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ナゼ我々はMCUをダサイと感じてしまうのか(佐々木寛太郎さんへの返答Part.2)

kenzee「イアン・コンドリーの「ヒップホップ・ジャパン」読みました」

司会者「エ? いつものようにクチだけでスルーするかと思われていたのに!」

kenzee「これは力作ですよ! 2800円の価値はあります。日本のヒップホップを扱った書物は過去にもイロイロあった。だが、ほとんどはインタビューとカタログでお茶を濁すようなものだった。悪名高き後藤明夫の「Jラップ以前」に始まり、陣野俊史さんのヒップホップ・ジャパンとか。BLAST誌はそういう意味でジャーナリズムの立場から日本のシーンを捉えた書物としてはかなりハイレベルだったんだと廃刊してから気付きます。そしてアカデミズムの立場から切り込んだのがこのイアン・コンドリーの大著だ」

司会者「全然評価変わっとるガナ」

kenzee「インタビューとかナシで論考だけでこの分厚さはスゴイです。そしてオレはどうやらイアンの言う「現場」の意味を誤解していたようだ。彼の言う「現場」とは単にクラブやレコーディング・スタジオのことではなくてもっと多面的なものだったんだ。80年代の原宿・ホコ天のブレイク・ダンサーに始まり、クラブ、レコード会社、雑誌を始めとするメディア、予備軍としてのファン、そしてクラバーと呼ばれる若者たちの社会的地位(イアンが実際に会った人々のほとんどがフリーターであり、そうでなければ学生だったという)まで含めたヒップホップを取り巻く社会全体のことだったんだ。モチロン現在の日本の音楽シーン全体までそれは視野に入っている。たとえばツタヤの会員カードはコンビニとかファミレスでポイントが付くのだが、そうやって集められた情報は他のメディアに売られる。そういう環境が音楽シーン、ひいてはヒップホップにどう影響を与えているかまで論じるのだ」

司会者「スゲエ。アメリカのエライ文化人類学者なのに、日本のボンクラ大学生のような視点までも兼ね備えたニクイ男だぜ!」

kenzee「そして現場の可能性を示唆しながらも、その閉鎖性にも言及していく。イアンは日本のサブカルチャーを理解する手がかりとして宮台真司のオタク論を参考にする。

 宮台は、島宇宙の特徴として、同じジャーゴン、同じ活動空間、同じ知識、同じメディアの使用を挙げている。ヒップホップ・ファンにあてはめるならば、私たちはこの現象をアメリカのヒップホップ・スラングの使用に見ることができるだろう。(イアン・コンドリー「ヒップホップ・ジャパン」)

そしてイアンは「真にヒップホップに関与したいなら、現場で演奏し、スキルを示し、生産者とならなければならない」と訴える」

司会者「でも、宮台さんや宇野さんなら、「島宇宙を乗り越えて人と人が繋がっていくのが批評だ」とかいいそうです。ただ、生産者になればいいという話ではないのでは」

kenzee「そこはさすがアメリカ人で、その閉鎖性を乗り越える方法として「商業的成功」を挙げる。「第7章、メイクマネー、日本式」では日本のレコード業界の複雑にしてドンブリ勘定な側面を指摘し、ヒップホップと親和することの難しさを述べている。イヤーとにかく面白かったです! ボクもいろんなJ-POP評論読んできたけどなかなかここまでの力作に出会うことはないよ! 大体日本のポップミュージック関連の書籍ってカタログかインタビューかのどっちかなんだよ。論考ってのがないんだな。もっとも気になったのは日本の若者文化がアンビバレンツな背景を背負ってるっていうトコね。これからこの国はアニメ、マンガ、音楽などのコンテンツ産業で輸出成長しようという計画があるよね。もう製造業で雇用も創出できないし。だからこそ麻生を始め、政府は「オタク」に新しい評価を与えている。だが、その担い手である若者、つまりクラバーやオタクたちのほとんどは低賃金の仕事に甘んじている。なんとも皮肉な状況なのだ。こういった日本の若者を覆う状況とキングギドラの歌詞などの反映とか論じてみせる。宇野さんみたいな外人だね」

司会者「で、佐々木さんのレスなのですが。MSCは批評的な表現ではないのかって」

kenzee「ああ…N.W.Aみたいだよねえ。ていうかこの文脈で佐々木さんて言うと佐々木士郎(a.k.aライムスター宇多丸)かと思うよな」

司会者「そんだけ!?」

kenzee「ただ、MSCの描く新宿も、フィクションなんじゃないかって思うんだよ。よく知らないけど。おなじフィクションならDABOのほうが好きかなーって」

司会者「じゃあ、我々はナゼ、MCUをダサイと感じてしまうのか問題について。聴いてみましょうか。MCU featuring浜崎貴司「幸せであるように」

kenzee「ダサイ。なぜ我々はMCUをダサイと感じるのか。例のZEEBRA自伝においてもZEEBRAは苦言を呈している。

 MCUはオレの想像から外れすぎちゃったんで、ちょっとよくわからない。「悪名」のMCUはおもしろいなと思ってたし、それなりにラップ、上手いなと思った。でも気がついたら「オレのルーツはJ-POPだ」みたいになってた。ちょっと狐につままれた気がする。実は双子の別のヤツがでてきたんじゃないかなっていうくらい、わからない。(ZEEBRA自伝)

 それでは作品に批評性が介入するとはどういうときなのか。それは歴史を読み替えたときに発生するのではないかと思うのだ。たとえばタランティーノの映画を観て、我々は純粋に映画として感動しているか。否。タランティーノは今も昔も演出家としては相変わらず二流なのだ。タランティーノの決定的な功績は「映画史を読み替えた」ことにある。たとえばタランティーノは日本映画を黒澤史観でなく深作史観で読み替えた。有名な「仁義なき戦い」のみならず、かなりマイナーな三隅研二の時代劇などまで日本映画史に含めた。また、カンフー映画においてもジャッキー史観やブルース・リー史観を読み替え、ショウブラザースなどのZ級映画の魅力を指摘した。タランティーノの仕事とは70年代の世界映画史を読み替え、その読み方が先進国の多くの「オタク」と呼ばれる若者に支持されたことにつきる。東浩紀がデビュー評論、「ソルジェニーツィン試論」で試みたのもロシア文学史の読み替えであった。おそらく東氏はフツーにソルジェニーツィンみたいなパッとしない作家よりドストエフスキーのほうが好みだろう。だが、そんな趣味性を一旦、カッコにいれる作業を経てソルジェニーツィンに光を当てることで文学史の見え方がどう変わるかの実験。これを彼は批評と読んだのだ。もっと卑近な例ではナゼ、フリッパーズギターの批評性は今も強度を失わないのか。それは彼らが80年代のニューウェイヴを読み替えたことによる。従来、日本のニューウェイヴといえばYMO、ムーンライダース、プラスティックスとその一派といったところに集約されていた。だが、フリッパーズはこれらの文脈とまったく無関係に登場した。彼らはニューウェイヴ史においては完全に傍流と見なされていたポストカードやエルといったイギリスのインディーレーベル、またトットテイラーのコンパクトオーガニゼーションやポール・ウェラーのレスポンドといったアーティストが立ち上げたレーベル(商業的には大失敗)を引き合いにだし、80年代のポップ史を読み替えた。モチロンこれは彼らの趣味性を反映したものだったが、戦略もあったに違いない。その証拠にフリッパーズのメンバー小沢健二はソロデビュー後、そういったフリッパーズ的記号を意識的に排し、サザンの曲のタイトルを自作につけたり、筒美京平とコラボしたりするのだ。そういったソロ活動には最早フリッパーズに見られたような戦略的に歴史を読み替えるような姿勢はない。ただ、自分のリスニング人生と戯れているだけだ。そして最早それは批評ではない」

司会者「MCUがダサく見えるのは……」

kenzee「つまり、MCUの活動(フライングキッズの浜崎、ブームの宮沢和史とのコラボ)がサブい理由は「歴史を読み替えようという意思」がまるっきり欠如しているからなんだ。MCU(オレとおない年なんだよ)ぐらいの世代の人間がフライングキッズやブームを10代の頃に好んで聴いていたのはちっとも珍しくないんだよ。単に「好きだから」じゃなんの価値もヒップホップに付与しない。なにもゲームのルールを変えたことにならないんだよ」

司会者「もしかしてkenzeeってJ-POPコラボは全部ダウトなんじゃないの?」

kenzee「いわゆるラッパーとJ-POP歌手とのコラボ。この世に無数にあるけども。そのなかでオレが「これは批評的だ」と思った一曲を紹介しよう。それは槇原敬之featuring KURO from HOMEMADE家族「ほんの少しだけ」だ。(2006年発表のアルバム「Life in Downtown」収録)おそらくこの曲は槇原がイニシアチブをとって制作された一曲だ。R&B歌手とラッパーがコラボする際、J-POPにおいてひとつのヒットパターンが完成されていた。手垢にまみれたといっていいほどのね。それはAメロをラップが担当し、Bメロで歌が登場、そしてサビで大合唱、大抵は歌に対してラップが後ろでヨーだのハーだの言うパターン。コムロのGlobeあたりから連綿と続くアレだ。こういうの大ゲサに言うとフォルマリズム(形式主義)というのさ」

司会者「とにかくこの形式にハメときゃオッケーでしょっていう」

kenzee「だが槇原はこの形式自体を疑った。この曲はまず、16ビートではない。つまりファンクミュージックではない。KUROのラップが不自然なのはこの曲がメローな8ビートで構成されているからだ。そしてまず、槇原の歌から始まる。そしてもっともコード進行がメロディアスに展開するBメロでラップが登場する。そして2コーラス目ではなんと、歌とラップがユニゾンになるのだ。つまり、どう考えても形式を壊すことを目的に作られてるとしか考えられないのだ。モチロン、槇原がラップミュージックを理解してないために生まれたトンデモ曲などではない。その証拠に2004年発表のアルバム「EXPLORER」に収録された「ハトマメ」は完全にブラックミュージックのマナーに則って作られている。そしてこの曲の間奏で槇原は達者なラップを披露しているのだ。J-POPにおけるヒップホップへの批評というテーマなら槇原作品のほうが一枚上手だと思うのだがどうか」

司会者「槇原相当R&B精通してますからねえ。アースそっくりな曲とかあるし。絶対アルバムに一曲、ブラコンの曲入ってるし」

kenzee「MCUは自分のことはおいといて、歴史を読み替えようという意思に欠けるところが決定的にダサイのだね。だが、「好き」がないとモチベーションが続かないのも事実だ」

司会者「そういえばなんでアナタこのブログ続けてるの? 一銭にもならんのに。やっぱり「書くこと」や「文学や批評について語ること」が好きなんですよね!」

kenzee「ていうか、フツーになんにも更新しなくても一日300アクセスとかいくようになるとね、もう「なんか面倒だから」とかそういう自分の意思でやめられなくなるんですよ。でね、たぶん自分の意思でやめられるものって大したものじゃないんですよ」

司会者「東浩紀って本気でエロゲーとか好きですよね」

kenzee「本気で好きだろう。でも「オレ、エロゲー超好き」だけでは編成通らないのでムリクリ現代思想とかと結び付けてるわけだ。これが批評のいいところだと思うのだが。たとえば宇野さんが心配なのは、あの人は本気で仮面ライダーが好きなのかな? オレは仮面ライダーをこよなく愛する人に仮面ライダーを論じて欲しいのだが。ケータイ小説が大好きな人にケータイ小説を論じて欲しいのだが」

司会者「アナタはホンットにJ-POPが好きですよねえ」

kenzee「ウ~ン、オレこんなに歌謡曲が好きだって自分でも気付かなかったよ。次はイアン・コンドリーの言う「現場」が果たして批評を生成しているか。2ちゃんねるで生成される批評とはどのようなものか。そのヒントは「思想地図Vol.3」収録のシンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」にヒントが隠されている気がする。意外なことに磯崎新の建築論のなかにそれがある」

司会者「アレ? 文芸誌は?」

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コメント

最近更新がなくてさびしいです

投稿: ファン | 2009年9月 5日 (土) 01時42分

あ~すいませんねスイマセン。
ネタがなくなったワケではなくてですね、モチベーションがなくなったワケでもないんです。あ~佐々木さんもスミマセン。せっかく話が盛り上がりかけてたのに。こう、2009年はモードが違うというかですね。なにを書いても2009年の感じがでない。でも今週ぐらいから再会できると思います。楽しみに待ってくださっている人がいるというのはね~。ホントに申し訳ないですね。

投稿: kenzee | 2009年9月 6日 (日) 20時10分

更新、楽しみに待ってますよ~

投稿: もうすぐ五冊目 | 2009年9月 7日 (月) 02時17分

MSCは誇張はあってもフィクションではないですねえ。逮捕者されてるし。

投稿: 読者さん | 2010年5月16日 (日) 03時52分

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