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切断主義が来たかもしれん(宇野常寛「ゼロ年代の想像力」、喜多ふあり「けちゃっぷ」文藝冬号)

(「DEATH NOTE」の主人公)夜神月は1995年以降の過剰流動性、つまり「何が正しいか、がはっきりしない世の中」を前提として、真正な価値はバトルロワイヤル(ゲーム)の勝者が政治的に支配することで暫定的に決定する、つまり「何が正しいか、は政治的に勝利した人間が決定する」という世界観で行動している。(中略)ここでは、ゲームの構造に自覚的で有能なプレイヤー=(メタ)決断主義者が、無自覚で無能なプレイヤー=決断主義者を動員することでコミュニティ(島宇宙)が形成され、この自分の島宇宙への動員ゲームがバトルロワイヤル(ゲーム)を形成するのだ。(ゼロ年代の想像力)

kenzee教授「宇野氏の議論では、現代社会では「決断主義的動員ゲーム」が展開されており、人は否応なくこのゲームの参戦を義務付けられている。で、このゲームにおいては自覚的なプレイヤーが設計者を兼ねるのだ。で、この設計者も兼ねる自覚的なプレイヤーのことを宇野氏は(メタ)決断主義者と名づけた。白岩玄の文藝賞受賞作「野ブタ。をプロデュース」はこのゼロ年代的な集団の有り様を的確にまとめられていると指摘している。教室内における決断主義的動員ゲームの設計者である主人公はいじめられっこの転校生を人気者に仕立て上げていく。どうやら「決断主義」というのはその大げさなネーミングに比して一種の処世術なんだね。かつて青春ドラマといえばそれぞれの個性や人格、生まれ育ちといった背景まで含めた実存を賭けたぶつかりあいを描いていたものだった。だが、この白岩玄の小説では登場人物たちはぶつかりあったりしない。彼らはまるでテレビドラマか映画の登場人物のようにそれぞれのキャラクターを演じているのだ。そんなルールも知らず、素の人格で転入してきた「野ブタ。」はイジメに会う。当然だね。宇野氏は「決断主義」の源流を1999年の高見広春の小説「バトルロワイアル」に見ている。登場人物の中学生たちは有無を言わさず殺し合いを命じられる。確かにこの小説はゼロ年代の感覚を先取りしていたといえるね。社会批評の宇野氏の論に付け足すなら1999年という年は労働者派遣法が改正された年でもある。ここからそれまで禁止されていた製造業等への派遣が可能になった。ゼロ年代の「格差社会」が政治レベルで設定された年と言える。だが、「バトル…」と「野ブタ。」では登場人物たちの実存の捉え方がずいぶん違うんだ。「バトル…」の中学生たちは文字通り命を賭して戦う。彼らは戦うべきか逃げるべきかという苦悩すら許されない。殺らなきゃ殺られる。1995年の時点では碇シンジはまだ苦悩してゲームから降りることが許されていたんだが(女性から軽蔑されたりしますが)たった4年の間に許されなくなったのだ。でも「バトル…」ではそれぞれの実存を、つまり彼らの人生を生きた上で殺され、死んでいくんだけど、「野ブタ」においては彼らの本来の人格は一旦保留されてるんだよね。だって学校という戦場では彼らは与えられたキャラを生きなくてはならないから。「野ブタ」のほうが複雑な人生を生きているのだね。これが映画やドラマの登場人物のキャラを演じているのならば、「カット」の声がかかれば役者は本来の人格に戻ることができる。楽屋トークに花を咲かせもするだろう。だが、」

司会者「野ブタ。」の高校生たちは一見青春を謳歌しているに見えるが、楽屋トークが存在しないんですね」

kenzee教授「そう、まるで疑心暗鬼の学校生活だ。あの、残忍でミもフタもない「バトル…」ですら腹を割った友との語らい、といったシーンはあったよ。でも、「野ブタ。」の彼らはのんびり楽屋で語り合ったりしているヒマはないんだ。この間、たった5年だよ。だが、もう2008年だ。さらにこの決断主義的動員ゲームは先へ進んでるんだよ。テレビドラマ版ではそういったキャラクターを承認しあうという希薄な人間関係とはべつの互いの人格を認め合う信頼関係を彼らは選択していく、らしいのだ」

司会者「テレビ版は観てないので宇野さんの受け売りですよ」

kenzee教授「で、こっから宇野氏の議論を我々なりに引き継いでみようと思うのだが、田中弥生氏の群像評論部門当選作。「乖離する私」という作品を覚えてるかな?」

司会者「中村文則論ですよね」

kenzee教授「で、読み返そうと思って本棚探してみたんだけど、でてこないんだな。コレが」

司会者「話終わっちゃうじゃないすか! こっからがキモでしょうが!」

kenzee教授「で、ウロ覚えで申し訳ないんだけど、確かこんな内容だったんだよ。まず、冒頭で綿矢りさ「蹴りたい背中」の冒頭のシーンを取り上げてた。「さびしさは鳴る」というヤツだ」

司会者「ハッていうスタンス」っていうヤツですね」

kenzee教授「そう。で、主人公のさびしさというのは彼女の内部から発生しているというよりどっかメタな視点から眺めてるかのようだ、と。なんせ「鳴る」だからね。で、彼女の教室内もまた「野ブタ。」同様、決断主義的動員ゲームにさらされているのだね。中学時代の親友はサッサと教室内の人気者グループの一員となってる。そして親友はそういう派手なグループの中におけるキャラをわきまえて楽しく高校生活を送っている。そんなゲームに対して、主人公は「ハッていうスタンス」で参加を放棄しているのだ。「スタンス」という言葉からわかるように彼女の思考というのは「立場を明確にする」というような大それたものじゃなくて暫定的な「スタンス」なんだね。「さびしさ」という感情に対しても距離を持っているし、教室内における自分を取り巻く状況に対しても距離があるんだ。彼女の在り方自体がとってもメタだ、と。金原ひとみ氏の作品にもそのような自己との距離感が見られる。自傷行為などのシーンにおいて主人公はとても醒めた視点から見下ろすのだ。で、中村文則氏の作品には特にそういう傾向が顕著で……とっても顕著だっていう内容だったと思う…ウロ覚えでゴメンね! 弥生サン」

司会者「従来の私小説においては物語世界の中心であり重心たる「私」がドンドン乖離していってますよコレどういうこと! という指摘だったんですね」

kenzee教授「田中氏の受賞は2006年だが、「野ブタ。」の「私」の二重性の問題まで踏み込めてればもっとナウい評論になってたのにね~。で、今回の文藝賞の話なんだけど」

司会者「やっと本題ですか!」

kenzee教授「こういう前提で進めないとどうしようもないんだよ。だっていつもの印象批評でアレしたらもうヒドイ、っていうしかない小説なんだもん」

司会者「喜多ふあり「けちゃっぷ」ですね」

kenzee教授「アホらしい話なので梗概書かないけど、主人公の少女は引きこもりで一日中ケータイに向かって思ったことをブログに更新し続けているのだ。小説は彼女の独白という構成で文体はとりあえずおいといて視点人物のあり方としてはベタな私小説なのだが、主人公の独白はすべてケータイのブログを通して世界に発信されているのだ。そしてそのブログの常連読者の男性と知り合うのだが、彼女は自意識過剰な引きこもりなので会話はすべてそのブログを通して行われる。ちなみにその文体というのがこんなんだ」

 ちょ、ちょ、ちょっと、これってマジって奴。こんなイっちゃってるブログにマジで書き込むなんてどんだけおバカさんなの? ちょっち可愛いじゃん、ヒロシ。どうしよっかな、どうしょっかな、ラーララ、ラララ、ルールル。って私が思うとでも思った? にゃはははは。マジでウケるんですけど。ですけど系なんですけど。って何? ですけど系って? にゃは。と私はブログに書き込んだ。(けちゃっぷ)

kenzee「一応、いちブロガーのオレから言わしてもらえばこんなイタい文体のブログは実際には存在しないよね。ブログ的な文章を極端にデフォルメすればこんな感じになるかもしれんが」

kenzee教授「で、154枚この文体で突っ切るのだ。で、いちいちイタいとか斉藤美奈子みたいなこと言っててもしょうがないので、先の議論に接続する。従来、一人称小説というものは主人公の本音トークだという大前提がある。つまり表面的にはニコニコしてるけど腹の中は煮えくり返ってるというような場面。コレは人間生きてりゃフツーにありうるシチュエーションなので、先のキャラと本来の人格の二重性という話とは別だよ。そこで地の文ではいかにムカついたかということをイロイロ比喩とかアレして書くのが一般的な一人称小説なんだけど。で、一人称における独白は小説内の他人には聞こえない、主人公と読者の間の秘密なんだよね。それが地の文の本音性を担保しているワケだけど「けちゃっぷ」のように思ったことを全部ブログに書き込む主人公ってどうしたらいいんだろう? 彼女の独白は従来の独白と違ってブログの読者を常に意識してるんだよ。「野ブタ。」の決断主義者たち同様、彼女は「自殺をほのめかすイタい文体のブログを書く引きこもり少女」というキャラを演じているのだ。そしてそのキャラのまま最後まで突っ切ってしまう。イタいキャラを最後までまっとうするのだ。まだ「野ブタ。」には僅かに残されていた(読者に対する)本音トーク、楽屋トークすら「けちゃっぷ」では消滅している。どこを探しても日本文学必殺の「私小説」の「私」など存在しない。それを裏付けるようにそのブログのキャラは非常に身の回りに起こる出来事に対して諧謔的なのだ」

司会者「宇野氏の議論ではキャラによる承認を確認しあうという回路ではまともな人間関係を構築できない、なぜならキャラクターの承認はフィクションが前提で成立しているためにその共同体が解除された途端に消滅するからだ、と。だからこそなんらかの行動なり経験で~したという事実によって関係を築くべきだ。そうして築いた信頼関係は共同体が解除されても(例えば卒業しても)残る、という話でした。決断主義の問題を解決するにはこれしかないと」

kenzee教授「ようするに本音でぶつかってマトモな人間関係築けよ、と。そういう傾向はドラマ版「野ブタ。」やよしながふみのマンガにも見られると宇野氏は指摘している。ところが「けちゃっぷ」はむしろ宇野氏の議論を裏切るような方向へ向かっている。ここにはもはやキャラしか存在しないのだ。そして主人公のHIROは生身の人間とコミュニケーションを一切とろうとしない。ではHIROはなにによってアイデンティテイを保っているのかといえばブログのコメント欄だ。田中弥生氏が指摘した2006年の時点ではまだ「私」は「乖離」する程度で済んでいたが、この小説では「私」はもはや切断されている。最後まで読者はHIROの本音トークも楽屋トークも聞くことはない。もしかしたら「けちゃっぷ」はあまりに奇矯な作品であり、宇野氏の議論に引き合いにだすのはフェアではない、と思う人もいるかも知れない。ところが、もうひとつの受賞作、安戸悠太「おひるのたびにさようなら」もまたキャラクターと実存を脱臼させてしまったような作品なのだ」

kenzee「いったい「おひるのたびにさようなら」とはどんな作品なのか! 久しぶりにいっぱい書くと疲れるね!」

司会者「ガンバレ! 無職!」

kenzee教授「時間ならタンマリあるんだからな!」

司会者「宇野さんは会社員らしいですね。スゴイなあ。いつ寝てるんだろ」

kenzee「オレだって今日の昼間、職安の説明会行ったり、パソコン教室行ったり忙しいんだゾ!」

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