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kenzeeさん、アンタァ……Part.5ぐらい?(佐々木寛太郎さんへの回答)

司会者「えーと前のエントリーで引用させていただいた(「東浩紀のゼロアカ道場伝説の文学フリマ決戦」収録の「Xamoschi」掲載の佐々木寛太郎「日本のヒップホップ「現場」とジャンル論の関係から)佐々木さんから反論がありました」

kenzee「……」

司会者「ところでアナタ、そもそもこの佐々木論文で紹介されてるイアン・コンドリーの「ヒップホップ・ジャパン」読んだんですか?」

kenzee「モチロン、読んでないヨ」

司会者「なーんで、読みもせんとチョッカイだすかねえ、アナタは。円城さんときにもそんなことがあったでしょ?」

kenzee「でもオレ、このコンドリーとかいう外人の記事、昔BLASTで読んだような希ガス。でねえ、いろんなクラブとかフィールドワークしてたみたいで。で、ウサンくさいなあ、と思った記憶があるんだよね」

司会者「でも、ソレ最初のほうの囲み記事でしょ? 一応単著がでてるんだから読めよ!」

kenzee「で、佐々木さんの反論を整理してみよう。

①(「現場」に「批評」はない、というワタシの批判に対し)ヒップホップは他の表現形態と比べて消費者と表現者が反転しやすい環境にある。つまり、受容者が次の日には批評的な表現者になりうる、ということ。

②また、そういった批評を判断するのが「現場」であり、また、判断に必要な教養を供給する場としてクラブやレコ屋といった現場が機能していた。

③そもそも海外文化のヒップホップを日本に輸入し、翻訳するという行為自体にすでに「アメリカのヒップホップ」への批評がある。この時点ですべてのプレイヤーは批評家である。そのようなシーンに対して整理し、マッピングを施すことにどれほどの意味があるのか。

④「批評」を行う者が、「歴史」を踏まえていなければならないというルールはない。文化・ゲームの流れを変えることができれば批評たりうる。

司会者「現場に批評なんかあるカイ、というアナタの乱暴な批判に対し、真摯に回答いただいてると思うんですがねえ」

kenzee「フ~ン(流し目)」

司会者「まさか文章の流れ上、思いつきで書いた批判がこんなマジメにリアクションされると思ってなくてビクビクってトコでしょう? だが佐々木さんはマジだぜ。いつものようにコントで逃げようったってそうはいかないよ!」

kenzee「あのね、コレは佐々木さんのみならず、たとえばゼロアカ参加者にもに言えることなんだけど、みんな視野が狭いんだよ」

司会者「(ハッハ~ン、逆ギレに逃げる系?)」

kenzee「たとえば「最終批評神話」における峰尾俊彦さんのニコマス論とか。で、ニコマスのことはよくわかった。わかむらPさんの作品も見た。でね、ここまで追い込んでいながらなんでヒップホップを始めとするサンプリングミュージックとの類似性について論じないんだろう。ニコマス動画はサンプリングミュージックとよく似た歴史を歩んでいるように思うんだ。著作権侵害という違法性も含めてね。峰尾さんはニコマスに作家性は宿るか、ということを問題にしてるみたいだけどサンプリングミュージックの世界では元の著作権者に許諾を得ることで法律的に作家性をゲットしたりしている。また「WAKAMURA RECYCLE」という表記が示すようにリサイクルという概念がとてもヒップホップ的だよね。ニコマス作家とはつまりリミキサーだと思うんだ。例えば勝手に安室のリミックスの12インチをインディーズでだしてたダブマスターXのような人のキャリアをたどることでニコマスの今後もみえてくるかも知れない。機材やソフトが進化すればニコマスも進化するだろう。ニコマス界のDJプレミアのような人物も現れるかも知れない。ただ、決定的な違いはヒップホップにおいてはいかにありもののリサイクルアートであろうとも「One For The Money,Two For The Show」(まずは金だ)であるのに対し、ニコマスは視聴者からのプロップスが最大のモチベーションになりそうなところだろう。そしてそれは国、時代、人種の違いとしての表れとなる」

司会者「峰尾さんはカンケーないじゃん。佐々木さん問題は?」

kenzee「佐々木さんはヒップホップ文化について述べている。だがオレは「歌謡史におけるヒップホップ」という文脈で論じている。この時点ですれ違いが起こってしまうのはしょうがないんだよね。たとえば③なんだけど戦後歌謡史は輸入文化をいかに翻訳するかの歴史であったといえる。ヒップホップも例外ではない。この点については大滝詠一が「分母分子論」のなかで詳しく述べている。いわく、歌謡曲とは常に洋楽という分母の上に翻訳モノとしての日本的叙情という分子が乗っかったときに初めて成立する。フランク・シナトラという分母ありきでフランク永井は成立している。だが、やがて分母は小さくなってゆく。いわゆる「演歌」が登場したのは60年代に入ってからだけど演歌には洋楽という分母がほとんどない音楽なのだ。これはロックにも当てはまる。はっぴいえんどはバッファロー・スプリングフィールド、バンドといった分母を携え、日本の叙情へと翻訳した(風街ろまん)。CAROLも初期ビートルズという分母を持ちつつ日本のツッパリ文化という分子と接続したのだ。だが、やがてユーミンさんとか甲斐バンドとかツイストとかまでくると洋楽分母が減少していく。たぶん、ヒップホップもさんぴん世代までは海外との参照性、同時代性を意識していた。つまり分母を持っていた。でも、ゼロ年代、ケツメイシやKREVA、リップスライムなどの時代には分母は失われていった。アンダーグラウンドシーンにおいてもMSCや韻踏合組合などのサウンドやリリックに最早、海外との参照性はみられない。確かに、さんぴん世代までは佐々木さんの言うように「アメリカのヒップホップの批評」でありえたかも知れないが、その分母が守られていたのはせいぜい2000年までだ。むしろ、洋楽分母を失って久しい現代のドメスティックなヒップホップを論じるほうが今日的な批評となりえたかも知れない」

司会者「Perfumeってああ見えて海外との同時代性皆無ってとこが逆にコワイんですよね。あれほど特徴的なサウンドなのに「~の日本版」みたいに名指しできる海外のグループがいない」

kenzee「④の問題だけど、パフ・ダディがいみじくも言ってたのは「歴史をつくる者にだけルールを破ることが許される」と。現代の読者とコミュニケーションがとれれば歴史なんか知らなくても批評になるんだよ。今回の群像新人賞評論優秀作・伊東祐吏「批評論事始」はあざといまでにこの問題について思考した佳作だ。なにしろこんな人を食ったイントロで始まるのだ。

一、私が批評をしてみようと思ったわけ。

 論壇の人々のすなる批評というものを、私もしてみむとてするなり。しかし私は批評が何かを知らない。それどころか、有名な批評家たちが書いたものをほとんど読んだことがない。そんな私に批評ができるのか? むろん、できるのである。(伊東祐吏「批評論事始」群像6月号)

そしてこんな加藤典洋の文章を引用して「批評ってなに?」という佐々木さんや藤田さんが問題設定しているテーマについて答えてみせる。

批評が何か、そんなことは知らない。しかしお前にとっては、批評とは、本を一冊も読んでいなくても百冊読んだ相手とサシの勝負ができる、そういうゲームだ。(加藤典洋「僕が批評家になったわけ」)

そして伊東氏は知識ではなく、自身の感覚でもって、批評の古典中の古典、小林秀雄の「本居宣長」を読み解いていくのだ。2009年に「本居宣長」を読むためには確かにこんなアクロバティックな方法が有効だろう。「批評論事始」はストリート批評のひとつの成功例かもしれない」

司会者「しかし、まさか絲山秋子にあざといとか言われるとはね! アナタの「沖で待つ」も相当ですよ!」

kenzee「②の問題だけど。現場(クラブ・レコ屋)の人的ネットワークによって教養・価値観が養われるという機能を果たしていたというトコね。オレも必死でムロのミックステープとか買い漁ってたクチだから人のこと言えたアレではないんだが。ムロっていっつも「ホコリの被ったファンク」みたいなこと言うけど実際には中身は80年代のブラコンが多かった。キラキラした曲ばっか入ってたワ。ホンマ百円ぐらいで転がってそうな曲ばっかり入ってるんだけどムロが繋ぐと輝きだすんだな、コレが。確かにメディアとしての役割は果たしてたかもなあ。でも批評を生成するだけの力、場として機能してたかはナゾだなあ。オレが藤田さんの言う「2ちゃんねるの批評の生成力」という論にどうしても馴染めないのは、批評というものが…まあ表現一般にいえることなのだが、文学、批評、音楽。それらは個人的なイデアから出発するものだ、という定義があるからなんだよなあ、オレのなかで。だから音楽でも集団的なセッションでワーッといくタイプの……Pファンクとか韓国のサムルノリとかアフリカンドラムとかダメなんだよ。要は「計画性のない表現」がダメなんだと思う。ヒップホップでもフリースタイル合戦とかダメなの。ちゃんと家でリリック書いてきて、リハーサルしてっていう音楽じゃないと楽しめない。だから同様にジャズもダメなの」

司会者「エ! それ趣味の話じゃん!」

kenzee「で、ウチの文脈ってのが「歌謡史におけるヒップホップ」なので残念ながらグラフィティ、ブレイクダンスについてはバッサリ切らざるを得なかった。オレが佐々木さんの論文で違和感を持ったのは……佐々木さん自身気付いてると思うけど、コンドリーの本に引っ張られちゃったのかもしれないけど現代のヒップホップ論とするにはチト古い感じがする。冒頭で、今の日本のヒップホップを取り巻く環境についてかなり正確に把握してるのに本論に入ると10年ぐらい昔の感覚になる。今の問題は「現場」が横に繋がらなくなった、「現場」という全体性がなくなったってことだと思う。

ライムスター宇多丸「95年だったら「とりあえず現場行けよ」で済んだんだよ。でも今は現場っつっても東京にもいろんなクルーがいて、みんなそれぞれで盛り上がってるし。そんな状況で「現場行け」って言うことにどんだけ意味あるかっていう…(映画「DEAD NOISE」2008年)

最大の違和感はね、「今、現場なんてあんのか?」っていうことかな。クラブは潰れる、レコ屋も潰れる。レコ屋のサイトは試聴し放題で便利だけどそれは「現場」なのか? ヘイ、批評の現場ってドコにあるんだい?」

司会者「それは佐々木さんに聞いてもしょうがないですよ」

kenzee「でも佐々木さんの評論は本当に興味深く読ませていただきましたよ。コレでSerato Scratchって言葉初めて知りました」

司会者「そんなトコで感謝かよ!」

kenzee「批評ってなんだろうなあ。最近読んでガツーンとヤラレたのは大澤信亮さんの「柄谷行人論」なんだけど、あの人は全部自分の問題として引き受けていくんだよね。「ネタ的に、今コレがオイシイ!」とか戦略みたいなのがあの人にはなんもナシ。いかに柄谷と訣別していったかというドキュメントなのよ。実はオレ、柄谷行人って「日本近代文学の起源」一冊しか読んでないんだけど」

司会者「オイ!」

kenzee「でもこれは柄谷がどうとかじゃなくて大澤さんの心のドキュメントなんだな。批評ってなに?ってことだと当事者性ってポイントはこれからは必要かもしれない。ゼロアカ同人誌見てても自分語りする人が全然いないんでビックリだったよ。もっと自分探しして自分語りすればいいのに。批評って対象にかこつけた自分トークだもん。「ニコマスの現在」よりニコマスに夢中な峰尾さんの内面、のほうがじつはエンターテイメントだっていう。批評ってそういう恥ずかしいものだとボクは思うんですよ」

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コメント

大澤信亮氏の「柄谷行人論」は、
自身が柄谷氏の発言を直接聴かなくなって
からについては、NAM、文学の終り等に
関してステロタイプな記述だったと
思います。

投稿: makorin | 2009年5月31日 (日) 18時13分

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