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コムロと渋谷系とわたし(自分探しとJ-POPPart.8)

kenzee「速水さん相変わらずクダラナイこと言ってるなあ

司会者「ディスコ葬は当然サタデーナイト・フィーバーの曲とかじゃなくてユーロとかかけるんでしょ?」

kenzee「オレはさしずめ渋谷系葬かな」

司会者「プッ。カフェとかでやるワケ? フリッパーズとかカジヒデキとかかけんの?」

kenzee教授「スチャダラまではセーフなのか?」

司会者「脱線3とかは違うんでしょうね」

kenzee「こう、セルジュ・ゲンスブールとかボリス・ヴィアンとか流れてるような」

司会者「リアルにありそうですよソレ」

kenzee教授「暴力温泉芸者はフツーにアリなんだろ?」

司会者「イヤな葬儀だなあ」

kenzee教授「みんなベレー帽とかボーダーシャツとか着てくるのかなあ」

kenzee「オレ、10年ぐらい昔カラオケとか行くとねえ、♪オレは奈良生まれ渋谷系育ち、ショボそうなヤツは大体友達、ヒョロそうなヤツと大体同じ、とか歌ってたよ」

司会者「ネロリーズ奈良のCD屋でバイトしてたんでしょ?」

kenzee「ああ、90年代初頭よ! そういやなんで速水さん渋谷系の話しないんだろ? 速水さんの歌謡史って「ザ・ベストテン」的な80年代から急にコムロ帝国の90年代に移行しちゃうんだよなあ。確かにそれは間違ってないんだが、それでいくと98年問題を語るのが難しくなる。速水さんの捉えかたはこうだ。

 さて、作者や演奏者の特権が消滅した「工学的」作曲メソッドで90年代中盤の音楽市場を制した小室哲哉だが、1998年頃を境に凋落の一途を辿る。その原因は、宇多田ヒカルやMisiaといった「本物志向」のR&B色の強い歌手たちの登場によるものだったと考えられる。つまり、人々はあまりに「工学的」になったポップミュージックに背を向けたのだ。しかし、それは一時的な揺り戻しにすぎない。「本物志向」の歌手が飽和したあとにでてきたのがPerfumeのような「工学的」なアイドルであり、さらにはアイマスMADや初音ミクというインターネット登場後の「作者や演奏者の特権が消滅した」世界を象徴する記号たちであった。(速水健朗「90年代の坂本龍一またはGEISHA GIRLSは如何に戦いそして敗れたのか」ユリイカ4月号)

 だが、90年代をコムロがひとりで牽引していたワケではない。コムロが本格的にプロデュース業を始めたのは1993年、篠原涼子やtrfのヒットを契機に本格化する。そんなメインストリームの動きに対して、J-POPのオルタナティブの動きも活発化していた。要は「渋谷系」の登場だ。93年7月に元フリッパーズギターの小沢健二が「天気読み」でソロデビューを果たす。9月には同じく元フリッパーズの小山田圭吾がコーネリアスとしてデビューする。この年の3月、ピチカートファイヴがスマッシュヒット「Sweet Soul Revue」含むアルバム「Bossanova2001」を発表する。6月にはオリジナル・ラヴ、サードアルバム「EYES」がオリコン一位になる。モチロンオリジナルラヴを除いてセールス的には彼らはコムロ帝国には比べるべくもない。だが、コムロが地方のファスト風土カラオケ需要に戦略的なマーケティングを行ったのに対し、彼らは都市のクラブ文化を背景に自然発生的に需要を喚起してきた、という経緯がある。モチロン、単に自然発生、というワケではなく再開発前の下北カルチャーとかセゾン文化とか、バンドバブル直後でまだレコード会社に内部留保があったとかいろんな要素が絡んでのアレだが、オルタナティブ勢力として機能し始めていた。速水さんはコムロとは作家としてニコマスPとかに近い、と新しい視点で論じている。

 カラオケボックスの普及、音楽製作環境のコンピュータ化という90年代前半の音楽のシーンが、特権的な作者を消滅させるような作用をもたらした。そうした90年代だったからこそ、自ら「僕は音楽をマーケティング的に作っている」と標榜する匿名的な作家として活動した小室哲哉を全面に押し出したのだ。(前掲書)

kenzee「コムロなら①匿名的なサウンド②戦略的なマーケティング、で定義できるだろう。では渋谷系は? それでは「音楽誌が書かないJ-POP批評25フリッパーズギターと渋谷系の時代」から社会学者南田勝也さんの原稿から引用してみよう。

 さらにいうと、音楽ジャンルとしての渋谷系には、もっとはっきりとした輪郭が与えられていたはずだ。その特徴とされてたものを便宜的に整理すると、おおよそ次のようになる。前記した(流行の最先端地区の都会的センス)渋谷発の流行現象を①として、②音楽的素養の深さと音の断片への偏執狂的こだわり、③フライヤーやジャケットのアートワークに凝る姿勢、④ポップなメロディーとキャッチーなフレーズ、⑤過去の作品や同時代の洋楽から引用したサウンド、⑥価値の重さや意味の深さへのシニカルな態度、などである。これらの特徴があいまって「音楽の膨大な情報をデータベースとして処理し、ゲームを楽しむ感覚で楽曲を次々と生み出していく」渋谷系のアーティスト像は造形されていった。(南田勝也「渋谷系とは何だったのか」)

司会者「ハッ! もしやコレって……」

kenzee「そう、例の動物化するナントカだ。ビートルズを神として崇めるのではなく、「ビートルズ」という記号をデータベースとして組み込む。あらゆる価値観をベタに信じるのではなくネタとして捉え、常にオイシイ立ち位置を求めて情報の海を泳ぎ続ける。これが渋谷系」

司会者「なんでそんなに得意気なんですか」

kenzee「ま、東さん得意の「ジャンルの越境」「全体性」をサラっと補完してやったゼ、ぐらいの?」

司会者「(ていうか必死ジャン)」

kenzee「速水さんがユリイカの原稿で「WOW WAR TONIGHT」を引用している。この部分だ。

 温泉でも行こうなんていつも話してる 落ち着いたら仲間で行こうなんて でも 全然暇にならずに時代が追いかけてくる(WOW WAR TONIGHT)

この部分はコムロのベタさを象徴している。だが、「自分探しがとまらない」の著者、速水さんはナゼ、次の箇所を引用しなかったのか。

 自分で動きださなきゃ なにも起こらない夜に なにかを叫んで 自分を壊せ(WOW WAR TONIGHT)

こんなメッセージを含んだ唄が200万枚を越えるセールスを記録したという事実にもうちょっと触れてもいいだろう。こんな陳腐なフレーズがホントにメッセージとして機能していたのだ。だが、上記のようなメッセージ性はコムロ特有ものではなくて当時のJ-POP全般の空気としてあったものだ。オウムと地震の95年に発表された楽曲という点も見逃せないだろう。だからこそオルタナティブとしての渋谷系のシニカルさもそれなりの意味を帯びる。1991年、フリッパーズギターラストアルバム「ヘッド博士の世界塔」発売時のロッキンオンジャパン誌上でのインタビューで、インタビュアーで当時の編集長でもあった山崎洋一郎氏は二人にこう感想を述べている。

山崎「例えば僕がこの曲で感じたのは…まあアルバム全体からでもあるんだけども…要するにロックとかいったっていつまでもブルース的姿勢の延長線上で「人生はツライけどでも俺はこれを見つけたぜ」的なものが色々と相変わらず並んでいるだけじゃない? そういう姿勢とは全く離れたところに立ってみようよ、という解放に向けてのすごく誠実なメッセージだったんだけども」

小山田「最終的にポジティブなものがないと、それはダメですよ」

小沢「そう、その辺で僕らはすごく誤解されている。最終的にそういう救いのあるものは必要なのよ。でもそれをただやればいいっていうんじゃなくて、それには手続きをちゃんとやんなくちゃいけないんですよ」(ロッキンオンジャパン1991年7月号)

もはや神も物語もない社会において相対的に価値を並べる、そんな手続きを経て、「意味」へとたどり着く。ロキノン2万字インタビュー(94年4月号)によれば小沢さんは浅田チルドレンだったようだ。これほどシニカルだった小沢さんが「オザケン」となりポップス歌手となるのに2年とかからなかった。小沢さんは「成熟」したのだと思ったよ。小沢さんの歌詞は89年のフリッパーズのデビューアルバムから一貫して「成長」することがテーマだ。いかに青春と、イノセントと訣別するか。現在、父である小澤俊夫責任編集「子どもと昔話」連載中の小説「うさぎ!」は高度に近代化が達成された現代社会を啓発する内容だ。なにしろデビュー作で「RED FLAG」をカヴァーしていた小沢さんだ。一貫した姿勢だといえるだろう」

司会者「問題は速水さんは98年ごろにR&B歌手の登場でコムロ人気が凋落したと言ってるが、渋谷系も一緒に落ちた、ってことでしょ?」

kenzee「ウン、コムロと渋谷系はサウンドは全然違うけど方法論としては同じなのだね。速水さんは作者や演奏者の特権性が消滅した時代にコムロが浮上したのは必然だと論じた。渋谷系も膨大な音楽の歴史をデータベースとして捉え、好む物語を生成していった。例えば、コーネリアスデビューアルバム「First Question Award」は70年代のソウルミュージックや90年代イギリスのアシッドジャズなどの引用が見られた。では、作者の小山田氏がブラックミュージック信者なのかといえばそうではない。現在のコーネリアスの音楽から黒人音楽の影響を見るのは難しい。彼にとってブラックミュージックはデータベースなのだった」

司会者「渋谷系もまた「動物化」してたんですね。でもなんでコムロと渋谷系、メインストリームとオルタナティブの関係にあったわけですけど。90年代。なんで98年ごろ一緒に落ちていったんでしょう? そして宇多田やMisiaと入れ替わったんでしょう? R&Bだってサンプリングミュージックという点でサウンド面では渋谷系と変わんないじゃないですか。ある程度音楽的教養が要求される点でも」

kenzee「それはね、時代がどうとか環境がどうとかいう問題じゃなくてもっとポップミュージックの根源的な問題なんだ。速水さんの論はそこをスッポリと抜かしてしまっている。つまり、音楽には二種類しかないということさ」

司会者「ははあ。ダンスチューンとバラードってことですか?」

kenzee「違うね。そんな表面的なことではない。つまり、ポップミュージックには「童貞ミュージック」と「ヤリチンミュージック」の二つしかないってことさ! 常にこの二つが入れ替わりながら音楽は前進し、進化しているのだ」

司会者「ハッ! (速水さんの呆れる顔が目に浮かぶようだ!)」(次回につづく)

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コムロと渋谷系とわたし(自分探しとJ-POPPart.8) いつも、どうもー。僕が渋谷系をスルーしがちというのは、自分でもあまり気が付いてませんでした。僕は大学時代は下北沢に住んでいて、地元zooの瀧見憲司のラブパレードに行ったり、LB祭りの面々が行きつけにしていた居酒屋... [続きを読む]

受信: 2009年5月18日 (月) 11時50分

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