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2010年に音楽について書くということ(枡野浩一さんへの手紙)

 歌人の枡野浩一さんからトラックバックをいただきました。

http://masuno.de/blog/2010/04/28/post-177.php 

(「土俵に立つということ」枡野浩一公式blog枡野書店2010年4月28日のエントリー)

まずは、お忙しいなか、時間を割いて私の文章を読んでくださったことに感謝したい。
また同じ雑誌の特集に掲載されるという偶然がなければ私の文章が枡野さんの目に触れることもなかったわけで、このような偶然を用意してくださったミュージック・マガジン編集部に感謝したい。

 その上で、トラックバック先の枡野さんの記事にいくつか疑問があり、いつものコント形式では正確な意図が伝わりにくいという判断から今回はこういう形でお送りしたい。

 前回の記事で、私は「自分の商業原稿に落ち度があった」という発言をしている。いつも読んでくださっている方なら理解いただけると思うが、あれは私の中では一種の照れであり、普段、文学や音楽について冗談めかして語ることを方針としている性質上、あのような記述となった。だが、掲載された原稿が「落ち度のある、グダグダなもの」とは作者である私は考えてはいない。私は関西人だが、ちょうど関西人のオバサンが自分の娘を「ブサイク」などと謙遜するのに似ている。信頼する生徒、弟子、子分を「あのバカ」などと照れ隠しする感覚に近い。あの原稿は初めて商業原稿として人の目に触れることとなった最初の子供だ。そして私は言い続けるだろう、「ブサイク」な子供だ、と。また、私は自分の書いた文章や作品を「これは自分の自信作だ。胸を張って世に出すのだ」などと発言することもないだろう。自分の文章が見知らぬ他人に読まれるというのはどうも恥ずかしさがつきまとう。もちろん、自分の文章がどのように解釈されようとも読者の解釈がすべてだ。誤解されていってほしいと思う。あの掲載原稿も、「言い訳」に見えるネットの文章も。

 実際の誌面には私と枡野氏の文章が対置されており、一読者として単純にいいコントラストになっていると思う。枡野氏の歌詞への考察、その歌詞を支える和声が持っている意味。多分に偶然もあるだろうがひとつの全体がある。ひとえに編集の力によるものだろう。つまり、私は「歌詞分析」というテーマを枡野氏から奪いたかったのではない。私の隣で誰の、どんな文章が載っていても一向に構わない。歌詞でという依頼であれば歌詞でまとめただろう。プロ野球について書け、と言われれば(まったく知らないが)強引にデッチあげるだろう。私はそもそもがそういうスタンスの書き手である。「そんなことでどうする、もっと書きたいという情熱を持て」とまたお叱りを受けるかも知れないが事実そうなのでしょうがないのだ。

 ところで、枡野さんは当ブログをご覧になったようでこのように感想を記されている。

 ただ、思い込みの激しさが面白さに繋がってるこの意見、当たってる部分もある気がするものの、小沢健二とは少ししか関係ないですよね。面白いことを言うための、材料として小沢健二をつかってるだけ、に見えます。結果的に小沢健二それ自体よりも「小沢健二を面白く語れる俺」のほうを優先させている印象というか。(「土俵に立つということ」枡野浩一公式blog枡野書店2010年4月28日のエントリー)

当ブログにおいて小沢健二についての考察は「フリッパーズのチンコでかいほう」、「フリッパーズのチンコ、メチャでかいほう」、「フリッパーズのギターです」、「彼はいいとものテレフォンショッキングで憂歌団のようなギターが弾きたい、と言った」、「ぼくたちの失敗(小沢健二、言葉篇)」とすでに5つの記事が掲載されており、連載モノのような形式となっている。CD音源、ライナー、雑誌記事などの現存する資料に基づいて様々な角度から小沢健二の音楽について考察しているはずだ。もしかして枡野氏は直近の記事「ぼくたちの失敗(小沢健二、言葉篇)」だけを読んで私の小沢論の感想を述べられたのではないか。もちろん、枡野氏にウチの記事を読む義務などない。だが、公式サイト、つまりネット上の文章とはいえご自身で「オフィシャル」と銘打っている場に感想を記すということであれば、最低、ウチの小沢に関わる文章に限って目を通しておくべきではなかったか。

 「論」には流れがある。いったん小沢から離れる箇所もあろう。だが、「ドカベン」について感想を語るさい、11巻だけを読んで、「ヲイヲイ、ドカベンって野球漫画って聞いてたけど柔道ばっかりジャン。野球とは少ししか関係ないですよね」などといった発言は成立しない。このブログはもともと(今は滞ってしまっているが)小説についての感想を述べるブログである。私の、小説についての記事を書く際のひとつのルールがあって、必ず冒頭で「梗概」を述べるというものだ。梗概にはいくつもの機能がある。まず、未だ読んでいない読者に対して、あらすじを説明するという機能、(ちなみに梗概は最後の結論の部分までをまとめたもの。あらすじは「ヨシコとヤスオはお互いの気持ちを確かめあった。そのあと二人は……(続く)」というもの)そして梗概のまとめ方そのものも批評なのである。どこを端折り、どこを強調するか。その小説の雰囲気まで梗概に織り込めるか、また、梗概のなかでボケるなどのコントを織り込めるか、という芸の見せ所がある。どういうわけかウチは取り上げた小説の作者がチェックにくることが多いのだが、筆者がちゃんと最後まで読んだうえでの批評であることの断り書きという側面も担っている。

 だが、ウチの小沢記事全体を読んだうえで、「少ししか関係ない」と言われればそれも枡野さんの解釈なので「そういうものか」と思うのみである。

 自分以外のだれかが書いたほうが 世界のためになる、と心から思ったとき、 私はその旨を編集部に伝えて、 別の書き手を紹介します。(「土俵に立つということ」枡野浩一公式blog枡野書店2010年4月28日のエントリー)

 私はまったくそうは思いません。私に依頼がきたら私の仕事です。たとえ明らかに自分より詳しくて、自分より深い考察を持っている人がいることがわかっているテーマであっても(ビートルズとかAKB48とか)私に来たら私が書きます。世界のためとか関係ないです。だって「世界のため」かどうかなんて自分ではわからないですもん。自分に依頼が来たっていうことは「そうしろ」って言ってるんですよ。多分、世界が。小沢健二について書きたい、という人は世の中にいっぱいいたかも知れない。その中には私より小沢健二に詳しい人も大勢いただろう。実際に小沢健二と言葉を交わしたことがある人もいるだろう。ちなみに私は小沢さんのライブに行ったことすらないので実物の小沢さんすら見たことない。でも、私に依頼がきたということは、きっとその人たちは私より面白くない人たちだったのだろうと思います。そのように世界が判断したのだろうと思います。なので、私に来た依頼は私が受けます。それで世界は平和だろうと思います。もちろん、枡野さんには枡野さんの考えがあるのだろうし、それはそれです。

 まあ、 《イマイチだった》と感じてしまった人の、 実感を覆すことは無理ですから、 その感想は有り難く受けとめておりますが。 (「土俵に立つということ」枡野浩一公式blog枡野書店2010年4月28日のエントリー)

今、私は再び、自分の胸に手を当てて、問うてみる。果たして、本当に枡野氏の原稿がイマイチだと思ったかと。なんとなくの言葉の綾ではなかったか?と。そして私の心の奥底から答えが返ってくる。「ガチでイマイチだった」と。

 だが、それは枡野氏の原稿が特別イマイチだったのではなく、現代の音楽ジャーナリズム全体を覆っている「イマイチ問題」に枡野さんも残念ながらはまりこんでしまっている、というのが偽らざる答えだ。枡野さんにトラックバックを引いていただいて以来、ウチのアクセス数がハネあがっている。さすが有名人の方の有名サイトである。おそらく音楽ジャーナリズムに関わる業界の方もチェックされているのではないか。ならばこのような機会も滅多にないと思うので、ついでにそういった業界の方にも考えていただきたいことがあるのでもう少しお付き合いいただきたい。

 この10年の間に音楽の聴取環境は激変した。2001年に初代iPod+iTunesが発表されて以降、多くの人々の生活のなかにおける音楽のあり方は一変した。ポケットに何千曲もの音楽を持ち歩き、パソコン上の音楽管理ソフトには一生かかっても聴ききれないほどの音楽ファイルが並んでいる。また、(違法合法問わず)ファイル共有ソフト、動画共有サイト等でタダで膨大な音楽に簡単に触れることができるようになった。そして、多くの人々の音楽の接し方、捉え方は変化していった。

 かつてポピュラーミュージックを好む若者の多くは音楽を聴いていたのではなく、「人」を聴いていたのだった。尾崎豊の音楽を聴いていたのではなく、彼の「生い立ち」や「人生」を聴いていたのだ。彼を「教祖」と崇める者もいただろう。同様にジョン・レノンや浜崎あゆみという「人」が聴かれていた。小沢健二も同様、「人」として聴かれていたように思う。そして音楽ジャーナリズムもまた、「人を聴く」方法論に基づいて作られていった。その「人」にせまることがすなわち音楽を深く理解するカギになると。

 そのようなジャーナリズムがいつ、どこで形成されたかを考えると60年代にビートルズとボブ・ディランという「自作自演」の歌手が登場し、66年に「Crawdaddy!」67年に「Rolling Stone」という雑誌が創刊されたときだと考えられる。その方法論は70年代に日本に輸入され、日本の音楽ジャーナリズムの基礎となっていった。その代表がロッキング・オンである。そのようなジャーナリズムはギリギリ90年代までは有効であっただろう。でも、ゼロ年代にはすでに無効になっていると思う。どういうことか。

 今、目の前をヘッドフォンで音楽を聴きながら歩いてゆく若者。彼の携帯オーディオプレーヤーの中身はビートルズにマイルス・デイビスに尾崎豊に小沢健二にノイバウテンに渡り廊下走り隊に友達のバンドの音源だ。で、それらをシャッフル再生している。そして「今日の気分はマイルスっていうより走り隊だな」とマイルスの歴史的名演「So What」をスキップしてしまった。そのようにして人々は音楽と接している。尾崎豊がどんな人生を歩んで、どんな思いをこめて「太陽の破片」を歌ったかなんて知らない。確かに獄中での孤独や絶望から生み出された言葉があったかもしれない。でも、今は「太陽の破片」はポケットの5000曲の中の1曲なのだ。もはや人々は「人」を聴いていない。「音」を聴いているのだ。そのように聴取環境は変化しているのに音楽ジャーナリズムだけが相変わらず「人」を聴くモードでいいわけがない。

 野田努氏「日本には音を語る文化があまりにも欠落していると思うの。自分にもまだまだそこができていないと思うけど、欧米は音を語る文化がすごくしっかりあるじゃない。意味ではなく音を語るっていうことが。もちろん意味は重要だけど、日本の音楽からは「意味なんかない」っていう言葉がよくでてくるんだけど、それって意味にがんじがらめにされているような文化風土があると思うんですよ。(snoozer#079 2010年6月号「特集:レディ・ガガに勝てない日本のロック」)

 野田氏が展開しようとしているのはポスト構造主義におけるテクスト論であろうと思われる。1973年に発表されたロラン・バルト「テクストの快楽」において、理論やイデオロギーはすでに暴力的になってしまった。こういったテロリズムに対抗できるのはもはやエクリチュールだけだ(大意)と述べている。作品から「人生」や「主義」「イデオロギー」を切り離すべきだ、一貫したイデオロギーこそが敵だったのだ、とこういうことだ。音楽はあらゆる表現形態になかでもとりわけイデオロギーと結びつきやすい性質を持っている。あらゆる「イデオロギーのもとに結束した集団」はそのイデオロギーの周知・徹底のために音楽を使う。

 たとえば国家は国歌を制定する。軍隊は軍歌を歌うことで戦意を高揚させ、集団の結束を強める。連合赤軍は山岳ベースで「インターナショナル」を合唱していたという。商品のイメージ戦略のために音楽が「タイアップ」する。いかに音楽がイデオロギーの下敷きになりやすいかの証左である。ポピュラー音楽においても簡単に「音楽」は「物語」というイデオロギーと結びついてしまう。この音楽の演奏家はどんな家庭で育ち、なにを学び、どんな出会いがあり、経験を積んできたのか。それが音楽作品に反映されているはずだという前提のもとに記事が書かれる。今日もどこかで人気急上昇中のロックミュージシャンの2万字インタビューが行われる。もちろん、それは欺瞞だ。

 私は音楽について語りたいと思う。今後、音楽ジャーナリズムは「音源」というテクストだけで展開されるべきだと思う。「物語」「社会」「時代」というイデオロギーは不要だ。今後、尾崎豊を語る際、「覚せい剤」「管理教育」「10代の教祖」「謎の死」というタームを使うべきではない。同様に小沢健二を語る際、「東大」「小澤征爾」「ドイツ文学者」というタームを使うべきではない。なぜならロラン・バルトも言うように小沢健二のテクストと小沢健二のイデオロギーは切り離さなければならないからだ。CDに刻まれた音、歌詞カードに書かれた言葉がすべてだ。枡野浩一作品を語るさいに、枡野氏の私生活を参考にするべきではない。もちろん、作者の私生活で起こる出来事が作品に影を落とすということはあるだろう。だが、「そこは切り離して考えよう」というルールを設定すべきだ。なぜなら人々の受容環境がすでにそのように変化しているからだ。

 小沢健二自身も、 そういった「土俵」に立って、 言葉を歌ってきた人です。(「土俵に立つということ」枡野浩一公式blog枡野書店2010年4月28日のエントリー)

ならばなおさら、小沢健二のテクストについて語るのに、「ストーリー(東大、小澤征爾)」は切り離すべきではなかったか。スピーカーから流れるこの形のない、「音楽」がすべてだ。私は、仮に小沢健二が架空の存在であったとしてもビクともしないのが本当の批評ではないかと思うのだ。

 そんな表現者に対しての敬意を、 忘れたくないと思う。(「土俵に立つということ」枡野浩一公式blog枡野書店2010年4月28日のエントリー)

 枡野さんは激怒されるかもしれないが、敬意は捨てなくてはならないと思う。少なくとも文章を書くときは。文章を書くとき、批評のマナ板に乗せるとき、 敬意や憧れはノイズにしかならない。芸人はネタをやるときはネタに集中しなくてはならない。そうでなければ文章は、濁る。

 本当のことを言えば、好きな人についての文章は書いちゃいけないのだ。敬意を捨てられないから。濁るから。もし我々にミスがあったとすれば「好きな人についての文章を書いてしまった」という点だろうか。

 面白いことを言うための、 材料として小沢健二をつかってるだけ、 に見えます。
結果的に小沢健二それ自体よりも、「小沢健二を面白く語れる俺」のほうを優先させている印象というか。(「土俵に立つということ」枡野浩一公式blog枡野書店2010年4月28日のエントリー)

 誰が一番面白かったかで測られる世界であってほしいと願う。書いた人の地位や名声やキャリアや含蓄とかではなく、純粋に「誰が一番面白く語ったか」で決められる世の中であってほしい。

 そうでなければ、フェアなゲームとはいえない。

以上の理由から枡野さんの原稿は私の、いち読者としての視点から鑑みると「イマイチ」という結論に達してしまうのだった。

 枡野氏には度重なる失礼をご容赦願いたい。そして最後まで読んでくださった枡野氏、読者の方、業界人の方に
改めて御礼を申し上げたい。どうもありがとう。

                                    kenzee a.k.a.中尾賢司 

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コメント

…なんというか、ギャグを理解できなかった人に後からいちいち解説をしなきゃいけないもどかしさと恥ずかしさがありますね、この記事。
信者のついてる人のことを話す時に真面目な人や熱狂的ファンにぶち当たるとほんと困ります。
私はkenzeeさんの書いてることはいちオザケンファンとしてなるほどなぁと面白く読ませていただきましたが…。


確かにロキノンってミュージシャンの半生だの内面だの、そんなんばっかなイメージありますね。
去年のPerfume騒動でまだこんなこと言わせてんのかこいつらと思いましたけど。

投稿: 紅 | 2010年5月 8日 (土) 00時02分

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