自分探しと多重決定と決定不可能性(自分探しソングの世界Part.5)
kenzee「前回は「白線流し」というテクストから90年代の若者全般を覆った病、「自分探し」がこの10年どう展開し、進行させていったかという話をした。あのドラマの登場人物たちは学校を出てから仕事を辞めて海外へ飛び出したり「不安」という漠然とした理由から結婚をやめたり、役者や脚本家というかなり実現可能性の低そうな夢を見てアルバイト生活を続けたりとリスキーな選択肢ばかり選び取ってしまう。そして多くの視聴者は彼らの生き様を好意的に評価した。「リスクをとる」ことの危険性について誰も指摘しなかったのだ。これは最早、我々団塊Jr.世代ばかりが人生を安易に考えていたというより95年以降のポストモダン状況の進行とともに「大きな物語」が消滅したことによる「物語探し」の一環だったのではないかと思えてくる。こうなると「自分探し」は社会システムの問題とも関わってくる」
kenzee教授「大きな物語ってみんな割りとよく使うけどさ。ポストモダニズムを定義するときによく使われる言葉なんだけど「大きな物語の終焉」とか。「大きな物語」は前提として、全体性、発展、目的論という基礎のうえに成り立つものでね。たとえばマルクス主義は人類史を大きな物語として語った。まず、原始共産制から始まって、農耕の発達とともに私的所有という概念が生まれ、階級闘争が始まる。そしてさまざまに発展、止揚があったのち、社会主義へ最終的に発展する、という冷静に考えると割りと単純なストーリーだ。この「大きな物語」は60年代終わりまでは機能していた。そしてポストモダン批評の登場によって否定されていく。だが、デリダやバルトの登場を待たずともマルクス主義内部で否定されていた。リオタールは構造主義的マルクス主義者だが「その手の思考法は近代の、啓蒙主義以来の思考法だ」と批判した。デリダは「大きな物語」とはイデオロギーである。そんな形而上学的イデオロギーは切り刻んでしまえば逃れられると論じた。もう一人のポストモダンの論客ボードリヤールはマルクス経済学をひっくり返した。マルクスは価値を市場価値と交換価値に分けた。交換価値は市場によって決められる。たとえば高学歴の新卒は就職市場では高い価値が付けられ、交換されるのだが、40過ぎの非正規雇用者は交換価値が低いとみなされる。しかし、使用価値とは彼らが実際にどんな働きをするか、という問題だ。おそらく前者はデスクワークで、危険の伴わない仕事でたくさんの貨幣を得るだろう。後者は危険な仕事に従事し、労災を起こす可能性が高い。にも関わらずわずかな貨幣しか得られない。マルクスはこの使用価値こそが正しい価値なんだと指摘した。今、雨宮処凛さんや赤木智弘さんや大澤信亮さんなんかがやってる労働者の問題の根源はこの「価値」の問題なの」
司会者「マルクスの言ってることは基本、正しいんじゃないですか? だってロクに仕事らしい仕事してないオッサンとかいっぱいいるわけじゃないですか、会社って。で、能力も体力もある白線流しにおける渉のような若者が自分探しに奔走してる状況はおかしいって、そういう指摘なんじゃないんですか? ま、ボクのようなセレブが言うのもアレですが」
kenzee教授「今でも、左翼系の論者は使用価値が正しく、交換価値は間違っているという前提で論じるヤツが多い。最近なら非正規雇用の大量クビ切りなどの問題でよく見られる。彼らの使用価値は極めて高かったはずなんだ。だって、工場とかで現場で危険な労働とかに従事してたわけだろ? でも、世界的な不況に見舞われている現在、彼らの交換価値は最早ゼロ円に近い。なにしろ失業して仕事も住むところもないんだろ? つまり財産を所有していないってことなんだけど。小泉の規制緩和とはこの交換価値と使用価値の格差を大きく拡げるって意味と読むべきなんだ。ところがボードリヤールはこの前提をひっくり返した。ボードリヤールは「事物そのものの価値というものが仮にあるとしたらそれは数値化もできないという意味で、そもそも「価値」ですらない。よって「使用価値」という概念は「交換価値」を常に誤った価値と認識することで、その起源として想像される擬制でしかないと論じた。交換価値こそが現実に存在する価値で使用価値など幻想に過ぎない、と。つまり市場の判断こそが正しい判断で、オレは一生懸命がんばったとか関係ない、という論理だ。ボードリヤールの言いたいことは要するに「経済学に道徳を持ち込むな。そんなナニワ節で経済を統御すると失敗する」ということなのだ。ボードリヤールは元祖「決断主義者」と言っても過言ではないと思うんだけど、彼のマルクス経済学否定は一理ある。市場が判断するからコムロが凋落して別の想像力が現れる、といった文化の世代交代が正しく行われるのでね。でも、今回の金融危機でわかったことがある。確かに資本主義はボードリヤール的決断主義によって回ってるわけだけど、リーマンのような金融セクターにまでそのルールを適用してしまったら大変なことになるということ。このようにポストモダニズムもまた、マルクス主義同様矛盾を孕んでいるのだ。デリダはイデオロギーから逃れようと頑張ったが「イデオロギー(大きな物語)の終焉」という物語自体が反政治性という名の政治性を持ってしまう。たとえば東浩紀さんは例のニコ動で「文学の全体性を回復したい」と述べているが、その全体性、発展、目的論を前提とするものがイデオロギーなのだ。結局、なにか発言するということは少なからず政治に加担せざるをえないということなんだけど。その辺をいっつも後ずさり戦法でゴマかそうとするから大塚英志は東氏に怒るんだよ。「リアルのゆくえ」で東氏は南京大虐殺論争をやって大塚さんにブツブツ言われるんだが、「歴史」ってそもそも政治なのね。なんらかの政治に加担するんだよ。真実はひとつしかないのは自明のことだけど純粋な歴史というものはないの。そうすっと我々にできることは「どの政治に加担するか」という決定で、そこを通過することが、今宇野さんがやってる「成熟」の問題と絡んでくる。つまり、「どの政治に加担するか決定することは意味がない。ならば複数のイデオロギーが共存できる社会を構築しよう」というのは結局問題先送りの発想なの」
kenzee「ミスチルの論理に近いですよね。やっぱり東さんも90年代の人なんですよ」
kenzee教授「マルクス主義文学理論における、上部構造の「決定」の概念はデリダらポスト構造主義、脱構築主義によって大きく修正された。アルチュセールは「上部構造の相対的自律性、そして上部構造と土台の多重決定」という概念を考案した。マルクス主義では財産のない者はみんな肉体労働に従事し、酒やら娯楽やらで憂さを晴らすということになるが人間とか社会とはそんな単純なものではない。さらにフレドリック・ジェイムソンがラカンの精神分析論を使って「政治的無意識」を語り、スラヴォイ・ジジェクがそれを発展させた。これらの議論によってマルクス主義における上部構造の「決定」の概念は「決定性」と「決定不能性」がイコールになってしまうという逆説が生じる。重要なのは誰も「ポストモダン状況が進行してナニ信じていいかわからないから「決定」するのはヤメました」とは言ってないんだよ。人間とか社会とは基本、「決定」「成熟」へむかうものなのでね。マルクスの時代はまだ産業革命が起こったばかりで人間の精神なり政治を決めるのは「経済」によってだった。でも70年代以降、話はそう単純にはいかなくなった。今の派遣社員の人々のクビ切り問題に即して考えると彼らはエライ目に遭ってる。工場で働いて得た収入、という土台があって派遣会社の寮に住むとか生活インフラといった上部構造が成立していた。ところがクビ切りという下部構造の変化によってこの上部構造は崩壊する。このとき、マルクスなら「下部構造を消滅せしめたブルジョアジーを倒せ、団結し階級闘争せよ!」 と唱えるだろう。だが、派遣というシステム自体がアルチュセールの言うように下部構造を重層的にしていて敵がよくわかんなくなっちゃってるワケ」
司会者「彼らは派遣先に文句言っても「ハナからそういう契約だろ(いつでも契約解除できる)という論理で話にならないし、派遣元は(派遣社員は「登録」しているのであって雇用しているのではないので)出て行ってくれ、と。どこにケツ持っていきゃいいのか」
kenzee教授「この状況をマルクスが見たらなんと言うかね。たぶん、まずこう言うだろう。「ナゼ、彼ら(派遣社員)は団結しないのか? プロレタリアートとしての自覚がないのか?」と。オレはこう答えるだろう。「ないんですよ。彼らは自らを「労働者」とか「プロレタリアート」だとか「使用価値より交換価値がかなり低く見積もられている」とか考えたことないんです」、と」
マルクス「でも、彼らだって他人との経済格差を感じて生きているんだろう? 友達がクルマを乗り回してたり、家建てたりボーナス貰ったりしてるのは知ってるんだろう? 自分だって労働者なのにナゼこうも違うのか、とか」
kenzee「そこはkenzee教授に代ってボクが答えましょう。つまり、彼らはポストモダン的自分探し理論によって問題を先送りにしているだけなのです。彼らはあなたの言うように自らを「労働者」とも「プロレタリアート」だとも思ってません。せいぜい「旅人」「自由人」「夢追い型フリーター」こんなとこだと思います」
マルクス「私は現代の日本に来てまず、こう思った。この国の風景は欺瞞と隠蔽にあふれていると! まず、公園のベンチ。絶対一人しか座れないようになってね? アレ、ホームレス対策だよね。あと、よく地下道とかに置いているオブジェとか。芸術かなんか知らないけど。アレもホームレス排除の歴史を隠蔽しているのだろう。ファスト風土は一見、地方に文化と雇用を創出しているように見えるがなにかの拍子にジャスコやマクドやツタヤやファミレスが撤退したら地方死ぬぞ。私はあらゆる場が闘争の場だと論じた。21世紀、ネットなどの科学の進歩によってヴァーチャルな社会が現出したかに見えた。そしてそれは新たな団結の、闘争の場になるかと思われた。しかし、むしろ、ネット社会は権力に与する方向へ向かっているように見える。2ちゃんねるなどは若者のフラストレーションを薄め、弱体化させるメディアとしての機能でもある。どうりで権力は2ちゃんねるを潰さないわけだ。kenzee、キミはこの状況、東氏や宇野氏の言うような「全体性の回復、複数のイデオロギーが共存できる社会的アーキテクチャの構築」とかでどうにかなると思うかい?」
kenzee「悪いけどその論は性善説に基づいてると思います。人間は排除する生き物です。ウェブの時代にはウェブの時代なりの排除の論理が現れるだけだと思います。「排除2.0」とでもいうものが。「自分探し」はいいことだ、という思考は、「大きな物語」が消滅したポストモダン状況ならではの思考です。ボクは人間には、というかとくに若い人には、ウソでもいいから「大きな物語」を与えることが重要だと考えます。この際、正しい正しくないは関係ありません。大体歴史も「大きな物語」ももとからフィクションです。ナゼ、人間は政治に加担し、排除するのか? それは「排除」ってカッコいいからなんです。石井聰亙 の傑作、「狂い咲きサンダーロード」のセリフにあるじゃないですか、(「住民から愛される暴走族になろう」という族同士の取り決めに対して)主人公の特攻隊長ジンは言う、「愛される暴走族だって!?冗談じゃねえ!」そして彼は世界のすべてを敵に回すのだ。哲学とか批評理論ってボクは暴走族みたいなものだと思ってたんですが。とにかく今、「大きな物語」が必要なのです。このポストモダン状況が進行すれば次は「経済」という物語が消滅します。大インフレが起きてもおかしくない状況です」
司会者「経済は「物語」なんですか? 実体経済じゃないですか」
kenzee教授「アレだよ、紙幣ってさ、一万円札は一万円分の価値があるってことになってるけど、アレみんなそう信じてるから流通してるんであって実はタダの紙だから。基本、社会って「信用」によって動いてるのでみんなが信じる「大きな物語」が消滅することがどんだけシャレにならないかわかるだろう」
kenzee「別のアーキテクチャを設計すればOKとかいうものじゃないんだ。強いて言うならいっそ社会主義にしちゃえば丸くおさまるんだよ、でもポストモダン論者たちはただ苦笑するだけだろうけどね」
マルクス「社会は漸進的発展を遂げる。だが、それには根気よく、時間をかけた「仕事」が必要だ」
kenzee「今回はケツメイシや清木場俊介といったJ-POPの歌手が自分探しとか「旅」とかを歌うのはナゼか、という話をしたかったんだけど。状況論みたいな話になってすまんね。次で、日本語ラップの話をしてJ-POP批評、終わりになると思う。ただ、今の世界的な金融危機とか国内の労働問題とかムチャクチャな状況なんだけどテレビとか新聞とか見ててもそのシャレにならなさが伝わってこないんでね。ひとつ例を挙げておくと80年前の世界恐慌のときは中小の金融機関は壊滅的に潰れた。でもウォールストリートの主要金融機関は倒産しなかったんだ。銀行に関しては昔から厳しい規制を設けて公的機関による監視も行われていて、そう簡単に破綻しないシステムができてたからね。じゃあ、なんで第二次世界大戦に至るほどの大恐慌を招いてしまったのかというと1931年、オーストラリアで預金資産の7割を集めていたクレジット・アンシュタルト銀行が破綻したからなんだ。リーマン・ショックは6130億ドルという負債総額を発生させていて、21世紀のクレジット・アンシュタルトと言える」
kenzee教授「そういえばkenzeeは今仕事なにしてんの?」
kenzee「ボクは今、某公共機関で働いてるんですよ」
司会者「郵便局の年賀状のヤツですか?」
kenzee「違うよ! っていうか公共じゃないじゃん!」
kenzee教授「役所みたいなトコなんだ」
kenzee「ええまあ。臨時職員みたいな」
kenzee教授「キミはよくそういう妙なバイトを見つけるよね」
司会者「ここの読者にももしかしたら失業者の方がいるかもと思うんですが、そういう妙なバイト見つけるコツとかあるんですか?」
kenzee「毎朝、ハロワに張りつく。あと、意味なくてもスーツを着て出かける。ワタシはコレを実行しました」
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