kenzeeの夢(J-POPのリアリティは幻想の巻)
kenzee「でまあ私ももう35なんですが」
司会者「いいトシですよねえ。結婚とかしないんですかアナタ」
kenzee「これからボクはどう生きていったらいいんだろう。もうJ-POPがどうたらとか言ってるトシじゃないしなあ」
司会者「J-POP評論家とかどうですか?」
kenzee「このトシになってわかったことがある。つまり世の中とは「イス取りゲーム」なのだと。今、なんらかの位置にいる人たちはゼロからその地位を築いたのではない。以前、誰かがそのイスに座っていたところに、うまいことネジこんだイス取りゲームの勝者なのだ。例えばEXILEのイスには昔、一世風靡セピアが座っていた」
司会者「ああそうかもしれないですね」
kenzee「Perfumeのイスには昔、スターボーが座っていたのだ」
司会者「誰も知らないですよそんなの!」
kenzee「東浩紀さんのイスは昔、伊集院光が座っていたものだ」
司会者「それ、単に「よくしゃべるおもしろいデブ」ってトコだけだろ! 怒られるぞ」
kenzee「鈴木謙介さんが今座ってるイスは昔、兵頭ゆきが座っていたものだ」
司会者「アレ、それって関西人以外に通じるのかな?」
kenzee「ティーンの悩み相談といえば兵頭ゆきですよ」
司会者「たぶん鈴木さんは昔の糸井重里だと思いますよ」
kenzee「だからね、「人生に目標を持つ」とか「夢を持つ」っていうのは翻訳すると「自分は誰のイスに座りたいか」という問題に還元されるのだ。無論、なかにはE.YAZAWAのように自分でイスごと作ってしまう偉人もいるが。で、オレがこれからJ-POP評論家としてやっていくとして、どのイスを狙うか考えた。そしてでた結論が「富澤一誠のイス」だ」
司会者「ふうん」
kenzee「富澤といえば典型的なワイドショー御用ライターだ。とにかくのりピーが捕まったといえばコメントし、加藤和彦が死んだといえばコメントする、便利ライターなのだ。そして大した著書もないのになんだか金まわりがよさそうな雰囲気だ。ボクはあの位置に行きたい。「ワイドショー御用達」これが最も、老後の問題も含めてアンパイなイスだ。どうやったらああなれるんだろう」
司会者「富澤一誠になりたいの? アンタ」
kenzee「だって加藤和彦が死んでも渋谷陽一とかに誰もコメント求めないだろう? 所詮サブカルなんてその程度の地位なの。世間からはナメられてるんですよ。やっぱ富澤。テレビ。ワイドショー。夢」
司会者「中身のないブログだなあ」
kenzee「でね、評論家を名乗るからにはテーマが必要なのですよ。で、デッチあげた。「J-POPにおけるリアリティは幻想だった」というのがオレのテーマなのだ」
司会者「ふうん」
kenzee「J-POPにおけるリアル。それはロキノンなどが長年看板掲げてきたテーマだ。だがハナっからそんなものはない、と科学的に実証されてしまう、という論だ」
司会者「イヤガラセじゃないですかそんなの」
kenzee「リアリティとは音楽性、つまり歌詞やサウンド、ジャンル性に還元されるものと長年考えられてきた。だがそれは大間違いでもっと単純なものだったという話だ。日本人の歌手には大きくわけて二つのタイプがある。シャープ系の歌手とフラット系の歌手だ。もうちょっと詳しく説明すると歌手には本来のトーンより若干低め(フラット)に歌うタイプと高めにいくタイプがいるという話。例えば女性ボーカリストでいえば中島美嘉、渡辺美里、竹内まりや、美空ひばりといった歌手はフラットタイプの系譜だ。逆に日本のアニソンの多くはシャープする歌唱であることが多い。実際に聴いていただこう。
こういうものはライブ音源のが如実に表れるのだ。本来のトーンより低めの歌唱だということがおわかりいただけただろうか。逆にアニソンはどうか。代表的な作品を2曲続けてどうぞ。
涼宮ハルヒの憂鬱エンディング・テーマ「ハレ晴ユカイ」、けいおん!オープニング・テーマ「Cagayake!GIRLS」
ね、キャンキャンキンキンとシャープしかかっているのがわかる。で、我々はフラットした歌に「なんとなくリアルな印象」を抱き、シャープした歌には「なんとなくおちゃらけた、空想的な雰囲気」を感じとるのではないか。少なくとも日本人の耳には。大塚愛という典型的なシャープ系の歌手がいる。歌詞の内容そのものは中島美嘉や渡辺美里と大差ないように私には思える。だが、聴き手はなんとなく中島や美里を「若者の心情を代弁した、リアルな歌」と感じるだろう。そして大塚にはとくにそのような印象を抱かないだろう。ナゼか。それは単に歌がフラットしてるかシャープしてるかの違いだったのだ。我々は低めの歌にリアリティを感じてしまうのだ。因みに「ロキノン系」と呼ばれるアーティスト、Cocco、サンボマスター、Dragon Ash、チャットモンチーといった歌手は皆フラット気味なのだ。(例外的に中村一義はシャープ系だ)それではシャープ系はどうか。アニソン以前のシャープの系譜はどうなっているか。戦後歌謡史において代表的なシャープ歌手といえば小林旭と三並春夫ではないだろうか。
小林旭「ダイナマイトが百五十屯」('58)、三並春夫「俵星玄蕃」
実に、シャープですね。ここに小田和正を加えるとシャープ系男性歌手の系譜ができあがる。そこで、ふと立ち止まってしまう。さっき、アニソンのほとんどはシャープだと言った。で、元祖シャープは小林旭なんだけど、アキラといえば日活無国籍映画だ。ギターを持った渡り鳥である。つまり、リアリティのない、フィクションの世界の住人なのだ。このアキラ映画の持つフィクション的想像力はもしやのちのジャパニメーションの源流だったのではないか。そしてこの想像力を繋ぐのは「シャープする歌」なのだ。三並春夫も同様、声だけでフィクションを現出させる天賦の声の持ち主だ。「俵星玄蕃」の「サークサークサクサクサクサク、センセイー! おお、蕎麦屋かァ~!」っていう甲高い声でデフォルメした感じが、アニメの声優さんの会話を連想させるのだ」
司会者「ていうかちゃんと三並春夫のパフォーマンス観たら、歌謡浪曲ってファンキーグラマー系のラッパーのフロウに近いものがありますね。でも三並さんはなにを言ってるのか明瞭に聴こえるのがスゴイ」
kenzee「翻ってフラット歌手なら浜崎あゆみがいる。サウンドはあんな感じなのに浜崎はリアリズム表現として受け入れられている。それは歌詞の内容がどうとかいう以前に浜崎がフラット歌手だったからだ」
司会者「なんというミもフタもない」
kenzee「大変な発見をしてしまった。神話的構造を発見した故・レヴィ・ストロースもこんな思いだったのだろうか」
司会者「スケールが違いすぎるわドアホウ」
kenzee「で、ボクはこの現象を肯定的に捉えたいんだ。極端にいえばシャープ声は人を高揚させ、フラット声は人を覚醒させるとでもいえるだろう。そんな効果があるのに、現状のJ-POPではオートチューンでギッチリトーン補正してしまうのが通例だ。で、多くの聴き手はそういったヴォーカル処理をされた歌を総じて「平板で冷たい」などと評するわけだ。そこで提案なのですがもっと積極的にフラットやシャープに補正してもいいんじゃないかと思うのです。例えば「この曲は現代の若者のリアルな心情を歌ったものなのでフラット気味に補正しといて」とか。「これはチャラチャラしたダンスミュージックなのでシャープで」とか。マーケットにあわせてトーン補正するんです」
司会者「なんか、「感動」まで機械でコントロールされてるみたいでヤだなあ」
kenzee「で、次回は渡辺美里と左翼運動とロスジェネって話をするからね。えーとテーマは「革命闘争とマイレボリューション」
司会者「果たしてkenzeeは富澤一誠になれるのか!?」
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