、ゴッチャに論じると大変なことになるというのはわかっていただけると思う。宇野氏の国民国家的な「大きな物語」の後退→文体(国語に依存したもの)に重きを置く純文学の衰退、ていうもっていきかたなんだけど、明治における廃藩置県、富国強兵政策による国民国家体制以降、もっとも「大きな物語」が後退したのは終戦直後だろう。でも、この戦後の数年間というのは日本の文学がもっとも豊かな時期でもあったんだよね。もっとも戦後派作家を支えたのは商業文芸誌ではなく「近代文学」という同人誌だったので商業的には大きく後退していたとは言えるんだがね。純文学の衰退っていう事象を社会科学で解釈しようとするとムリがでてくる、という例だ。むしろ、ゼロ年代におけるネット等のテクノロジーの爆発的な進展という自然科学との関わりのなかで純文学が衰退していった、とワタシは思うがね。もちろん「社会の変化→文化の変容」という図式はこれからも宇野氏の批評のスタイルとしてやっていくんだろうし、アリですよ。ただ、そのスタンスで東氏を批判しようとするとムリもでてくるんだよ。東浩紀はその批評の方法論として……コレ、意識的にやってると思うんだけど社会科学を始めとするイデオロギー的なものに極力寄りかからない形で議論を進めていくトコがあるんだよね。これはもう「動物化…」と「ゲーム的リアリズム」を読めばわかることだけど東氏は「このような文学を取り巻く環境はこういう社会を背景に…」とか「このトライブはこういった思想を歴史的背景としているのでこうなった」みたいな話を一切しない。あくまでテクストとテクスト、せいぜいその作者、または読者。そこらの関係だけで議論を展開するというスタイルを身上としてきた。その代わりケータイの爆発的な進化と普及、とかネットの進化とかそういったテクノロジー、つまり自然科学との関わりはキッチリ踏まえていくんだよ。宇野氏と東氏では根本的にスタンスが違う。そして間違いやすいのは社会科学を担保にした宇野氏のような人なんだよ」

司会者「東浩紀はなんでそういうスタンスを取るようになったんですかね」

kenzee教授「もともと東氏がジャック・デリダの研究者だからじゃないかな。デリダという哲学者はとにかく「神」でも「自由」でも「民主主義」でもなんでもいいけど階層的な意味構造を作り上げようとするイデオロギーすべてに「形而上学」というレッテルを貼ってそこから抜け出そうとした。もちろんそんなことは不可能なんだけど、切り刻んでしまえばいいんじゃん?ということで脱構築を唱えることとなる。とにかくイデオロギーから逃れてナンボの東氏をイデオロギーありきの宇野氏がいくら批判してもどうしても空回りする面があるよね。でも、ゼロ年代のような変化の激しい時代を読み解くのは東氏より宇野氏のような社会評論的スタンスの人のほうが向いていたのかも知れない」

司会者「フーン。ところでボク、批評家ってあんまりよく知らないんですが「東浩紀の劣化コピー」って誰のことなんですか?」

kenzee教授「そんなのどうでもいいよ! どうせ東ファンの2ちゃんねらーとかのことだろ。「ゼロ年代…」には「メタ」って言葉がいっぱい登場するんだけど、そのメタ視点とかメタなスタンスというものがどこへ繋がるのか。たとえば田中弥生氏のデビュー作「乖離する私」は中村文則や綿矢りさ作品を引き合いにだしながら純文学の側からこの「メタ」な視点や心理がどっから来てどうなったという論考なんだけど宇野氏の議論とも接続しうるテーマだろう。なにしろ宇野氏が命名した「決断主義」という生き方は「メタ」な視点から自己の立場を決定していく、という手続きを経るものなのでね。そしてその「決断主義」の破綻までも宇野氏は指摘していく」

司会者「田中氏の評論と宇野氏の議論が接続するっていうのは面白いですね。一応純文学の側から発言してるわれわれとしては。もうちょっと続けてみますか。ゼロ年代論」

kenzee教授「で、うまい具合に「メタ」の話から今回の文藝賞まで話が繋がりそうなんだよ」

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インディー魂と呼びたいね(宇野常寛「ゼロ年代の想像力」早川書房刊)Part.1

司会者「今回の文藝、柴崎友香特集ですよ」

kenzee「あーkenzee賞受賞に合わせての企画ですよね。文藝もイキなはからいだなあ」

kenzee教授「絶対関係ないだろそんなの!」

司会者「で、柴崎さんの写真ギャラリーあり、スーパーカーのヤツとの対談あり」

kenzee「スーパーカーって…(プッ)」

司会者「アナタ木村先生がソウルフラワー言ってたときも(プッ)とか言ってたでしょ! ホンット他人の趣味にケチつけるCD屋だなあアナタは。あとロングインタビューありの盛りだくさんの内容なのですが、ヘンな企画が一コあって柴崎さんと柴崎さんの高校時代の友達と保坂和志の三人で鼎談してるんです」

kenzee教授「ホウ。その友達はなんかのクリエイターなの? デザイナーとか映画人とか漫画家とかバンドマンとか」

司会者「いえ、違います」

kenzee「あ、わかった。別の世界でなんか有名な人なんでしょ、IT業界のエライ人とか。青年実業家みたいな。イヤ~オレもITで成功したけどトモカちゃんもガンバッとるね~みたいな」

kenzee教授「で、こうやって雑誌の自分の特集で語り合う。イイ話だねえ」

司会者「それが……柴崎さんの友達の彼、無職なんです」

kenzee教授「そんなヤツ、特集に呼ぶなよ!」

kenzee「タダの素人じゃないか!」

kenzee教授「待て、お前も無職だろ! 一緒にツッコむな」

司会者「加地さん(柴崎さんの友達のシロート)は一応アルバイトはしてますよ!(ムッ)」

kenzee「文藝カンケーないじゃん!」

kenzee教授「文芸誌にトーシロ呼び」……革命起こしてくれたな、柴崎さんは」

司会者「文藝、巻末に著者一覧が載ってるんだけど、簡単な紹介がズラっと並んでるんですよ。例えば、青山七恵83年生。著書「やさしいため息」、とか綿矢りさ84年生。著書「夢を与える」とか。で、その友達のトコがね…

    加地猛 73年生。フリーター

kenzee「文芸誌100年の歴史における革命です。これは」

kenzee教授「マジメにやれよ、文藝」

司会者「こうなったら加地さんもなんか書いたらどうです?」

kenzee「そういえば「ちびまる子」の友達のはまじもタダの素人なのにさくらももこの子供の頃の話の本だしてたな」

司会者「いけますよ! 加地さんも作家デビュー!」

kenzee教授「そういう野心が彼の写真からはまったく感じられないんだけど」

司会者「特集なのにこの緊張感のなさ! やっぱり柴崎さん大物ですね」

kenzee教授「そんなヌボーとした彼氏ほっといてサッサと今日のテーマ行くぞ。エート今日取り上げるのは今話題の新進気鋭の批評家、宇野常寛氏の渾身のデビュー作、「ゼロ年代の想像力」だ。2000年代のポップカルチャー、純文学のみならず、マンガ、アニメ、テレビドラマ、ケータイ小説まで取り上げ、2000年代の文学的想像力とはどういうものだったのか、また来るべき2010年代を我々はどういう姿勢で臨むべきか、ということを多岐に亘るジャンル作品から新鮮な視点で読み解いていく、SFマガジン2007年7月ら2008年8月号まで連載された原稿に大幅に加筆した画期的な評論集だ。とにかく我々純文学畑の人間がハナにも引っ掛けないようなポップカルチャー、宮藤官九郎のドラマや「野ブタ。をプロデュース」などのジャニーズドラマ、「DEATH NOTE」「ONE PIECE」「幽遊白書」といった少年ジャンプマンガ、「無限のリヴァイアス」「コードギアス」などのテレビアニメ、もちろんライトノベル、よしながふみの少女マンガ、そして最も目からウロコだったのが「平成仮面ライダー」シリーズから文学的想像力を読み取っている点だ。その凄まじいまでの嗅覚は純文学にも向けられる。2000年代前半の綿矢りさ、金原ひとみの登場、それに続く白岩玄「野ブタ。をプロデュース」、木堂椎「りはめより100倍恐ろしい」、三並夏「平成マシンガンズ」などの若手小説家ブームも一般に「タダの出版社の戦略。幼稚な内容」と切り捨てられることが多いが宇野氏はそこにも新鮮な意味を見出す。とにかく、読んでいただくしかないんだが、こういった膨大なジャンクカルチャーを俯瞰して宇野氏が導き出したテーマとしていくつか挙げられるが、まず、90年代的な批評の枠組みではもうこれらの作品を的確に読むことはできない。2000年代の文学的想像力についてこれてない旧世代の批評家は去れ、と。特定の批評家を名指しで批判している。そして、エヴァンゲリオン的90年代、(宇野氏言うところの引きこもり心理主義)と入れ替わるように、小泉改革と新自由主義の世相を反映して表れたと思しき、「DEATH NOTE」や「LIAR GAME」に見られる決断主義も臨界点を迎えている、と。この様々な価値観が並列した時代に必要なのは「これが正しい」というモデルではなくて、各々好きな価値観を選び取り、その立場を守りつつ成熟できる社会環境の整備ではないか、と主張する。ものすごく大雑把にまとめたが、宇野氏とは我々チャランポランの文学者と違って、非常に倫理的な思考の持ち主のようだ。この「ゼロ年代…」のなかで何度も主張されるのは「人間は成熟していかなくてはならない」「選び取っていかなくてはならない、「社会参加」というゲームを拒否する、という選択肢はもはや存在しない」そしてなにより「キャラとか承認による上っ面の人間関係ではダメで、限定的な空間のなかでも関係性による信頼関係が野蛮な決断主義に対抗する手段だ」と」

司会者「すごく倫理的、道徳的といえる内容ですね」

kenzee教授「とにかく長大な評論集なので、かいつまんで説明するのが困難なのだ。なのでこっから先は読了前提で話をします。まず、言いたいのはこれだけの力作に対してケチをつけるアレはない。宇野氏は企画ユニット「第二次惑星開発委員会」主宰者で、批評誌「PLANETS」の編集長でもある。それぞれのジャンル専門のブレーンもいるのだろう。それでもこれだけ雑多なものを並べて明解な結論にもっていく腕力は認めざるを得ない。筆者の視野の広さと嗅覚とカンの良さとプロデュース力、行動力、人徳、そして物書きとしての力量。羨ましいとすら思うね。また、既存の新人賞システムとは全く別のところで、力を認めさせたインディーズ魂にも恐れ入る。彼には「同人」というより「インディー」という言い方が似合うね。で、ワタシはジャンプも読んでないし、宮藤官九郎ドラマといえば「木更津キャッツアイ」ぐらいしか知らないし、平成仮面ライダーも観てないので個々の論考についてどうこう言うアレはなんにもないんだけど、」

司会者「話おわっちゃうじゃないですか。ボクも宇野氏のスケールのデカさは認めますけど、せっかく狭い文学業界越えてオーバーグラウンドに接続しうる強度のある批評が結局、東浩紀の個人攻撃で終始しちゃってるのが残念でしたね。結局そんな狭い業界的なトコに収束すんのかよ!って」

kenzee教授「オレは個人攻撃大好き派なのでもっとやればいいと思うけどね。ただね、気になるのは当然宇野氏は今後も評論活動をしていくと思うんだけど。もう新潮で連載始めてるし。でね、彼の東浩紀批判というのは彼が思ってるほど的確ではないんだよ。それは今後、宇野氏が評論活動をやっていくうえでも重要なポイントでね」(つづく)

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ホンットにキミは……(近況)

kenzee「一ヶ月ぶりのゴブサタです」

司会者「ナニしてたんスか! なんの音沙汰もなく」

kenzee教授「谷崎さんラーメン好きなのかな?って話でこのブログ終わりかと思った人もいるんじゃないか? どうしたんだよ?」

kenzee「イヤ~実は……会社辞めたんです」

司会者「エ!? アンタどうすんだよ! もうイイトシなのに」

kenzee教授「昨今の雇用状況は厳しいらしいぞ。よく知らないけど。で、ナニしてたんだ?」

kenzee「あんまプライベート切り売りする、今回の文藝賞の「けちゃっぷ」みたいなコンセプトのブログじゃないんですけどね、コレ。とりあえず旅行とか、国内ですけど尾道とか行きました。四国渡ったり。ウドン食ったり、昼間っから酒飲んだり本読んだり温泉浸かったり」

kenzee教授「早く職安行けよ」

司会者「沖縄とか行けば良かったのに。あと、盛岡とか。なんのための木村読書だったんですか」

kenzee「今は奈良の実家にいますので、奈良も久しぶりだといろいろありますからね。奈良出身の映画監督(カンヌ!)川瀬直美さんの「沙羅双樹」て映画の舞台がならまちなんですけど、あの辺も久しぶりに歩くといいです。ただ、奈良経済ドン底って感じだったなあ。雰囲気」

kenzee教授「お前が言うなコノ無職が」

kenzee「本も十数年ぶりにイロイロ読みましたよ。まとまった読書ができたのが最大の収穫だな。なんせ朝から晩まで本が読めるからね」

司会者「ダメ人間」

kenzee「このブログではいろいろエラソーに文学理論だの文学史だといった話してるけど、ソレ自分が20代半ばまでの蓄積だったんだよね。だから楊逸みたいなコテコテの自然主義にはオレ対応できるんだけど、最近のオルタナティブな流れにはもう対応できてなかったんだよ。だから円城塔さんとか磯崎さんのような作品には寝技で逃げてたんだけど」

司会者「ヒドかったですよね。You Tube巡りで終わったりとか」

kenzee「あの頃、仕事とかでもバタバタでホントはkenzee賞とかやってる状況じゃなかったんだよ。でもね、時間とってあらためていろいろ見聞きしてようやく2000年代対応の身体ができつつあるかなーという感じなんです」

kenzee教授「遅いよ! もう2000年代終わるぞ!」

kenzee「あと、オレ本物のパソコン音痴なんで、ちゃんとパソコン習おうかなあと思って、パソコン教室通ってます。先週から」

司会者「資格でも取るんですか」

kenzee「一応MOSのワードとエクセル取得を目指して」

kenze教授「そんなもん、大抵のヤツ独学で取るぞ」

kenzee「イヤ、なんか社会との接点持っとかないとヤバイかなあ、と」

kenzee教授「パソコン教室ってどんなんなんだ?」

kenzee「そんなもん平日の昼間のカルチャー教室なんて主婦と年寄りばっかりですよ! こんな働き盛りの無職オレだけ。イヤ~でもパソコンってこんな豊富な機能を備えてたんですね。単語登録とか。オレずーっと「kenzee教授」って律儀に全部打ってたんだけど今、「k」って押したらスってでるもんね」

kenzee教授「そんな機能小学生でも知ってるぞ」

司会者「MOSって取るのにいくらかかるんですか?」

kenzee「今、ワードだけで10万。落ちたらもっとかかるね。ヒヒヒ」

司会者「今、呆れ返ってる読者の人々の顔が目に浮かぶようです」

kenzee「懇切丁寧に教えてくださいますよ。パソコンについて」

司会者「貯金は大丈夫なんですか」

kenzee「みるみる減っとるよ。でもオレ、ローンとか借金とかないから。クルマとかも持ってないし。10年以上ずーっと原チャで移動してるし」

kenzee教授「ヒマなんだったら文学フリマとか行ったらどうだ。11月9日」

司会者「せっかくヒマなんだからLydwineさんとか会ってみたらどうです。そういえばゼロアカ道場の人たちも出店するんじゃないですか」

kenzee「今、でてる「パンドラ」秋号の冒頭がゼロアカ特集なんだよ(イロイロ読んでるでしょ?)そこで文学フリマの主宰者の人が寄稿してます。曰く、同人誌の一つも作らんで自称批評家を名乗るな! と」

kenzee教授「破滅派とかも来るだろう」

kenzee「オレがkenzeeってバレたら石とか投げられたりして」

司会者「まーこのブログも気がついたらエントリー100超えてますからねえ。イロイロ好きなこと言ってきましたからねえ」

kenzee教授「キミの近況はわかったから、そろそろ本来の流れに戻そうかね」

司会者「早く仕事見つけなさいよ」

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