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浜崎歌詞に「ケータイ」が登場しないという事実を我々は決して忘れてはならない

kenzee「浜崎あゆみ「Rock'n Roll Circus」vs「to LOVE」問題に移る前に、前から思っていた素朴な疑問を呈してみたい。速水さんが再三、本の中で述べているように浜崎の音楽とケータイ文化は密接にかかわっており、二人三脚でこのゼロ年代を駆け抜けた。そのワリには浜崎の歌詞にはケータイが登場しないのだ。たとえば恋人から着信があってうれしいとか一日たってもメールが返ってこない寂しい、とかそういう描写は浜崎ソングには一切ない」

司会者「「何回かけても繋がんないんだけどー」「ゴメーン地下街歩いてたんで電波入んなかったんじゃないかニャー」「最近の地下街余裕で電波入るわヴォケ!」とかそういうリリックがあってもよさそうですが浜崎にはそういうケータイ的なコミュニケーションがまったく描かれてこなかった。これはどうしてだろう?」

kenzee「たとえば浜崎は2001年ごろ、ツーカーのイメージキャラクターであった。スポンサーとしても浜崎のようなヒットメーカーにケータイのコミュニケーションを書いて欲しかっただろう。コムロならそうしたはずだ。だが、ついに浜崎曲にケータイが登場することはなかった」

司会者「コムロ曲にケータイってでてきました?」

kenzee「ウ~ン最近のヤツはよく知らないんでアレだけど昔の曲でこんなんある。

 部屋で電話を待つよりも 歩いてるときに誰か ベルを鳴らして(安室奈美恵「Sweet 19 Blues」1996年作品)

司会者「この時代のいわゆるコギャルはポケベル持って移動してたんだ」

kenzee「で、通話は宅電だったようだ。

 私と彼氏の携帯電話がリンリンリン(PUFFY「渚にまつわるエトセトラ」1997年作品)

司会者「やっとお互いが携帯持ってる」

 携帯持ってすかしてんじゃねーよ でも本当はすっごい欲しいんでしょ(EAST END+YURI「DA・YO・NE」1994年作品)

kenzee「たぶんJ-POP史上最初に「携帯」という言葉が登場したのはこの曲だろう。大変にステイタスなブツであったとわかる。だが日常的なコミュニケーションツールとなるまでにはまだ時間が必要だった」

 なんて余裕カマしてる間もなく 唸る電話に予感されるハードワークあせってでてみればタダのイタ電 あきれるぜこんな空の下で(ZEEBRA「真っ昼間」1997年作品)

kenzee「イタ電がかかってくる時点でこれは宅電の話だと思われ。ZEEBRAの歌詞に携帯が登場するのはもうちょっとあとです」

 出会いはいつもNo Mercy こんなHigh Class Ladyには遠まわし まずはゲトって帰る電話番号 そのあとは 連鎖反応(Dreams Come True featuring ZEEBRA「24/7」2000年作品)

司会者「これはもう携帯の番号を訊いてるのでしょうね」

kenzee「High Class Ladyの宅電訊いてもしょうがないからね。ちょうど携帯が普及する時期にピッタリ登場するのが見事だ」

 元は君からの電話 仕事中ミスった3本の着信 別れのメッセージ残して乗ったタクシー Back Seat 夜の街 携帯も超ルス電 一向にコールもなし(ZEEBRA「BABY GIRL」2001年作品)

携帯が快調にコミュニケーションツールとして描かれる。

大慌てでメイク始める まずネイル急いで塗って もう片手でメール伝える 今夜のパーティー 超セクシーなワンピース いい感じ 今何時? 3分で来るって あなたも今日はダンディーこのワンシーン 映画のよう(SUITE CHIC featuring FASTKLAS「GOOD LIFE」2002年作品)

この時代になるとそもそも通話しません。メールでOK。後にZEEBRAは携帯電話のCMにも出演するほどだ。

Hey YO こいつがFOMA ブランニューギアMusic Porter まさに音楽好き向きフレイヴァー 超本格的ミュージックプレイヤー とにかくハンパじゃないぜ約20時間長時間再生 約5時間半の録音 これがでりゃここんちは完全独走 しかも2GBまで拡張 好きなアーティスト全曲も楽勝 最大約1400曲 騒がれんのもこれで納得 MP3からAAC ATrack3plus ATrack3 幅広いフォーマットに対応 最高に快調 FMラジオだって内蔵 音楽 メールにiモード マルチタスク 同時に大丈夫 こいつはマジだぜ Don't Ever Doubt Me ハイテクノロジー確かな裏打ち まさにKiller-Shit Killer-Gear  Killer-Phone メモリースティックPro Duoとイヤフォン それらのすべてがAll in One 一度見りゃ絶対Fall in Love(ZEEBRA「三菱電機Music Porter」2004年)

「Music Porter」は三菱電機が開発した2004年発表のNTTドコモの第二世代携帯電話だ」

司会者「2GBまでしか拡張できないんだ」

kenzee「あとwmaは再生できないようです。まあ、このようにケータイは若者の生活に密着した基本デバイスとなってゆく。しかしギャル演歌のキーパーソンの一人、加藤ミリヤさんは今でてる日経エンタで意外な発言をしているのだ。

Q「カバンのなかに絶対入ってないと落ち着かないモノは?」

加藤ミリヤ「ないです。ケータイも。ケータイ忘れると、みんな取り乱しちゃうじゃないですか。3日間ケータイが使えなくなったときがあって、でも大丈夫だった。(笑)(日経エンタテインメント!2010年9月号「ミリヤーを生んだロジカルな表現者の実像」)

kenzee「歌詞サイトでキーワード検索していただければわかると思うが歌詞に「携帯」または「ケータイ」が登場する歌手は結構多い。ハロプロ系はやはり多いし、意外なところでコブクロとか渡辺美里の歌詞にも携帯は登場する。つまり今や歌詞に携帯が登場するのは西野カナや加藤ミリヤなどギャル演歌に限らずJ-POP全般の傾向なのだ。ならば我々が問題にしなければならないのは、あれほどケータイ文化と親和性が高いとされている浜崎の歌詞に「ケータイ」「携帯」という言葉が(検索していただければわかると思うが)イッコもでてこないという点についてだ。

 ポケベルからiモードへと女子高生によるメディアの活用が急速に変化した時代を象徴する広末涼子、また「ドッキドキ! LOVEメール」(2001年)という携帯メールに言及するデビュー曲を持つ松浦亜弥も、新しいメディアの登場とともにミューズとしての役割を与えられた存在といえる。しかし、ファッション、ライフスタイル、など、女子高生文化全般を一新させる影響力を持ったのは浜崎だけだった。浜崎あゆみはケータイ小説というジャンルと深く結びついている象徴的存在というレベルに留まらない。ケータイ文化そのものなのだ。(速水健朗「ケータイ小説的。」原書房)

しかし、その肝心の浜崎の歌詞にはケータイが一切登場しないのだ。これはどういうことか。たとえばポケベル時代の象徴的存在と速水氏が指摘する広末涼子の歌詞には確かにポケベルが小道具としてたびたび登場する。

 ベルの音でわかるの 仲良しのあの子からだと 飛び込むメッセージはいつも決まってSOS (中略) 2週間後の夜に「恋の花が咲きました」と突然のメッセージ 届いて胸をなでおろす(広末涼子「恋のカウンセル」作詞・作曲:竹内まりや・アルバム「ARIGATO!」収録1997年作品)

 秘密だよpo po poポケットの中 届いたメッセージ 恋は授業よりお手上げ だからねえ 少しだけ(同アルバム収録・作詞・作曲:高浪敬太郎)

このようにポケベル時代のアイドルを半ば自認していたのである。しかし、ケータイ文化のミューズたる浜崎の歌詞にはケータイが登場しない」

司会者「なんでだ!?」

kenzee「まさかこんな問題にブチ当るとは思わなかった。考えられるのはご本尊の浜崎とポスト浜崎文化とは受容の質が違うのではないかということだ。たとえば鈴木謙介氏は私小説とケータイ小説では受容の仕方が違うと言う。

草野亜紀夫「それはやっぱり(恋空の)作者の美嘉さんの実体験だから共感を呼んだんじゃないでしょうか」

中村航「感動じゃなくて共感なんですね」

鈴木謙介「僕は今中村さんがおっしゃった「共感」っていうのがポイントだと思うんですよ。さっきも言った通り「ケータイ小説」の面白いところって、作者の名前と主人公の名前が同じところなんです。もちろん日本の伝統的な「私小説」でも作者と主人公が同じ名前をもっていたり、同一人物だと思わせるものはたくさんありますが「ケータイ小説」の場合はちょっと意味合いが違うんじゃないかなあ。(中略)「共感」ってどちらかというと、自分の内側にある感情だと思うんですよ。自分も同じような体験をしていれば「私もこんなこと考えてたな」「同じことを感じたな」と「共感」できるわけです。でも「感動」って自分の外からやってくるじゃないですか。自分が理解できないものでも「感動」するということはありえますから。なんでもいいんですが、例えば「モナリザ」を見て「なんかわからないけど感動する」ということはあるかもしれないけど、「なんかわからないけど共感する」とは絶対ならないですよね。(中略)そうすると実体験って「共感」を呼ぶための装置みたいなものじゃないかと思うんですよ。それが本当にあったかどうかは別として」(鼎談「ケータイ小説は「作家」を殺すか・文學界2008年1月号)

kenzee「仮説1。ギャルは浜崎のコンテンツに「共感」していたのではなく、「感動」していた。だが、浜崎が引用されたケータイ小説には「共感」した。西野や加藤ミリヤも「感動」の位相になく、「共感」のレベルで受容された」

司会者「でも音楽的にも歌唱力でも西野や加藤は浜崎より数段レベルが高い。逆ならわかるんですが」

kenzee「チャーリーさんは「共感」を「理解」のレイヤーで語っている。「わかるよその気持ち!」というヤツだ。だが「実体験」→「共感」という受容には「理解できねえっつーの!」というレイヤーもあるのではないか。たとえばZEEBRAの2000年発表のアルバムのタイトルはズバリ「BASED ON A TRUE STORY」というものだ。このアルバムで描かれるのはヒップホップが日本のチャートを駆逐し、主人公のZEEBRAがギャルにモテまくり、ラップで音楽シーンの頂点にのしあがり、高級車を乗り回し、休日はギャルと豪華なデートで過ごし、世界的成功すら夢見る、というものだ」

司会者「フィクションではないのですか?」

kenzee「これらの描写を平然と「実話に基づく」と言い切る、ある種の気持ちよさ。実際、当時のZEEBRAはシングル・ファーザー二児の父であり、レコーディングへでかける前に子供たちにオニギリを握っていったり、面倒を見ながらハードワークをこなしていたようだ。実際には恋人と豪華クルーザーで無人島で休暇を過ごす(プラチナム・デート)などありえない状況であった。それを「事実だ」と言い切る完全な嘘の中に湧き上がってくるリアリズムという「共感」もありえるのではないか。いわゆる「嘘も方便」というヤツだ。ケータイ小説もこの世に生れ落ちてはや8年。充分な蓄積がなされ、「共感」のポイントも大体絞られてきた思うんです。つまり「共感」の構造、「神話素」が形成されてきたのではないか。西野の歌詞は「共感」の効率性を極限まで引き上げた機能的な言葉なのだと思う。「恋空」だってあれで結構長い小説なので読み通すのに数時間はかかるのだ。フダン文章を読みつけない子ならなお時間がかかるだろう。だが、西野の音楽を聴けば数分で「共感」→「泣ける」へと至るというとても機能性の高い仕様になっているのだ。宮台真司は「サブカルチャー神話解体」の「音楽コミュニケーション分析編」で、音楽コミュニケーションを四機能に分類した。すなわち「シーンメイキング機能」「関係性提示機能」「お耽美化機能」「歌謡曲的ネタ化機能」の4パターンだ。ものすごくザックリ言うと「シーンメイキング機能」とはかけると空間がオシャレになるというBGM的機能を備えたものだ。「関係性提示機能」とは「これってアタシ」と自分や周囲の解釈ツールになる。「お耽美」と「ネタ」はここではとりあえずおいておく。浜崎は言うまでもなく「関係性提示」に該当する。

宮台真司「関係性提示機能を要求する人たち。最近では浜崎あゆみ周辺に集う系だよね。つまり自傷系やひきこもり系の人たちと親和性がある。「完全なる承認」という幻想はもともと宗教と性でしか与えられないけど、いまや宗教も性も部分化していて苦しい方向へ追いやられている」(東浩紀編著・波状言論S改・第一章「脱政治化から再政治化へ」青土社)

「関係性提示」とか「シーンメイキング」などというとなんだという感じだが、関係性提示とは要はロキノンのことだ。シーンメイキングとは限りなくリットー・ミュージックの世界だ。「関係性」の浜崎、「シーン」の西野と考えるとわかりやすいだろうか。西野の音楽は浜崎のようにイビツなところがまったくない、機能性を追及した優秀な青春歌謡だ。浜崎の場合、共通のコードを持たないと理解できないという一種のレベルミュージックとして機能していたが、西野はどういう仕組みの音楽かがハッキリわかるようにできている。歌詞の具体性も含めて、まるでハリウッド映画のようなスキのないプロダクトだ」

司会者「つまり、浜崎の音楽は純文学として聴かれていた。実存の言葉であった。だが、西野の言葉はどっちかというとキャッチコピーみたいなことですかね」

kenzee「そうだね。シーンメイキング、つまりケータイ小説のBGM,という機能に特化した音楽なので小道具のケータイが頻出するのも当然で。だが、実存の小説には元からマトモなコミュニケーションは描かれないんです。「なんでアラブ人撃ったんだ」「太陽がまぶしかったから」といったムチャクチャなコミュニケーションはあっても。西野の歌詞は好きになったり、幸せを感じたり、フラレてボロボロになったりするが、それら全体が「BASED ON A TRUE STORY」的理想のフィクションだ。しかし、浜崎最新アルバム「Rock'n Roll Circus」ではそのような「BASED ON A~」的理想フィクションに痛烈な批評の言葉を向ける。浜崎の手綱はまったくゆるんでいなかった。「Lady Dynamite」や「Sexy Little Things」は浜崎の新境地であり、ここ10年の「フィクション」への批評となっている。西野と浜崎の対立点がようやくボンヤリと見えてきたようだ。次回はいよいよ「Rock'n Roll Circus」論、そして9月22日発表の小室哲哉プロデュースによる「crossroad」に突入することになる」

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