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未来の音楽、新しい音楽(佐々木寛太郎さんへの返答Vol.3)

kenzee「えーっと前の話の続きなんだけど……」

司会者「前って何ヶ月前だよ!」

kenzee教授「キミは根気がないんだよ。結局、書くって行為はスポーツと一緒でコツコツ続けないと書き方も忘れちゃいますからね」

司会者「せっかく佐々木さんとの議論も盛り上がりかけてたのに」

kenzee「イヤアノ違うんですよ。佐々木さんの議論はイアン・コンドリーの議論を基本、踏襲するもので「現場」と呼ばれるメジャー、インディーズひっくるめた日本のヒップホップシーンの創作、批評の関係また表現者、受容者の関係が現代の批評を考えるうえで重要な装置だと主張する。私は佐々木さんのこの理解は大前提としてOKなんです。個々のアーティストへの評価は別にしてね。日本のヒップホップシーンが生成した「現場」は60年代以降の日本のロック、フォークの歴史を振り返っても独特の磁場を形成しているのは事実だ。おそらく「現場」を従来の、70年代初頭のフォーク、また東京ロッカーズに代表される日本のパンクとも重ならない部分を持っている。だがね、我々が「批評家」を名乗るならばイアンの議論を先へ進めなくてはならない。イアンの「ヒップホップジャパン」は厳密には音楽評論ではない。日本の若者の風俗をヒップホップカルチャーという側面から捉えた社会評論なのだ。そうすっと必然的に若者の雇用の問題だとか格差の問題とかと絡めざるをえなくなる。ヒップホップは言葉の要素の強いジャンルなのでどうしてもその辺と親和性が高いしね。佐々木さんは「日本のヒップホップ-「現場」とジャンル論の関係から」で「現場」を通した若者論を展開する予定だったのかもしれない。だが、私は純粋にこの「現場」というシーンが将来、どのような受容、聴取環境を生成していくのか。そのことに興味がある」

司会者「(kenzeeって前置きが長いんだよなあ。あとサンザン待たせといて佐々木さんにひとことも謝罪ナシかよ。せめてミニコントぐらいやってから本題に入れよ)」

kenzee「佐々木さんが主張するようにヒップホップにおける「現場」の特徴とは表現者と受容者の境界が極めて曖昧になったことだ。昨日のリスナーが今日はマイクを握っている、そんなロマンが「現場」にはある。また、これはラップ表現に限ったことではない。ターンテーブルとミキサーを手に入れれば今日からDJの真似事を始めることも可能だ。今ならSerato Scratch Liveだろうか。少なくともギターやピアノといった楽器より基本的な技能を修得するのは容易だろう。私はイアンも指摘しなかったこの事実について考えてみたい。例えばバンドのシーンというものがあるとして、そのオーディエンスが必ずしも楽器の奏法や録音の技術に精通しているとは限らない。多くの者は受容者であり、受容者としての批評がある。相当にディープなジャズ批評の現場においてもそうだ。高名なジャズ評論家が楽器の奏法などに詳しいわけではない。ロキノンなどは「受容者としての批評」を確立したといえる。結果、日本の音楽批評は「音楽を語らない」「音楽を通して社会、人生を論じる」という屈折した環境を形成してしまった。たとえばこの国の音楽評論のセオリーで尾崎豊を語ると「尾崎の音楽」ではなく尾崎の時代(管理教育とか)、尾崎の生い立ちといった話に収斂してしまう。これはサンザン語られた浜崎あゆみ論にも言える。浜崎の音楽ではなく、「浜崎の時代、浜崎の人生」について語ってしまう」

kenzee教授「(kenzeeの音楽の話聞いてると…眠くなってきちゃう…早くこないだの芥川賞の話とかしろよう)」

kenzee「確かに「人」「時代」に迫ることもその音楽を理解する一助とはなるだろう。だが、そんなジャーナリズムがどっから生まれたかというと60年代にボブ・ディランとビートルズが登場して「ローリングストーン」「クロウダディー」という雑誌が創刊されてからだ。だがそんなジャーナリズムも70年代には最早無効になったと思うのだ。だってPerfumeのメンバーに生い立ちとか聞いてもあんま意味ないでしょ。だがそうれをやってしまうのがロキノンジャーナリズムの怖いところだ。では「現場」はどのような受容の仕方を生成したか。「現場」における受容者とはラッパーであり、トラックメーカーである。つまり彼らは今、鳴らされてる音楽がどんな機材を使用し、どんな工程を経て制作されたかある程度わかっているだろう。そうすると彼らの批評とは「オレならそんな音色は使わない」「あの機材を使えばスネアのヌケはもっとよくなる」「そのコード進行にこだわるならあの曲のあのフレーズをサンプリングすればもっとカッコよくなるのに」といった純粋に音楽的、反ロキノン的な批評となるだろう。そしてそんな批評的な表現の代表的な例としてリミックスという行為がある」

kenzee教授「zzz…………」

kenzee「こっからなんですよ! ゼロアカ周辺の人たち、こっから注目して! 「思想地図Vol.3」のシンポジウム「アーキテクチャと思考の場所」において、磯崎新と濱野智史の間で議論されたプロセス・プランニング論と関わってくるんです! どんな議論だったかものすごく手短に説明すると、磯崎新は建築の専門家なのだが図書館の設計をどうするかという問題で、蔵書というのはドンドン増えていく。でも図書館という建物まで一緒に増殖することはできない。つまりどっかで結論をださなくては、切断しなくてはならない。建築の現場ではこのようなジレンマが起きる。無限の可能性のものをどこかで製作者が切断を迫られるのだ。だが濱野さんのニコ動論などで展開されているのはネットのようなヴァーチャル空間はリアルな空間と違い、基本、スペースは無限なので切断の必要がなく、永遠に増殖が可能なのだ、と。じゃあ、決定てナニ? 作品て誰が結論づけるのよ? という話になる。ひとつの建築物のコンセプトがある。そしてそのイメージは動くものとしてでてくる。だが建築はリアルのものなので誰かがストップをかけなきゃならない。切断しなくてはならないのだ。誰が切断するか? 設計者か。無限の可能性をひとつの形に押し込めるのは。という質問を磯崎氏はグレック・リンという新進建築家にした。彼の答えはこういうものだ。「変化する形態をこちらでひとつに決めるわけにはいかない。だからいくつものモデルをつくって並べる。建売住宅のカタログのように。それをマーケットにだす。もちろん人気のあるものとそうでないものがでてくるだろう。一番人気の高い物が一番売れるわけでそれが最適解なのだ、と。つまり、結論をだすのは創作者ではなくマーケットに丸投げすりゃイイジャン、という答えだ」

司会者「イイカゲンだにゃあ」

kenzee「要は自分で切断できないんだったら他人に切断させりゃいいじゃん、という思考だ。私は最近のラーメン屋を思い出した。やれ、麺は固めか、スープはどうか、ニンニクはいれるか、トッピングは、大か中か小か、とうるさく聞いてきますわな。あれはプロセス・プランニング論だったのかなあ」

kenzee教授「後期近代的なラーメン屋の風景だ」

kenzee「で、自分が切るのか、他人が切るのか、という問題に対して司会の東浩紀さんが第3の方法を提案する。それはすべてのログをとるということだ。建築は制約のなかでデザインされるかもしれないが、デジタルデータに関してはもはや無限といっていい容量があるわけで切断の必要がないという考え方。そこでヒップホップ論の方に戻りますけど、このゼロ年代において最早音楽をCDという前時代の物理的な制約のなかに落とし込む必要があるのか。そもそもマルチトラックを2チャンに落とす必然があるだろうか。マルチトラックとはグレック・リン言うところの「建売住宅のカタログ」だと思うんだよ」

司会者「オイ! CDの制作工程に詳しくない人の方が多いんですから」

kenzee「通常、レコードはそれぞれの楽器をバラバラに録音するのだ。ドラム→ベース→ギター→ボーカルといった順に。で、これらのバランスを調整したり、エフェクトをかけたりする作業がミックスダウンと呼ばれるものだ。そして右、左の2チャンネルにまとめられる。そしてマスタリングという最終工程を経て、製品マスターとなる。でね、ボクが問題にしているのはこの2チャンにまとめるという工程です。これはつまり、無限の可能性を秘めたマルチに決定を促す、切断するという工程です。もちろんCDやレコードといった物理的な容器に収められ流通していた時代には製作者の側で切断する必要があったでしょう。だが、もはや、プロトゥールズをはじめとするデジタル・プセッシングによりマルチトラックは無限に稼ぐことができ、そのデータをそのまま配信という形でユーザーに届けることも可能な現代、切断はユーザーに委ねられてもいいんじゃないかと思うのです」

司会者「フーン、それでなんかいいことあるんですか?」

kenzee「自分で好きなミックスが可能になる。早い話が現在流通しているPerfumeの音源はあくまで中田さんのイメージしたPerfumeであって、万人が支持したミックスではない。マルチを触れるのは今のところ中田さんだけなので仕方なくみんな中田ミックスを聴いているだけという言い方も可能だ。だが、マルチが公開されればみんな勝手に好きなリミックスを施して、ニコ動あたりで発表すると思うんだ。たとえばのっちファンならのっちのボーカルとキックとベースだけ、というような極端なミックスを制作するものも現れるだろう。だがそれもPerfumeの楽曲には違いないのだ」

司会者「勝手にデュエットするヤツとかでてきたりして」

kenzee「でもエヴァの二次創作なんてとっくにそれに近いことが起こってるし、そうやって何百というヴァージョン違いの「ポリリズム」が登場すればなかにはスゴイヤツもでてくると思うんだ。そんな聴取環境はモチロン中田さんの創作意欲にも影響を与えるだろう。マルチを再生するソフトとマルチデータを配信することは技術的には可能だと思うんだ。で、そんな環境が登場すれば「現場」の創作と批評の境界はますますなくなるだろう。そうすっと「作家」とは誰なのか「作品」とはなんなのかという問題に「現場」はでくわすことになる。だが、そんな「現場」のあり方とは決して最先端の技術と後期近代的環境によってもたらされたものではなく、ヒップホップの最初期、つまり、70年代のグラフィティカルチャーによく似ていることに気付くことになる。映画「ワイルドスタイル」に登場するブロンクスを走る落書きだらけの地下鉄。あのグラフィティは永遠のベータ版なのだよ」

司会者「単純に、マルチが公開されればカラオケつくり放題になるわけで需要は絶対ありますからね」

kenzee「マルチの配信は技術的には可能だ。私は単純に古い音源のベースだけ、とかドラムだけとか聴いてみたいんだよ。どうでしょう、イアン・コンドリーの議論を一歩先へ進めることはできただろうか? 次回はPerfume論でエンエン引っ張ったJ-POP論が終われると思う。やはりPerfumeはコムロとかミスチルを語るような文脈で語ることはムリだと思う。やっぱりオーディオ、つまりゼロ年代に起こった劇的なレコーディング環境の変化を押さえないとキチンと語るとこができない。「PLANETS Vol.5」におけるJ-POP座談会のようなグダグダの印象批評の社会論にしかならない。最大の問題点はここだ。

 中田ヤスタカはマスタリングの作業も自分でやっちゃうんだよね。これは専門的なプロセスだから、トラックづくりをミックスまで全部やりますよ、というミュージシャンでもマスタリングだけは専門のプロに委託するのがふつうなんだけど彼は自宅スタジオでマスタリングしてしまう。結果どうなってるかというと、いいステレオで聴くとわかるんだけど低音域がスカスカなんだよね。その点はインディーズくさいサウンドなわけ。(三輪祐也氏の発言)緊急座談会「Perfumeと相対性理論を語れば09年の音楽を語ったことになるなんて思わないよ絶対」(PLANETS Vol.5)

kenzee「ホントに中田サウンドがスカスカなのか、なにをもってスカスカなのかを検証してPerfume論のとっかかりにしたいと思います」

司会者「なんか、コメントで「5冊目がでる」とか仰ってる作家の方がいますよ」

kenzee「5冊目……多分、西村京太郎だろう」

司会者「その10倍はだしてるよ! キのつく人でしょ! きっと」

kenzee「文學界のヤツは読んだ。お年寄りの話だ」

司会者「おいおいちゃんとやりましょうか」

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コメント

いつも楽しみに読んでます。しばらく更新がなかったので寂しく思っていました。
次はぜひこの間の芥川賞について書いて下さい。

投稿: まりん | 2009年9月10日 (木) 15時58分

エヘヘ。いやスイマセンね。芥川賞なんてモノもありましたね。肝心の子供のレビューなんてついこの間のような気がするんですけど。時の流れは早いなあ。

投稿: kenzee | 2009年9月10日 (木) 21時35分

そんなもんアカペラ入れて勝手にリミックスすればいいだろ アホくさっ!

投稿: | 2009年10月20日 (火) 12時46分

違うよ。自分でトラックを制作するんじゃなくて元のマルチをいじる環境を与えられることで生じる生成力の話だよ。例えばビートルズのマルチが配布されたらどうなるか。「本物」をいじる権利を得ることで生まれるクリエイティヴィティってどんなん?て話ですよ。

投稿: kenzee | 2009年10月20日 (火) 18時52分

三輪さんが何を差してスカスカと言ってるのかわかりませんが、ハイエンド機器で再生したら針が振り切れるくらいギッチギチだそうですよ、Perfumeの音源って。いったい何聴いて判断したんでしょうこの人。

投稿: 紅 | 2010年7月 2日 (金) 16時46分

なんでも2ちゃんねるの音楽系の板とかで相手をディスるときに「ナニナニなんてスカスカだぜ」とか言うんだそうです。宇野さん絡みの企画って東さんとか明確な敵がいるときは燃えるけどこういう別段倒すべき敵がいないときってgdgdになりがちなのヨ。

投稿: kenzee | 2010年7月 3日 (土) 08時01分

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