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2009年4月16日 (木)

総論って大体ツマンナイものです(J-POPと自分探しPart.7)

司会者「で、J-POP論、どう落とし前つけるんですか? 話の途中で放りだして」

kenzee「イヤ~わたしもどうにか今の仕事を続けることができましてありがたいことですワ。でねえ、J-POP論の続きなんだけど、もうそろそろ総論に入らないとマズイかなと思うんだ。で、前回の「アオゾラペダル」で言いたかったのはスガの歌詞の秀逸さでね。つまり、「自分探し」を経て、挫折した若者がどう生きるべきかという内容なんだけど。つまり、「新しい扉を開けよう! もっと大きな自分がいるはずさ!」とミスチルなどが相変わらず時代錯誤な風呂敷を拡げまくってる状況を尻目に「過去を折りこんだうえで現実的な未来をデザインしよう」という歌なんだよ。で、あのPVはストーリーものなんだけど原案は二宮和也によるものなのね。彼はこのPVでジャニーズPV史上初の試みに挑戦したのだ。彼はジャニのオフィシャル映像に初めて女性を、それも年頃の女性(佐藤ありさらセブンティーンのモデル)を出演させている。そしてひと夏の恋的な恋愛が描かれる。もちろん今までもジャニーズアイドルたちは恋愛の歌を歌ってきたし恋愛ドラマにも登場してきた。だが、それらは「作家の先生」たる職業作家によって与えられた役割であって彼らの虚像を脅かすものではなかった。だが、このPVはメンバー自ら原案を書き、失恋を描いている。つまり、嵐は等身大の……」

司会者「まえから疑問に思ってたんですが…」

kenzee「なにかね」

司会者「嵐のスゴさはよくわかりました。でも、この論考、J-POPの歌詞から現代の想像力を読みとるって企画でしたでしょ? 結局ゼロ年代のJ-POPの想像力は嵐に集約されるのでしょうか。嵐を取り上げることでオルタナティブは設定できたかも知れませんが本来語るべき部分が抜け落ちてません?」

kenzee「それはねえ、ボクが2002年以降のJ-POPをよく知らないからなんだよ。大体オリコン的価値観が崩壊したあと、セールス以外になにを頼りに展開していいのかわかんなくなっちゃって」

司会者「さらにトータル的な疑問になりますけど、そもそも音楽の歌詞だけを取り出して社会反映論を論じること自体ムリがあるんじゃないですか?」

kenzee「ドキ。実は宇野さんの「ゼロ年代の想像力」を読んだときの最大の違和感はそこにあったんだ。宇野さんの論は大前提として「ポップカルチャーは社会を反映・批評する」というものだ。95年問題の反映として「エヴァンゲリオン」が登場した。小泉改革以降のネオリベ状況を反映してデスノートが登場した、と。「ゼロ年代~」に登場する作品群はどれもヒット作ばかりでそこで取り上げられてるものが社会を反映している、というのは一定の説得力がある。でも、広く大衆に受け入れられた作品の内容と社会状況をそのまま接続して語るのはもともとムリがあるんだ。たとえば終戦直後にヒットした並木路子の「リンゴの唄」ってあるじゃないですか。

赤いリンゴに唇よせて だまって見ている青い空 リンゴはなんにも言わないけれどリンゴの気持ちはよくわかる リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ(作詞サトウハチロー)

えらく抽象的な歌詞のうえにマイナーメロディーなんだよ。混乱した時代にどうしてこんなヘンな唄が受け入れられたのか。こじつけるのは簡単だけどやっぱりよくわからないんだ。笠置シヅ子のような爆発的なエンターテインメントならわかる。でもリンゴの唄はわからないんだよ。日本人が大好きな恋愛も上昇志向もなにもない。内省的な歌詞だよ。だから、宇野さんの社会反映論は一見、説得力があるように見えるけど書き手の恣意的な取捨選択によって捏造されるとこがあるんだよね。とくに音楽は、歌詞のみならず、曲、編曲、演奏、歌唱、もっと言うとどこのスタジオで誰がミックスしたかでも違ってしまう。自分でやってみて気付いたんだけど社会反映論はどっか胡散臭いんだわ。ヒット曲って時々理解不能なものがある。山下達郎の「クリスマス・イブ」も不思議なんだよ。あの戦後歌謡史上最長のロングセラー作品が世に出たのは1983年、アルバム「メロディーズ」のなかの一曲としてだ。そしてバブル全盛期の89年、JRとのタイアップで大ヒットを記録する。その後、日本のクリスマスソングの定番として毎年、なんらかのタイアップとともにお茶の間に流れるようになる。昨年も自動車メーカーのCMに使われてたはずだ。ところであの曲は「ひとりきりでクリスマスを過ごす」というウカレ気分へのチャチャ入れソングなんだよ。「クリスマスで恋人たちが結ばれてハッピー」とかじゃないんだよ。さらに不思議なのはバブル絶頂期に聴いても未曾有の社会不安の2008年に聴いても違和感がないんだ。ユーミンさんとか稲垣潤一とかだと明らかに違和感があるんだけど。なんでだろう。歌謡曲ってホンット、奥が深いよ」

司会者「クリスマス・イブはメロディーも地味ですしねえ」

kenzee「達郎お得意のハイトーンを一切使わない曲なんだ。ヒットってなんなんだろうねえ。まあ「自分探しとJ-POP論」結論としては「ムリクリ社会反映論してみましたがやっぱムリありました」ってトコかな。よく宇野さんへの批判で、各論は結構面白いのに最後は「友達からはじめよう」かよ、ガックシ、っていう人がいるけど評論て各論やってるときが一番楽しいんであって、総論て大体つまんないもんなんだよ。未完の状態が一番美しいんだよ」

司会者「プ、最後グダグダになってる言い訳してるし」

kenzee「これやっててひとつ歌謡論でテーマがでてきてさ。「いつから歌謡曲は反抗しなくなったのか」ってことで。かつてフォークかロックって社会に反抗、あるいは異議申し立てしてたじゃん。岡林信康とか吉田拓郎とか。頭脳警察とか。あとスゴイいかがわしいものでもあったじゃないですか。青江三奈とか。いつから歌謡曲は反社会的要素を失ったのか。とくにラップなんて異議を申し立てる音楽なのに誰もそういうこといわないね。コレ、なんかヒントがあるような気がするんだ」

司会者「昔は歌謡曲が担うものが多かったんじゃないですか? 一部の演歌とか初期の山口百恵とかあんまりおおぴらに歌っちゃいけないものだったわけじゃないですか。「網走番外地」とか反社会的なヤツとか。関西フォークの社会への異議申し立てとか。そういうのって今、ロスジェネ論壇が担ってるんじゃないかなあ。あと、ピンクレディー以降のアイドル歌手も「性欲」って要素と不可分だったわけでしょ? その部分は今、グラビアアイドルとかAVとかが担ってるんじゃないかな? そうすると今の歌謡曲の役割って純粋に音楽的な部分だけだと思うんですよ」

kenzee「最近、20歳の人からメールをいただいてですね。まあ、J-POP論面白いからもっとやってって内容だったんだけど。オレ凄く不思議な気がしたのね。だって今までさんざん話してきたJ-POPってもう10年以上昔の話ばっかりでしょ? 20歳の人にとっては浜崎だの椎名林檎だのって物心つく前のヒットだよ。どこが面白かったんだろう。で、こんな返信を差し上げたワケさ。

kenzeeです。貴重な感想ありがとうございます。
実は私は2002年以降のJ-POPについてほとんど知りません。
(2001年まではCD屋で働いていた)
たまーにオリコンとか見てももうワケわからないのです。
(中略)
J-POP論は宇野常寛さんの「ゼロ年代の想像力」(早川書房)の社会反映論と速水健朗さんの「自分探しがとまらない」(ソフトバンク新書)の若者論を参考にしたものです。        どういうわけか両者ともJ-POPの歌詞には言及しなかったので「じゃあオレが」ということなんです。宇野さんや速水さんの議論になんらかのヒントを提示することができたら、また、20歳の、これから社会へでていく人へなにかヒントを与えられていたらこんな嬉しいことはないです。ですが○○さんが挙げられた今のバンド(UVERWORLD,RADWIMPS)を今までの文脈で語るのは難しいと思います。理由は「私が今までそんなバンド、知らなかった」という事実に尽きます。つまりヒットの構造が私の知ってる90年代とはまったく位相が異なるからです。10年前は、「宇多田ヒカルが売れている」といえば大抵の人がその曲を知っていました。でも今は、結構売れてるバンドでも30代のオッサンの耳に入ってこない。これはヒット曲というものがカラオケなどで共有するものではなくなったことを意味しています。あらゆる価値観が並立する現代においては(ポストモダン社会とか再帰的近代とか言いますが)ある集団においてはUVERWORLDは高く評価され、ある集団においては「ハレハレユカイ」が一位だったりするわけです。そしてUVERWORLDの集団と涼宮ハルヒの集団とは一切意思疎通が行われない。これが「全体性の喪失」という現代の特徴的な現象なのです。今まで論じてきたコムロ、ミスチル、浜崎、椎名などは全体性を捉えることで機能してきました。ミスチルや浜崎の歌詞が社会論めいてくるのは必然だったのです。これからJ-POPは大衆に奉仕する歌謡ではなくなってくるのではないかと思います。もっと趣味的な、ある共同体の中では爆発的な人気を得るが、別の共同体では名前も知らない、というような方向に先鋭化していくのではないかと思います。私はこれらの論考で「自分探しはよくないよ」とメッセージしていたのではありません。そもそも「自分とはなにか」「自分はなにをすべきか」という問いは哲学の根源的な思考で20世紀文学の思想的支柱であった実存主義などは「自分探し文学」であったともいえます。だが、この自分探しの価値観は、資本の側が若者から労働を搾取する、という副作用も生みました(小泉改革と改正派遣法)。ナンデそうなるの?ってことを考えて書いてみたのです。この、「理想が結果的に悪い状況を生む」という現象についての研究のことを社会学といいます。たとえば人民のための社会を作ろう→フランス革命→結果的に恐怖政治へと帰結。もっとも民主的といわれた憲法を有したといわれるワイマール体制→ナチスの独裁へと帰結。といった具合に。このメカニズムの解明を目指すのが社会学と呼ばれるものです。というワケであとJ-POP論はPurfume論ぐらいで終わると思いますがひとつヨロシクお願いします。むしろ私は今の20歳のひとが「ドツボにはまってる上の世代」をどう見てるのか興味ありますね。

こんなんです。これからPerfume論やって一応J-POP論終わりになりますけど、ゼロ年代の歌謡を考えるときに重要なのは「最早、オルタナティブという概念は成立しない」ってことかな。もともとロックだのフォークだのいったサブカルチャーってザ・歌謡曲というメインカルチャーが存在したからこそ対抗文化として機能したのだ。ところがそんな仮想敵が存在しない現代のポストモダン状況においてJ-POPは不特定の大衆へのメッセージを失ったんだね。ゼロ年代のiPodと配信の時代がなにをもたらしたかというと、音楽とアイデンティティが結びつかなくなったってことだな。その昔、ロックを聴く、という行為はそれだけで社会への反抗のメッセージだったんだよ。個人の思想信条と音楽を聴く、という行為は密接に結びついていた。つまり、フリッパーズ・ギターを聴いて、ボーダーシャツを着て、アニエスbのベレー帽を被って、レコ屋を巡るという行為。これらはひとつの思想信条であって全部結びついてるのね。そして彼のCD棚にはスチャダラはあってもいいけどジュンスカはあってはならないわけです。このように音楽はアイデンティティの表明の手段であった。モーニング娘。のことを考えてみよう。モー娘を支持する、という行為はひとつの思想信条の表明である。なぜならモー娘の音楽は単に音楽として機能しているのではなく、その背景にさまざまな「物語」が織り込まれているわけですよ。テレビ番組のオーディション企画の負け組み集団の敗者復活戦という。モー娘の時代、90年代終盤とは山一や拓銀など大手金融機関がバタバタ破綻するなど日本経済自体、負け戦感が漂ってた時代だ。そういう時代とモー娘の「イマイチな女の子たちが力ワザで勝ちあがる」というストーリーはピッタリとリンクしていた。99年のヒット「LOVEマシーン」の「ニッポンの未来はウォウウォウ」という歌詞は端的に「モー娘とはなんであるか」を表現した秀逸なフレーズであった。モー娘のユーザーは単に音楽を消費していたのではなく、彼女らにまつわるストーリー、ドラマを読み込んで消費していたのだ」

司会者「オレ、ラッパーなのにモー娘ファン。どう、個性的でしょ?」という言い分はひとつのアイデンティティの表明になりうるってことですね」

kenzee「ウン、ラッパーという職業に期待される「物語」とモー娘の「物語」は一般には異質なもの、相容れないものと理解されているからだ。で、再三いうようにゼロ年代はこの「物語」が機能しなくなるのですよ。そうすっとどうなるかというと、「電車のなかで爆音でモー娘聴く男」→これはキモい。フツーこう解釈されるだろう。だが、「電車で爆音でPerfume聴く男」→Perfumeという選択そのものはキモいとされない」

司会者「ウ~ン。恣意的な気もしますが」

kenzee「ナゼ、前者はストレートにキモいのに後者はさほどキモいと感じられないのか。それは我々が「モー娘」という言葉から様々な「物語」を読み込んで解釈するためなのです。つまり、「プッ。コイツ「ASAYAN」とか観てるワケ? そんでそんなブサイクの集団に熱中してるんダ。どうせモテないんだろう、プゲラ」というプロセスを経て、軽蔑へと至る。だが、後者は純粋にPerfumeのサウンドに熱中しているように見える。だから、即キモい、という判断には至らないんだ。勿論、Perfumeにも「物語」はある。SPEEDに憧れ、広島アクターズスクールで結成された女の子3人。不遇の時代を経てブレイク、という。だがこの「物語」とPerfumeの音楽は全然結びついていないんだ。つまり、「Perfumeの音楽を支持することがそのまま彼女らの「物語」を支持することにはならない」ということ。モー娘と違って、Perfumeの音楽は「若い女の子が夢を掴む」というストーリーを背負ってないのね。純粋にダンスミュージックとして機能する。勿論、モー娘にもダンスチューンはある。だが、「ダンスミュージックとして機能する」と「ダンスチューンもある」では大きな違いがある」

司会者「モー娘っていろんな要素担ってたと思うんですよ。「ブサイクがスターダムを駆け上がる」というドラマも背負ってたし、性的な面も担ってたと思います。特に初期の楽曲は意図的にそういう面を強調した曲が多かったですね」

kenzee「でもPerfumeを性的な面で消費するユーザーはいないだろう。純粋に音楽として消費されていると思う。ていうか音楽としてしか機能していない。これが再帰的近代というヤツの特徴でね。「LOVEマシーン」は街歩いてたら勝手に聴こえてきた。でも、「ポリリズム」はYou Tubeなりなんなりで自分で能動的にアクセスしないとなかなか聴こえてこないんだ。この事実がゼロ年代の歌謡のあり方を象徴してると思うんだ」

司会者「という感じでPerfume論続きます」

kenzee「藤田さん見てる~?」

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