« 日本語ラップと自分探しその2 | トップページ | ココログガイドとか津村とか嵐とか(日本語ラップと自分探し4) »

日本語ラップと自分探しその3

司会者「ラップとか自分探しとか言ってる間に津村記久子が芥川賞獲っちゃいましたよ。津村オシのウチとしてなにかコメントしなくていいんですか?」

kenzee「イヤ、ホントうれしいですよ。津村オールドスクーラーの私としては。「ポトスライムの舟」は奈良が舞台なのね。そして主人公の家に転がり込む友人が後半、アパートを見つけるのだけど、そこが生駒という」

司会者「アナタの住所ですね」

kenzee「柴崎さんの「星のしるし」には石切とかでてくるし。ナニ、この最近の文学における近鉄奈良線の熱さは! しかも「ポトスライム」は奈良のイナタさもちゃんと表現されててリアルだったよ。ホントに奈良市内、いわゆるならまちとか奈良公園とかあの辺の観光地ってサ店か寺しかないですから。確かにカネのかからん街ではあるな。いわゆる歓楽街ってのもないですし」

司会者「全然小説の評価になってませんが」

kenzee「去年の今頃「津村のよさが一般層に届かない」とかウチらブツブツ言ってたわけですけど、心配しなくても届くべきところにちゃんと届いていくんだね。誰かが言うほど純文学はクローズじゃないよ。「ポトスライム」の評価についてはJ-POP論終わってからやろうかな。ちなみにオレの津村最高傑作はなんといってもデビュー作(君は永遠にそいつらより若い)だな。20代の人にしか絶対書けない世界がある。「ポトスライム」では誰かのためになにができるか、という義侠心が描かれるが、その源流はデビュー作に色濃くある。虐待児を救うために携帯で窓ガラスを叩き割って侵入する主人公が形を変えて描かれている。それにしても津村小説がフツーに本屋で平積みになるなんて痛快ですよ。単純に」

司会者「では日本語ラップの続きですが」

kenzee「前回、「Grateful Days」の登場はJ-POPシーンに広く日本語ラップの存在を知らしめた、新しいスタイルを提供することとなった、という話をした。そしてリアリティを失いかけていたJ-POPの「上昇志向」に再び命を吹き込んだ。99年の話だ。この我々が問題にしている「リアリズム革命」「98~99年問題」についてもうちょっと背景を探ってみたいと思う。この99年という年は、来るべき混迷のゼロ年代の状況設定が着々と進んでいった年だと言える。まず宇野常寛さんもいうように決断主義の原点「バトルロワイヤル」のヒットがある。そして今、大問題の派遣法が改正されたのがこの年だ。完全に悪者扱いのこの改正派遣法だが、コレのおかげでゼロ年代はゆるやかに景気を拡大することができた。そして国家国旗法が成立したのも99年だ。ゼロ年代は若者が、ネットユーザーを中心に右傾化していった時代でもある。そして奇しくも2ちゃんねるが登場したのも99年だ。こういった社会の変化をJ-POPは敏感に感じ取っていたのだろう。ミスチル、コムロ、ビーイングの90年代型J-POPが終わりを告げ、多くのCDユーザーは音楽を「カラオケで歌うために」聴くよりも、よりリスニングに比重を置いた受容の仕方へと変化していく。具体的な例を示すなら98年はMisia、UA、CHARA、Cocco、aiko、宇多田ヒカル、椎名林檎、浜崎あゆみといった女性アーティストの登場が目立った。また、97年から始まった野外イベント「フジ・ロック・フェスティバル」が恒例化し始める。99年には同様の野外イベント「ライジング・サン・ロック・フェスティバル」も開催される。また、AIR-JAMのようなインディーズ・バンドのイベント、スカ・オブ・イット・オールのようなインディーズレーベルのイベントが商業的に成功を収めるようになる。日本語ラップに関して言えば、98年にはZEEBRAが国産ヒップホップでは初の全国ツアーを成功させている。そしてなにより重要なのはこの98年という年はわが国のレコード産業史上、最高のセールスを記録した年なのだ。ちなみに現在のレコード産業の市場規模はこの頃の約半分ぐらいである」

司会者「そういや、CD屋さんみかけなくなりましたね~」

kenzee「関西人のオレの感覚では、タワーレコード心斎橋店が閉店した瞬間、この産業に大きな空洞ができたように思った。アレとCISCOの閉店でなにかが終わったんだと思う。リアリズム革命までは順調にCDが売れていたので単純にJ-POPの歌詞の変化に着目していればよかったのだがこっから先は産業構造の変化にも目配せしながらでないと大事な論点を見逃してしまうだろう。ついでに言うと烏賀陽弘道さんのJ-POP評論「J-POPの心象風景(文春新書)」は個々のアーティストの論考はそれぞれ面白いのだが(特にGLAYとモーニング娘。を成長の物語として論じたトコは秀逸)社会の変化との関連、また、ユーザーの受容の変化(iPod、音楽配信を始めとするハードの側の変化)J-POP以外のポップカルチャーとの関連についてはなにもナシ、なのが残念だ。烏賀陽さんの論は平面的でつながりがないんだよ。せっかく椎名林檎と浜崎あゆみを取り上げたのなら、同時代に現れたこの二つ(ホントのこと言えば宇多田も足して三つ)の異質なキャラクターに関連性を見出せなかったのはツライ。また、椎名論やるのに「歌舞伎町の女王」一曲に頼りきっちゃうのはどうか。ブルーハーツ論にしても「ブルーハーツ→仏教性」でオワリではリアルタイマーとしては反論したくなる」

司会者「まあ、99年以降は慎重にいかないとダメだ、と」

kenzee「烏賀陽さん63年生まれでしょ? オレとか速水さんの10コ上なんだよ。だからサザン論、ユーミン論とかあの世代のものについてはリアリティあるんだよ、でも椎名論あたりからトンデモになってくるんだなア」

司会者「話を前に進めてください」

kenzee「Grateful Days」以降、ヒップホップの価値観、方法論は各方面へ浸透していく。これが過去のラップのヒット曲、今夜はブギーバック(93年)、DA・YO・NE(94年)との決定的な違いだ。「Grateful Days」の最大の特徴は「日本語によるライミングの可能性」を提示したことだ。例えば純文学シーンにおいて、ラップはどんな影響を及ぼしたか。ゼロ年代における純文学最大の事件はやはり2004年、綿矢りさと金原ひとみという二十歳前後の若い女性による芥川賞受賞だろう。受賞作「蹴りたい背中」「蛇にピアス」についてはすでにサンザンいろんなとこで論じられているのでいまさら文学性がどうこうとか言うアレはない。だが、若い彼女らの作品がこの時代の日本語ラップの影響下にあるという点については未だ論じられていない。まず、綿矢氏の芥川賞「受賞の言葉」をみなさん覚えているだろうか。

 「はやりやまいはやはりやばい」。これが私が初めて創作した文章で、学校の国語の時間に薬屋のキャッチコピーのつもりで作った。2作目がデビュー作で、「蹴りたい背中」は3作目になる。(綿矢りさ「受賞の言葉」文藝春秋2004年3月号)

司会者「↑コレ、ちゃんと原典当った?」

kenzee「当ろうと思って、図書館行ったら2005年以前のは処分しちゃったんだって! 頼むゼ、生駒市図書館YO!」

司会者「(評論家名乗るなら、あらゆる手ェ使って手に入れろよ、出不精が!)」

kenzee「で、オレの記憶を頼りに書き出してみました。もし、当時の文藝春秋お持ちの方、いましたら正確な文面教えてチョ。でね、問題はこのコピーですよ。1984年生まれの綿矢さんにとって、日本語とは初めから韻を踏むもの、という認識があったってことだよね。また、インタビューでは受賞作の仮タイトルが「ファンの不安」というものであった、と語っている。もちろんこれらの文章はラップではないし、綿矢氏が好んでラップミュージックを聴いていたといった文献もない。だが、このゼロ年代を代表する純文学の才能が日本語のライミングに対して自覚的であったという事実は「99年以降」の問題を考える上で重要だ」

司会者「確か、「蹴りたい背中」にもそういう言葉遊びみたいな会話のシーンがあったような気がしますよ。(ちゃんと読み返してから書けよ)」

kenzee「金原作品もまた、ヒップホップカルチャーの影響が垣間見えるのだ。ラスト近く、主人公ルイとシバさんの会話。

 「へえ、ねえオレさ、変な夢見たんだ」「どんな?」「昔仲良かった友達がさあ、ヒップホップやってて、オレその友達と遊びにいくことになったんだ。でもオレ待ち合わせにすげえ遅れちゃってさ、そしたら友達とその仲間が怒りを歌で表現してくんだよ。オレ、5,6人に囲まれて歌われたんだ。ラップで怒りの歌」(金原ひとみ「蛇にピアス」2003年)

フリースタイルで文句を言われるという。5,6人というからマイクリレーものだったのだろう。このように都市の風景としてラップが登場する。まったく作風の違う二人だが、アウトプットは違えども同世代で同じ時代の文化的影響下にあったことがおわかりだろうか」

司会者「コレ、その怒りの歌のリリックまで書いてあったら、kenzee賞受賞だったのにねえ」

kenzee「ホンット、そこはしょったので芥川賞どまりです。彼女たちがもっとも感受性の強い10代に「Grateful Days」以降の環境下に生きていたからこそ書けた作品だ。この、当たり前の文化として身体感覚として入ってるってことが重要です。ナゼなら、この半年後の芥川賞受賞作、モブ・ノリオ「介護入門」はサンザン、ラップ調だのなんだのと評された割にはこの時代の日本語ラップによる言語感覚の変化にまったくついていけてない文体だったからだ。

 YO,FUCKIN’朋輩(ニガー)、俺がこうして語ること自体が死ぬほど胡散臭くて堪らんぜ、朋輩。夢か、リアルかコマーシャル・ビデオか、麻の灰より生じた言い訳か、悟っては迷う魂の俺から朋輩へ、どうしたって嘘ばかりになるだろうから聞き流してくれ。

 おお、SUCKER! 俺の野郎よ、気持ち悪いこと口走りやがって! (中略)YO、こいつに関しては尊大に語らせてもらうぜ、俺は既にこの件の権威なんだ。或る朝スウェーデンからの国際電話で叩き起こされ、俺がノーベル婆孝行賞を授かったとしても、FUCKIN’至極当然だわな。(モブ・ノリオ「介護入門」2004年)

確かに「介護入門」の文体からはN.W.Aのようなギャングスタ・ラップやパブリック・エネミーのようなポリティカルなメッセージ性の強いミドル・スクールのヒップホップミュージックの影響をみることができる。だが、99年以降急速に一般層に浸透していった日本語ラップへの配慮はまるでないのだ。もちろんモブ氏ほどのヒップホップ・フリークなら当時の日本語ラップシーンの存在を知らなかったとは考えにくい。芥川賞受賞のころ、モブ氏はクイック・ジャパン誌上で奈良出身のお笑い芸人「笑い飯」と対談している。で、そのときのモブ氏の写真がさ……。目深に被ったベースボールキャップにブルーハーブの缶バッヂつけてたんだよ! ドコで売ってんのソレ! モブさんYO!」

司会者「また、話それてますよ」

kenzee「ま、要するにモブさんはヒップホップミュージックの影響は受けてたかもしれないけど、綿矢氏などのように身体感覚としてラップ文化は入ってなかったみたいなんだな。また、この2004年頃、ようやく文芸誌でも日本語ラップを取り上げる文章が見られるようになる。当時の群像で陣野俊史さんがブッダ・ブランドの「Don't Test Da Master」の歌詞を引用しつつ、舞城王太郎の小説との類縁性について述べている。そして2005年には中原昌也がブッダのメンバー、NIPPSのソロ曲に詞を提供する。もっとも純文学と日本語ラップが接近していた幸福な時代だったといえるだろう」

司会者「ラップが文学と接近するのは構わないですが、その動きはもはや「J-POPの想像力」とは遠い世界ですね。トゥルーアートの話じゃないですか」

kenzee「ところが日本語ラップは強靭だった。同時にアイドルソングなどにもグイグイ浸透していくのだ。ここでは日本語ラップがどのようにして大衆に受容されたかを計るわかりやすい物差しとしてジャニーズ・アイドルとラップの関わりについて述べたい」

司会者「エ!? フツー、ラップの評論つったら近田春夫のプレジデントBPMとかいとうせいこうの話して、さんぴんCAMPの話とかLBネイションの話するものと相場が決まってるじゃないですか」

kenzee「そんなのとっくにいろんな人がしてるし、いまさらだし。オレがやるなら未だ誰もマトモに論じられたことのないジャニーズ・ラップについて考察したいんだ。まず、何度も言うようにJ-POPと日本語ラップとの関わりにおいてターニングポイントになったのは「Grateful Days」だ。この99年以前と以降とではADとBCくらい違う。では99年以前、J-POPはラップをどう捉えていたのか。97年発表のKinki Kidsのデビューアルバムに収録されているラップソング、「Kissからはじまるミステリー」を聴いてみよう。

 君の向こうに海が青く 透き通るよ不思議 黙りこくった時がほら しゃがみこむよ ねえ優しさの意味教えてよ 君の涙に酔っちまう前に 君の瞳に酔っちまう前に(Kinki Kids「Kissからはじまるミステリー」作詞:松本隆、作曲:山下達郎)

司会者「これは……ラップですかね?」

kenzee「ラップというより「リズムに乗った語り」という感じだ。ラップのキモである「ライム感覚」がまるっきり欠如している。この曲は2005年、作曲を担当した山下達郎によってセルフカヴァーされた。そのときはラップにケツメイシのRYOを迎え、リリックも丸ごと書き直された。

 街さまよう君との距離測る 寄せては返す波より早く 動き続ける 心くすねる 僕ならばきっと君を包める なんてめでたい思いでいたこと 昨日までの君は今どこ 想いは揺れる 隙間埋めるためひたすら悪戯に君に触れる 舞い散る花びら掴むように あやふや不確かに結わく恋 ただ欲しい恋しい何気ないときにも感じるから心奪い取りに 見えない行く手にミステリー 感情握りしめ引く手に 放した僕の手はどこにしまう 気付けば君が離れてしまう 恋はミステリー できるいつ手に 本当の君だけを見つけに のぞく心届くには遠く 望むほどにその恋はもろく また揺れだす気持ちが騒ぎだし 君の心の底触りたい 他になにも要りはしない この悩みすら君には意味ないかい?(山下達郎featuring RYO fromケツメイシ「Kissからはじまるミステリー」2005年)

 コッチはさすが本職の人がやってるだけあって本物のラップです。でもこの曲はキンキのバージョンの方が本領を発揮していたと思うなあ。大体Kinki Kids自体のコンセプトが「王子様」なわけでまさにロマンス(騎士道)を生きてるわけでストリート文化とは本来的に相容れないんだよね。もう一曲、この時代(Grateful Days以前の)J-RAPを考える上で重要なヤツを。モーニング娘。「抱いてHOLD ON ME!」

 You Gotta恋とか愛とかわかんない だから女の子だって泣かない 恋して純情 愛して根性 そして恋愛感情ByeBye なんでいつでも愛してるI Love You 私それでも明日でもきかん坊 恋の劇場愛全て勘定 たぶんこれでさようならWao!(モーニング娘。「抱いてHOLD ON ME」'98年)

司会者「いわゆる日本語ラップのライミングとは違うかもしれませんが音楽的グルーヴがちゃんとありますね」

kenzee「ウン、当時からつんく氏はヒップホップについてよく研究されていて、モーニング娘。の2000年のシングル「I Wish」ではバラードなのにヒューマンビートボックス(ドッパッ、ドッドッパ、などと口でドラムを演奏)を取り入れるなどストリート文化に根ざしたプロデューシングを行っていた。そして99年にはジャニーズの秘蔵っ子「嵐」が登場する。Kinki Kidsが虚構の世界の住人なら嵐はストリートという(早い話が郊外。ファスト風土)リアルを体現したグループだ。デビュー曲「A・RA・SHI」を聴いてみよう」

司会者「典型的なチェケラッチョなJ-RAPですねえ。まだまだ世界はおわらな~いって」

kenzee「この頃はちょうど端境期にあったのだろう。J-POPの側もラップをどう扱っていいのか試行錯誤の状態だったと言えるだろう。では本職のラッパーはこのような風潮をどう見ていたのだろう。

 ①「ヨー、チェケラッチョ」等に代表されるそれ風スラング。②威嚇的に手を突き出したソレ風ポーズ&身振り……ラップとかヒップホップにあまり親しくない、そこらのフツーの人が抱いている「ラッパーぽさ」のイメージというのは、おおむね以上の二点に集約されると思います。ま、少しでもこのジャンルに関する見識があれば「今時チェケラッチョなんて言ってるラッパーいねーよ!」ということになるんですが、どーゆーわけかメディアを通じてこの手のステレオタイプが流布され、すっかり一般に浸透しきっていると。で、そういう恐ろしく無遠慮な「チェケラッチョ」の数々に出くわす度に、特に私のような「もろラップ~ヒップホップ側の人間」は非常に居心地の悪い思いをすることになる。これはロックでもなんでもそうだと思うんだけど、思い入れのある何かの「記号化」にはやはりことさら敏感になってしまうのが人情というものでしょう。(ライムスター宇多丸の「マブ論」BUBUKA2000年10月掲載)

 確かにこの頃から2000年ぐらいまではYOだのHAだの言いながら手を突き出したりしてればラップの記号足りえた。ただ、宇多丸氏に反論させていただくならそのように「ラップの記号化」を推し進めたのはアイドル、アーティスト側ではなくて資本の側の戦略だったということ。ところが2003年ごろからJ-RAP界に不思議な現象が起こり始める。「与えられたものをこなしてナンボ」のアイドル商売のジャニーズタレントが本格的な日本語ラップを自作自演し始めるのだ。その急先鋒は嵐の桜井翔だ。桜井翔こそが虚構の世界の中で「リアル」を叫び続けた男だったのかも知れない。次回は桜井翔からKAT-TUNの田中聖に受け継がれたジャニーズ・ラップの想像力について考えてみよう。それからキックザカンクルーの話してゼロ年代後半まで行こう」

司会者「ナゲ~YO~」

|
|

« 日本語ラップと自分探しその2 | トップページ | ココログガイドとか津村とか嵐とか(日本語ラップと自分探し4) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/185233/27558914

この記事へのトラックバック一覧です: 日本語ラップと自分探しその3:

« 日本語ラップと自分探しその2 | トップページ | ココログガイドとか津村とか嵐とか(日本語ラップと自分探し4) »