初めて浜崎あゆみをちゃんと聴いてみた。そしたら現存在があった(自分探しソングの世界(Part.3)
司会者「で、いよいよ浜崎論に突入するワケですけども。ブッチャケ後悔してるでしょ?」
kenzee「約3時間にわたってYou Tubeで浜崎映像を漁りまくった。おそらく今夜は夢の中でエンリケやヨッチャンが登場し、激弾きしまくることだろう。しかし映像を観て思うのは浜崎バンドのメンバーの脈絡のなさってどうなのよ」
司会者「一応今やってるのは「J-POPの歌詞から90年代の想像力を読み取る」というものなのでサウンドの話はあとにしましょう」
kenzee「前回、J-POPのリアリズム革命に言及した。98年ごろを境に「無垢である」ことを免罪符に「自分探し」を続けるミスチル槇原ワールド、出会いによって全てがチャラになるコムロワールド、ひっくるめてファンタジーソングと呼ぶが、これらの偽善性を暴こうとする表現が見られるようになるのだ。スガシカオや椎名林檎が代表的だ。彼らはその露悪的な態度で偽善的な価値観を転倒した。例えば、ミスチル的価値観においては「約束」は果たされるもの、または果たすべく努力すべきもの、と規定されるが、椎名林檎はハッキリと「約束は果たされないもの」と規定する。ミスチルは現在が辛くとも未来への希望を失わないが、椎名林檎は未来とは基本、不安定なもの、希望的観測が困難なものと規定する。スガシカオも同様で「自分探し」に疲れ果てた若者の姿を執拗に描く。コムロは「男女が出会えば、永遠にわかりあえるもの」という前提で話を進めるが、リアリズム革命ではディスコミュニケーションが描かれる。99年にはモーニング娘。の「LOVEマシーン」がメガヒットを記録する。従来のアイドル像の偽善性に露悪的に抵抗して見せた彼女たちはこの時代のリアリズムを体現していたといえるだろう。江藤淳の言うように彼らは「無垢」を偽悪的に否定することで「成熟」を体現した、といえなくもない。ところが浜崎あゆみの歌詞からは表面的には過去の価値観を偽悪的に否定しようという意思は感じられないのだ。だが、浜崎は多くの10代の女性から「偶像」としてではなくリアルな存在として受容されていたはずだ。多くの女子中高生にリアリティを与えていたのだ。しかし浜崎リリックにはコムロワールドの価値転倒といったストレートな批評性が見当たらないのでどこがリアルなのかオッサンのオレにはサッパリわからないんだ」
司会者「むしろ浜崎の歌詞はコムロあたりがサンザン使い古した言葉なども結構再利用してますし」
kenzee「で、オレの手には負えなくなってきたので文学者の方に分析していただくことにしました」
kenzee教授「というわけで文学者ですけど。エ~浜崎ソング、いろいろ聴いてみましたけど。で、kenzeeの論考も聴講した。でね、「自分探し」ソングの定義に戻りたいんだけど、まず自分探しソングはメッセージソングだよね。コレ、絶対条件でしょ? 槇原、ミスチル、コムロ、グレイ、ソリマチに至るまで基本、リスナーへのメッセージソングである。で、そんなファンタジーな世界観を否定する勢力が現れ、リアリズム革命が起こる。でも、そんな椎名林檎だって「アンチファンタジー」というメッセージを送ってたんだよね。「人間関係なんて危うくて未来なんて不安なものだろ!」というメッセージを。で、なんでそれが有効だったかというと転倒させるに値する前時代の価値観があったからなんだよ。つまり、椎名林檎まではまだ「自分探し」の連続性の中にあるのだ。そこでkenzeeは浜崎も椎名を始めとするリアリズム一派に含めて一件落着しようとしたのだろうが、そうは問屋が卸さないのが浜崎の凄さだ」
kenzee「その通りです。浜崎ソングを一通り聴いてみたのですが「メッセージ」が見当たらないことに驚いたのです。あれほど大量の同性からの支持を受けているのだからテッキリ浜崎ソングには「メッセージ」があるのだろうと踏んでたんです。例えば相田みつを的な。女子高生向けの人生訓のようなものが散りばめられているのだろうとか想像してたんですがちゃんと聴いたら全然違いました」
kenzee教授「実証的にちゃんと原典あたることの重要性だね」
司会者「(オマエが言うな)」
kenzee教授「浜崎の歌詞には椎名林檎やスガシカオのような明確な個性が見当たらないんだよね。でも浜崎ソングは爆発的なセールスを記録したんだよね。絶対意味があるはずなんだよ。そこでよく聴いてみた。そうすっと浜崎もコムロ同様、似たような話を繰り返すんだが、コムロソングが近代小説以前の物語(ロマンス)のようにプロットだけが肥大した世界であるのに対して浜崎ソングには構造主義でいうところの「語りの形式」が見られるのだよ。まず、浜崎ソングは「運命」を「宿命」として受け止めるフシがある。
人を信じる事って いつか裏切られはねつけられることと同じだと思っていたよ(中略)一人きりで生まれて 一人きりで生きていく きっとそんな毎日が当たり前だと思っていた(浜崎あゆみ「A Song forXX」99年」
それでも全てには必ずいつの日にか終わりがやってくるものだから 今日もまたこの街のどこかで 別れの道選ぶ二人 静かに幕を下ろした(中略)誰も見れないでいる だけど信じていたい だけど祈っているよ これが最後の恋であるように(浜崎あゆみ「M」00年)
私たちは探しあって 時に自分を見失って やがて見つけあったのなら どんな結末が待っていても運命と呼ぶ以外他にはない 君が旅立ったあの空に 優しく私を照らす星が光った(中略)ふたりまだ見ぬ未来がここに残ってるから信じて 愛する人私の中で君は生きる だからこれから先もずっとサヨナラなんていわない(浜崎あゆみ「HEAVEN」05年)
コムロやミスチルなら「運命なんて自分でよりよい未来を切り開くのさ~」などと能天気に言いそうだが浜崎は「別れ」だとかあるい恋人の「死」とか避けようのない運命をみつめるのだ。そこで解釈学でオナジミのハイデガーの理論を引っ張ってきたいと思うのだ」
司会者「久しぶりに「文芸誌をナナメに読むブログ」らしい展開になってきましたね」
kenzee教授「ハイデガーは人間の分析をするにあたって、「本来性」と「非本来性」に分類したの。「本来性」とは浜崎さんのように自分の意思で歌手という職業を選び取り、自分の人生を他の誰でもない「浜崎あゆみ」として在るというありかたのことだ。「非本来性」というのは逆で自分の存在を自分のものとしないでその場その場で調子を合わせるあり方のことだね。そして浜崎さんのような「本来性」を生き、自分の存在を引き受け、己に問い続ける存在者の在り方、これをハイデガーは「現存在」と呼んだ。このようにハイデガーの哲学とは実存主義的なのだ。なにしろ、後にサルトルやメルロ・ポンティが引き継いで発展させるくらいだからね。浜崎ソングはまだ付き合ってる最中なのに別れを予測して現在に意味を見出す、というような思考が先回りする傾向があるんだけど。ハイデガーは「自分の死」を先回りして関わり、本来的に了解することを「先駆的了解」と呼んだのだが、浜崎ソングにはこういった「先駆的了解」が散見されるのだよ。ハイデガーは「人間的な知は、常にこの先駆的了解から始まる」という。同時にその中からもでられない、と。その限界についても指摘している。ハイデガーの主著といえば「存在と時間」だが、ムチャクチャ要約すると「人間の存在してる意味、そして人間が存在することを可能にしているもの、それが時間性だ」という。人間がこの世界に存在するには「死」という可能性をめざしながら自分を見る、つまり未来を見る(到来)と同時に過去を見て(既在)自分の弱さを知り、同時に現在も見て(現成化)自分を解放する。つまり「過去を見つつ現在にある未来」(既在しつつある現成化する到来)というのが人間存在の意味だという話だ。このような時間性によって存在していると。そして我々の歴史性は「宿命」だという。そして共同体に共通した宿命が「運命」だと論じた。ひらたく言うとハイデガーの理論とは「先駆的了解によって死と相対し、理性を否定して「宿命」を受け止め恋人とは運命をともにしなさい」というえらいストイックな話だ。浜崎ソングは「自分を変えよう」とか社会を変革しようとかメッセージはない。その代わり、この時代に生まれたのも恋人と出会ったのもやがて訪れる別れも「先駆的了解」し、基本、自分の身に起こることは受け止めるんだ。ハイデガーは歴史性ではなく時間性を重視したのだが、浜崎ソングもまた過去、現在、未来の時間性のなかで描かれるのだ。浜崎ソングと「自分探しソング」との決定的な違いはミスチルなどがわかりやすいが過去の描き方で、まあ、失敗ばっかりしてるんですよね。コムロも。でも未来はきっと明るい、だから次の扉を開けよう!という論理なのだが浜崎にとって過去は「美しいもの」「輝いていたもの」なんだよ。そしてそれらは未来において喪失するものと運命付けられているのだ。
今年もひとつ季節が巡って 思い出はまた遠くなった 曖昧だった夢と現実の境界線は濃くなった それでもいつか君に話した夢に嘘はひとつもなかった 今日がとても楽しいと 明日ももっと楽しくて そんな日々が続いてく そう思っていたあの頃 不自然な時代のせいだよと先回りしてあきらめていた (浜崎あゆみ「SEASONS」00年」
君を咲き誇ろう 美しく花開いた その後はただ静かに散っていくから(浜崎あゆみ「vogue」00年」
あの海へと続く道のり 無邪気に笑い転げて走り抜けていった 遠い夏の日 今も胸に残る幼き僕たち その先に待つ未来のことなんて知るすべもなく あれからどのくらい 何かを求めて 見つけてはまた失うことばかり 繰り返しだけど ここにある笑顔が教えてくれたよ 僕たちは今最も永遠に近い場所にいる(浜崎あゆみ「fairy land」05年)
「SEASONS」において先駆的了解によって先回りしてあきらめる姿が描かれる。このように「自分探しソング」がタダの「居場所探しソング」に堕してしまっている現状に対して浜崎ソングは存在論的に自己同一性を問う、という哲学的な世界なんだね。ところでさっき、浜崎ソングは椎名林檎やスガやaikoと比べて明確な個性がない、匿名性の高い詞だと評した。そうすっと私なんかはアレ?神話?とか思うわけだが古典的構造主義における神話の研究でオナジミのノースロップ・フライによれば文学作品のもっとも普遍的な原型は自己同一性探求の神話だという。自己同一性の成就と喪失という両極を持つ探求神話は四季の循環に対応する4つの語りの形式からなり、それぞれ喜劇・ロマンス・悲劇・アイロニー/サタイアの4ジャンルに分類できるとした。「SEASONS」とか「HEAVEN」に特徴的だが浜崎は季節の話をよくするんだよね。アイロニーとは主人公が幸福を夢見ながら成就できない悲劇のことだが、こういうのを「冬の語り」と呼んだ。また無垢の楽園世界から喪失の現実世界へ向かう移行が語られるのは「秋の語り」だ。浜崎ソングは「春の語り」と「夏の語り」がスッポリ抜け落ちてて秋と冬しかない、神話の分類でいけば悲劇しかない世界なのだ。ちなみに「冬の語り」のアイロニーで代表的な作品はオーウェルの「1984年」スタインベックの「二十日鼠と人間」が該当する。「秋の物語」ならばソフォクレス「オイディプス王」、シェイクスピア「ハムレット」が代表だ。浜崎ソングは……これはマーケティングによるものなのかそれとも浜崎さんが生まれながらに神話を内臓した天才作詞家なのかわからないけど最大公約数みたいなところがあるんだね。オレは思うのだがスガシカオや椎名林檎の歌詞は非常に独創的で、また国内でしか通用しない要素も多く含むので国境を越えることはないと思うんだ。だが神話的構造に根ざした浜崎ソングはうまくすれば国境を越えるのではないかと思う。で、このブログを最初のころから読んでる人はウスウス気付いてると思うけどオレは基本、マルキシストなんだよ。マルクス主義ってむしろ今こそ有効だと思ってる。そこで次回は「マルクス主義的視点から自分探しソングはこう聴こえる」という話をして、コムロ逮捕からエンエン引っ張ってしまったこの論考をひとまず終えたいと思う」
kenzee「あ、それと98年のリアリズム革命に乗じて急速に市民権を獲得した日本語ラップについてもちょっと触れたいかな……」
司会者「もう、一生やってろよ!」
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