« 2010年11月 | トップページ | 2011年2月 »

2010年12月26日 (日)

ソフトロックとしての長渕(オマケ)

kenzee「よく考えたら木村先生に長渕の凄さを説いてもしょうがないのであった」

司会者「あんまり興味ないと思いますよ」

kenzee「長渕ソングにはね、「俺たちのニライカナイ」っていう琉球地方の理想郷をテーマにした歌もあるんですよ!」

司会者「そんなムリクリ木村先生の興味ありそうな方向に引っ張っていってもムリだよ!」

kenzee「なんで長渕音楽の素晴らしさがマトモに語られないのかというと、結局ジャーナリズムの側が長渕ズムに引っ張られちゃうのね。結果、「俺は長渕を聴いて魂を震わされた。人間の、人生の、男のナントカだ!」みたいな精神論でまとめて終わりだったりするわけです。しかし、ボクの目から見るとその手の音楽ライターはサボってるようにしか見えません」

司会者「音楽の話をしろ、と」

kenzee「ボク、結構冗談抜きで長渕ファンですけど長渕の魂とか興味ないですもん。私が言いたいのは「長渕は時々、凄いポップスの名曲を書く」ということです。長渕の世間一般のイメージといえば演歌調のヤクザ調の男のなかの男で精神力で国粋主義者でファンはみんなガテン系という感じでしょうが大間違いです。長渕とはその辺の渋谷系のカス連中など裸足で逃げ出すほどの見事なポップスの曲を作れるマエストロなのです。実は」

司会者「長渕って「とんぼ」じゃないんですか?」

kenzee「順子とか乾杯とかとんぼとか大麻とかだけで長渕を判断してはいけない。長渕は85年のツアーの後に倒れ、療養生活をしばらく送るのだが、その療養後に発表されたアルバム「STAY DREAM」はアコースティックギター中心の極めて少ない編成で作られたアルバムだ。これ以上はないというくらい内省的な世界で、ボソボソつぶやいていたかと思うと突然絶叫調になるという強迫神経症みたいな唄い方はこのアルバムで完成された。ここから88年あたりまで瀬尾一三以外のアレンジャーと組んだり、実験的なサウンドに取り組んだりと音楽的な意欲を見せる。昨日、部屋の大掃除をしながら長渕曲をを時系列的に一気に聴いたのだが、やはり86年、87年の長渕の天才ぶりは尋常ではない。あの長髪のフォーク青年がここまで多彩な音楽を表現できるようになるとは。しかし、89年の「とんぼ」以降、いわゆる世間のイメージする長渕になってしまう。もし、長渕がドラマ「とんぼ」出演により、ヤクザキャラというコンセプトを手にしていなかったらしばらくは音楽的実験は続いていたのでないかと思うとかえすがえすも残念」

司会者「で、なにがいい曲なんですか(いずれにせよ長渕曲アルバム単位で聴くのはシンドイので一曲コレってヤツ頼む)」

kenzee「長渕の代表曲といえば「乾杯」だ」

司会者「乾杯かよ!」

kenzee「「乾杯」は80年に発表されたが88年に再レコーディングしてシングルカットし、ヒットした。いまや卒業式や結婚式の定番ソングだ。しかし、この国民的とすらいえる88年版シングル「乾杯」のカップリングに爆弾が仕込まれていた。我々、渋谷系世代の60年代ポップス好きなら口ポカ~ンとなってしまう隠れた名曲だ。いわゆるトットタッタトットタッタという60年代のシャッフルビートだ。ジェリー・ロスプロデュースのKeithの「98.6」とかDupreesの「One in A Million」とかSpiral Starecaseの「More Today Than Yesterday」とか山下達郎の「パレード」とかつまりそういう世界だ。シュガーベイブの94年の再発盤の達郎自身による解説で(「素敵なメロディー」のシャッフルビート)今でこそよくあるパターンだが当時は誰もこんな曲調はやらなかった、と書いているがどっこい、長渕という名のソフトロックマエストロがバッチリ88年にシャッフルしていたのだ。ジェームス・テイラーみたいなアコギのイントロで始まるが、後半ドンドン音が厚くなっていくのが圧巻だ。「涙にかわった~」の後のC→B♭/Cの拡がり。高揚感に胸が熱くなる」

司会者「だんだんサバービアの橋本徹さんみたいな文章になってきましたよ」

kenzee「それでは聴いていただこう、長渕剛1988年シングル、「乾杯」のカップリング、作詞、作曲長渕剛、編曲、中西康晴(元サウス・トゥ・サウス、小沢健二ファースト全曲、2nd「LIFE」にも参加、例えばブギーバックのピアノ)による、日本のソフトロックの名曲「THANK YOU WOMAN」! これで木村先生も長渕のトリコだよね!」

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2010年12月23日 (木)

素っ裸の胸にしゃぶりつくための必要経費は?(前回の続き)

kenzee「ハ~ア~バイク通勤は辛いニャ~」

司会者「朝とか辛くないスか」

kenzee「朝、7時15分に家でますねん。8時に会社着きまんねん。片道40分ですねん。とても辛いです」

司会者「電車通勤にしたらどないです?」

kenzee「ハ~ア~ボク電車苦手なんですよね~。こんなオタクなのに滅多に電車乗らないんですよ。そんなボクが昨日、久しぶりに近鉄百貨店という名の巨大ショッピングモールに立ち寄ったのね」

司会者「そんなに巨大じゃないじゃない」

kenzee「さぞかしこの時期クリスマスムード一色だろうと。リア充どもを爆破しようと、やってきたんですけどあんまりクリスマスっぽくなかったですよ。レジ係とか普通にサンタ帽とかかぶってると思ってたんですけど拍子抜けしちゃって。昔のクリスマスってもっとチャラチャラしてましたよね!」

司会者「地方だからかなあ」

kenzee「もっとサンタの格好したギャルとかがニコニコしながらサラ金のティッシュ配ってたりするイメージなんスけど、そんな雰囲気じゃなかったね」

司会者「ゼロ年代前半の風景ですな」

kenzee「で、日本のバブル期のクリスマスブームについての優れた考察に堀井憲一郎さんの「若者殺しの時代」(講談社新書)というのがあります。堀井さんによるといわゆるユーミンさん的な「恋人たちのクリスマス」が始まったのは1983年だと指摘している。1983年12月23日号のアンアンにてクリスマス特集が掲載される。

 「クリスマス特集 今夜こそ彼のハートをつかまえる!」そのなかに「クリスマスの朝はルームサービスで」というページがある。シティホテルに泊まって、朝、ルームサービスで朝食をとろう、という記事だ。(中略)クリスマスを若者向けに商品化するのは1983年のこの記事から始まった。(堀井憲一郎「若者殺しの時代」(講談社新書)」

そしてそれは「若者たち」から金をまきあげようと、日本の社会が動き出す時期でもあった、ということだ。このときに若者に恋愛をけしかけて金を生むシステムが構築された。そして奇しくも1983年は東京ディズニーランドが開園した年でもある。そして「クリスマス・イブ」を収録した山下達郎のアルバム「メロディーズ」が発表されたのも83年だ。堀井さんによればこの「83年の金を生むシステム」が本格的に稼動し始めるのはプラザ合意以後の85年からということだ。ちなみにプラザ合意とはG5蔵相がニューヨークのプラザホテルに集まり、ドルを守るためドル高是正で強調することを取り決めた会議のことだ。その後の日本経済の運命を決めた会議だったといえるが、所要時間はなんとたったの20分だったといわれる。音楽ライター的なことを言えばこの83年は同時に「バブル消費に警鐘を鳴らし続けて夭折した」尾崎豊が17歳でデビューした年でもある。逆にバブル期のキャンパスライフの青春を描き、「女ユーミン」と称され、80年代後半にブレイクすることになる大江千里がデビューしたのも83年だ。この相反する二人のキャラクターが同じソニー系列のメーカーに所属していた。そして89年、JR東海のCM曲「クリスマス・イブ」が初のオリコン一位となるのだが、89年のクリスマスソングといえば忘れられないのがジュン・スカイウォーカーズの「白いクリスマス」DA・YO・NE!」

司会者「忘れていいよ!「し~ろ~い~ク~リ~ス~マッソ~」なんか!」

kenzee「この時代には珍しいマキシシングル仕様の限定盤だ。アルバム未収録ということもあって29万枚も売れました。ここで重要なのは83年における「クリスマスの商品化」同様、89年のバンドブームもまた「若気の至り」の商品化であったということだ。

 とくにバンドブーム期を特徴づけていたのは「青春の商品化」という逆説である。バンドブームが画期的だったことのひとつは、いわゆる「青春の輝き」を身近に感じさせてくれた点である。(中略)もっと青臭いままで青臭いものを表現してもよい。そんな「若気の至り」を許容する風潮が、」未熟で多彩な青年文化を盛り立てていたはずだ。(中略)バンドブームが体現していたのは、より現状肯定的な側面、いわば不良性とは直結しない「健全な青さ」にあり、そこはプライスレスだったはずのピュアな純情やひたむきさこそがもっとも高い商品価値を帯びることになる。(バンドブーム期のバンドが)すぐに「青春パンク」とひとくくりにされ、、パッケージ化されて、商品になってしまう。「そんなの、おかしい」と反抗しても、その態度こそが「青春パンク」の商品性を高めてしまう。こうした消費社会のアイロニーに彼らもファンも、きっと気付いていたはずである。(「青春の変貌」バンドブームの主役復活の意義を考えるー木島由晶(大阪大学助教)別冊宝島音楽誌が書かないJ-POP批評56 JUN SKY WARKER(S)と青春ロック80'sの大逆襲!)

そんな「音楽の内容とは無関係に商品として流通してしまう」状況にジュンスカは歌で異議を唱える。バブル絶頂期に発表された「歩いていこう」(89年作品)には「ランドセル」「悲しすぎる夜」といった批評性、「Let's Go Hibari-hills」(90年作品)においては「やだな」のような当時の音楽シーンに皮肉をこめた楽曲も収録されたがロクに内容に触れられぬまま売れ続けた。

 バンドを組めないわがままな一人ぼっちの大人たち 売れてる人にくっついて夢見る人を馬鹿にする(「やだな」1990年作品アルバム「Let's Go Hibari-hills」収録)

 スターになんか俺はなりたくねえ 楽しい顔も毎日続かねえ 操られた人形のひもを切れ きれいごと並べた雑誌を破れ(「ランドセル」1989年作品アルバム「歩いていこう」収録)

あのバブルの申し子、大江千里もまたこの時期、絶頂期に内省的なアルバム「1234」(88年作品)を発表している。「GLORY DAYS」のようなヒットシングルも収録されているがひっそりと「平凡」「帰郷」「昼グリル」のような重さも同時に抱えた複雑なアルバムだ。

 モスクワでセスナが降りた その晩ベランダで君こういった もう十年普通に生きて ここまできたよと レジを打つ娘を笑う 隣の老夫婦には子供がいない 夕方差し込んだ西陽の熱は床にも膝にもない(大江千里「帰郷」・アルバム「1234」(1988年作品)収録)

 日比谷のグリルで主婦たちが ニックネームで呼んでいる 女学生のように髪を肩で編んで 帰りが遅いと嘆いてる 会話が粗雑と悩んでる 自動ドア踏みつかれた子供が脇にいる(「昼グリル」同アルバム収録)

 「帰郷」はドイツ人マチアス・ルストが1987年にモスクワ「赤の広場」にセスナ機で着陸した事件について歌ったものだ。また「昼グリル」という作品は昼間っからレストランで退屈な日々を井戸端会議で費やす有閑主婦たちを皮肉ったものだ。あの狂騒の時代に発表されたとは信じられない内省的な世界だ。ちょっと話が逸れるけど、95年ごろだったと思うんだけど、大江千里と槇原敬之の対談があったのね。確かソニーマガジンズ系、パチパチだったと思う。もしかしたら月刊カドカワだったかもしれない。その対談で今でもハッキリ覚えているのは槇原のこんな言葉だ。

槇原「ボク、三回関学(関西学院大学。ミッション系。大江千里の母校)受けて三回とも落ちました。人生変わってもいいから関学行きたかったなあと思います」

大江「(笑)」

この大江千里の(笑)のなんと複雑な(笑)か。これほど行間を秘めた(笑)があったか。ここにバブルとポストバブルの断面がある。ワラビーだのプレッピーだのと軽薄なバブル期のキャンパスライフを描いて一世を風靡した大江だが、バブル崩壊と同時にその価値観もゆるやかに崩壊していった。その時代の変化をもっとも敏感に感じていたのは大江自身だっただろう。対して槇原は、それほどキャンパスライフに憧れながら、結局、キャンパスライフを描かなかった作家だ。必然的に槇原ソングは後にロスジェネと呼ばれるフリーター、非正規労働者の若者たちの青春群像を描いて絶大な支持を得た。なんという皮肉な構図か。キャンパスライフを掴むことのできなかった槇原は後に国民的と呼ばれるほどのシンガーソングライターに成長する」

司会者「その対談がどこで行われたか調べるのが批評家の仕事じゃない。大宅壮一文庫データベースへGO!」

kenzee「そして大江ならずとも誰もがこの狂騒に疑問を持ち始めていた。

みんな、どこかおかしいと気付いていた。誰かとめてくれよ、とおもいつつ拡大していったのだ。(堀井憲一郎「若者殺しの時代」(講談社新書)」

そしてとうとう1990年には一般雑誌でクリスマス批判が始まる。

「クリスマスに彼女とHしたかったらホテル一流、贈り物給料一か月分だと」(週刊テーミス)

「ホテル、レストランは超満員、若者のクリスマス馬鹿騒ぎ もういいかげんにせんかい」(週刊文春)

「俗悪クリスマスをぶっ潰せ」(週刊プレイボーイ)

こういう記事が1990年になっていっせいに出始めた。馬鹿騒ぎは1990年がピークだった。(前掲書)

1989年の大納会である12月29日に日経平均株価は38,915円87銭という過去最高値を記録したが1990年10月には20,000円を割ることとなり、暴落した。なので、90年になって経済は混乱してるのに若いヤツラはクリスマスだフレンチだセックスだとアホか!という論調はオッサン雑誌としてはまっとうなリアクションなのだ。今、振り返るとジュンスカや大江千里がバブル崩壊直前に抱いていた不安感や焦燥感こそが真のリアリズムだったのではないかと思えてくる。先頭を走っている者だけに見える真実があったのだ。そして翌1991年には当時人気の絶頂にあった長渕剛がアルバム「JAPAN」を発表する。ここに収録された「I love you」という一曲は当時の風俗や若者文化や意識を研究するうえで、今となっては第一級の資料といえる、バブルに対する明確な批判である。

 「私には私の生きかたがある」とか 「自立した女の気持ちがなぜわからないの」だとか どこそこのレストランで地中海料理を食べるだとか 「イタめしにエスニック ボルシチなんかも最高よね」っていいながら そんなことより俺はお前をベッドに引きずり込み 素っ裸のお前の胸にしゃぶりつく I love youそうだろう I love youきっとそうだよね 服を着るならARMANIがいいとかVERSACEだとか 靴を履くならFERRAGAMOがいいとかJOURDANがいいとか バッグを持つならCHANELがいいとかPRADAだとか スカーフはHERMESよ 金持ちのボンボンからもらったTIFFANYのオープンハートのネックレス そりゃお前が並べた一流って意味もわかるけど 愛し貫く覚悟や怖さを知る一流になりたい 男が愛をわたす時 女がそれを受け入れる時 もっと大事なことは互いのつきあいが一流かどうかってことだろう (長渕剛「I love you」アルバム「JAPAN」(91年作品)収録)

司会者「で、でた~ティファニーのオープンハートて!」

kenzee「長渕さん、ブランド名よう知ってますよね。多分、最近のギャルより知ってますよ」

司会者「最近のギャルはブランドとかいう方向性じゃないからなあ」

kenzee「あとにも先にも、こんなに長渕歌詞に固有名詞が登場するのはこの曲だけだ。ただし、前回のLifeにて柳瀬さんもおっしゃっていたようにティファニーのオープンハートは「金持ちのボンボンがプレゼントするアイテムではなくて一般ピープルでもちょっと背伸びすれば手が届く手頃感がよかったのです。ちなみに「日本最初のティファニーのブティックが三越日本橋店にオープンしたのは1972年。90年には日本法人を設立。同年暮れには、彼女にオープンハートを頼まれて買えなかった男に「売り切れ証明書」を発行するほどの人気に。」by気まぐれコンセプトクロニクル・ホイチョイプロダクションズ(小学館)

司会者「長渕さんもそんな地中海とかティファニーとかいうようなしょうもない女サッサと別れればいいのに」

kenzee「しかし、素っ裸の胸にはしゃぶりつきたいので、一定の投資はいたしかたないのであった。ちょっと話が逸れるけどこの「I love you」を聴くとね、長渕剛とは正しく関西フォークの影響を受けたアングラフォークの末裔だということがわかるね。話の持っていきかたが完全に高石ともやの「受験生ブルース」とか友部正人の「乾杯」とかと一緒なんですよ」

司会者「吉田拓郎の「青春の詩」とかね」

kenzee「つまり、「各論があって、総論がくる」というこのフォークの伝統。さだまさしとかまで含めて昔のフォークってみんなそう。心象風景とかやりだした松本隆がおかしかったのだ。このフォークの伝統芸は松本隆の歌詞がベストテンの上位を常時占めるようになった80年代以降、忽然と姿を消してゆく。90年代に再びこの伝統芸、各論→総論というもっていきかたを受け継いだのはライムスターだと思うのだ」

司会者「Dさんの各論に宇多丸師匠の総論!」

kenzee「そういうことですよ。ライムスターとは現代の高石ともやだったのだ。どうりで深夜ラジオの帝王なわけだ」

司会者「ホントかなあ」

kenzee「実は極秘筋からの情報だが2010年代はこの「各論→総論」の「漫談ソング」がクるのだ。もう、心の内面がドウタラとかまったく流行らなくなります。結局ポストモダン状況が進行すると人々は情報量に価値をおくようになり、心情とか内面とか情報価値が計りにくいものをオミットするようになる。とりあえず来年あたりは高田渡と加川良が再ブレイクします」

司会者「ホントかなあ」

kenzee「あと、映画とかもとりあえずアレもコレも編集しときました、みたいな「てなもんやコネクション」とかたけしの「みんな~やってるか!」みたいなヤッツケ映画ほど「情報量が多い」という理由で名画扱いされます。…それが…テン年代……」

司会者「小沢健二さんが憤死しそうな時代だなあ。ていうか今さらYoshi口調かよ!」

kenzee「でね、大江さんにせよ、長渕さんにせよシーンの先頭にいた人はなにか不穏なものに気付いていたようなんだね。古市さんのような若い人にはバブル期って不思議に見えるかもしれないが90年にはなにかオカシイとみんなウスウス気付きだしていた。だが、大江さんも長渕さんも尾崎さんもバブルを批判することはできてもバブルに代わる価値観を提示することはできなかった。音楽シーンに最初にポストバブルの価値観を送り込んだのは、91年、まるで予備校帰りかと見紛うようなヌボーっとした青年の歌う「どんなときも。」ではなかったかと思う。「好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたい」と内面に価値を置いた。このとき、J-POPはバブルからポストバブルへと大きく舵をきった。形あるものから内面に価値が移行する気分は4年後、オウム事件へと帰結する。バブル崩壊の後遺症はこのあと、現在に至るまでひきずり続けることになる。それでも。「クリスマス・イブ」は「クリスマス・イブ」であり続けてあるのだ。「クリスマス・イブ」は火の鳥なのか」

司会者「音楽の力ってなんだろう的なことを考えてしまいますね」

kenzee「あれほどカヴァーバージョンが登場しても微動だにしないオリジナルの強さ。でもナゼ、そんなに強いのかはいくら考えてもわからないんだ。音楽の不思議。それでは近年のクリスマスソングの名曲といえば「あなたとクリスマス・イブ」だがSKEのバージョンでクリスマスコントを終わろう」

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2010年12月15日 (水)

人間とは本質的に非リアであることを証明せよ(山下達郎「クリスマス・イブ」)

kenzee「古市さんの本の話の途中ですがクリスマスまでにクリスマス・イブの話をしておこうと思います」

司会者「山下達郎のクリスマス・イブですね」

kenzee「そしてウチの定番になりつつある速水さんの話につっかかる形で物語りは始まるのだった。今、これを読んでいる人の目の前にはブラウザが立ち上がっているという前提でやらせていただきます。まず、文科系トークラジオLife「クリスマス資本論」Part.4をダウンロードしてからお読みください。始まって3分から7分ぐらいのところでユーミンさんの「恋人はサンタクロース」と山下達郎「クリスマス・イブ」についてのトークがあります。83年に発表された曲だが、世間的にブレイクしたのは80年代後半、JR東海CMに使われてからという話です。深津絵里の伝説のCMと語られています」

司会者「そのとおりです」

kenzee「クリスマス・イブは1983年、アルバム「メロディーズ」の最後にひっそりと収められていた隠れた名曲だったのだが、後に国民的ヒットとなり、現在ではスタンダードと化しているのだが1983年から2003年までの20年間に11タイトルも再発が出ている。83年に12インチで限定盤ピクチャーレコード(最高位44位)が登場したのを皮切りに86年に7インチシングル(最高位21位)がリカットされる。ここで注意しなくてはいけないのはこの86年の時点ではまだクリスマス・イブはいかなる形態であれCD化されていない。そしてまだJRのCMどころか国鉄の時代だ。でもすでに21位なのだ」

司会者「もともと売れてたんですね」

kenzee「そして88年、初めてクリスマス・イブがCD化される。例の深津絵里のCMのヒットに乗じて11月10日に初シングルCDが発売された。オリコン最高位は30位だ」

司会者「なんだって! 順位下がっとるガナ!」

kenzee「そうだ。実は88年の時点では未だ「隠れた名曲」だったのだ。「タイアップの歌謡史」の著者さえ見落としてしまう歴史の落とし穴なのだった」

Dvc00003

司会者「しかし、この資料((社)電子情報技術産業協会「民生用電子機器データ集」)によればCDプレーヤーの出荷台数は84年には23万3千台だったのが86年には146万8千台へと急激に伸びています。比例して売れるどころかちょっと下がったとは」

kenzee「そしてこの88年という年はJポップを考える上で重要な年である。「Jポップ」という言葉が生れたのがまさにこの88年なのだ。88年10月、「Jポップ」という言葉の生みの親、FM局「J-WAVE」が開局する。烏賀陽弘道「Jポップとはなにか」(岩波新書)によれば当時のチーフプロデューサー斉藤日出男は「Jポップ」をこう定義したという。

「まず、演歌やアイドルはダメ。サザン、松任谷由実、山下達郎、大滝詠一、や杉真理はいい。が、アリスやチャゲ&飛鳥、長渕剛は違うだろう、と感覚的に決めていった」「洋楽と肩を並べることができる、センスのいい洋楽」「洋楽の何に影響を受けたかはっきりわかる洋楽」

ということのようだ。今、読み返して不思議なのはユーミンさんは洋楽的なサウンドと受け取られていたということだね。しかし、初シングル化したクリスマス・イブはこの波にイマイチ乗り切れなかった。クリスマス・イブが真の爆発を起こすのは翌年の1989年のことだ。89年版のシングルCDは盤面のデザインを一新し、二種類のものが作られた。そして再び、JR東海のCMのタイアップとなった。89年版は牧瀬里穂が出演した。そして89年のクリスマス・イブを語るうえで忘れてはならないのは映画「君は僕をスキになる」の主題歌でもあったということだ。山田邦子、斉藤由貴、大江千里らが主演のバブル期らしいラブコメディーだ。この映画で野島伸司は初脚本を手掛けた。この89年にクリスマス・イブは初めてオリコン一位となった!」

司会者「そんな鬼の首とったみたいに言わなくてもいいジャン!」

kenzee「我々はクリスマス・イブというとすぐ深津絵里や牧瀬里穂を想起するが、同時に山田邦子も思い出さなければならないのだった。これ以降、クリスマス・イブは快進撃を続ける。翌90年にはみたび、JR東海CMタイアップ、今度は高橋理奈出演で余裕でオリコン一位。しかも90年にはシングルカセットも同発され、B面にてはじめてオリジナルカラオケが収録された。翌年は91年もやはりJR東海CM,今度は溝渕美保出演でした。そしてPVのビデオとレーザーディスクがでました。(TATSU YAMASHITA PRESENTS CHRISTMAS IN NEW YORK) 92年にはシングルCDの盤面を変更、CMのほうは吉本多香美。93年にはアルバム「Season's Greetings」にて英語バージョンが発表された。95年にはベスト盤「トレジャーズ」に収録。そして2000年には初のマキシシングル版で発売。2003年には初のリマスター版が。そして今年は初のPC配信に踏み切り,モーラ等で配信中」

司会者「これが戦後を代表するヒット曲というものか」

kenzee「それにしてもクリスマス・イブは怪物すぎる。ユーミンさんや稲垣潤一のクリスマスソングはバブル崩壊とともに忘れ去られたが、山下達郎のクリスマス・イブは驚異的な生命力で生き残りつづけるのだ。速水さんはキックザカンクルーのカヴァーについて言及されたが、国内だけでもクリスマスイブのカヴァーは無数にある。知ってる限りを列挙していこう。藤澤ノリマサ、エリック・マーティン(2009年)、CHEMISTRY(2008年)、女子十二楽坊(2005年)、Rin'(2004年)、キックザカンクルー、shela、half dozen、上松美香(2001年)Smooth Ace(2002年)他にもいっぱいあるはずです。また、嘉門達夫の替え歌メドレーにも登場します。そしてキックのカヴァーについて山下氏があまり快く思っていないという速水さんとチャーリーさんの話だが(23分ごろ)山下氏自身はキックのカヴァーを好意的に受け止めていたようだ。

 もともと(山下達郎の音楽は)インディーの色は濃厚にあるんだよ。サブカルチャーの匂いのおかげで今こうしてリサイクルさせてもらってるっていうか。キックザカンクルーが「クリスマス・イブ」をラップでやってくれるご時世になったのかってことだよね。ご多分にもれず、いろんなところで色々言われるけど、少なくとも僕自身は素直に幸福なことだと思ってる。僕はどこまで行ってもサブカルチャーの出だからね。(TATSURO MANIA No.40 2001WINTER)

また、この2001年ごろ、日本のヒップホップ界隈では日本のレアグルーヴのブームみたいなのがあって、MOOMINの「Windy Lady」のカヴァーとかMUROが「SPARKLE」のイントロをサンプリングしたりとか、「DANCER」がハウスの文脈でプレイされたりといった現象があった。こうしたカルチャーを背景に大ネタ「クリスマスイブ」のサンプリングにキックは踏み切った。ところでクリスマス・イブは速水さんも言ってるが「きっと君はこない」という日本のクリスマス・ソング史上ありえない非リアソングなのね。夢も希望もないあきらめソングなのです。ボクは「クリスマス・イブ」だけがナゼこれほどの驚異的な生命力を保持しているかを考えるんだけど、この「消費の同調圧力」に本来的に与していない、というところが最大のポイントだったのではないかと思うのだ。「クリスマス・イブ」の歌詞の凄いところは主人公がなにも消費しなさそう、ということだ。イタメシを食いにいくのでもなければ、ホテルに泊まる気配もない」

司会者「彼女、来ませんからね」

kenzee「そして主人公の男は雪の降りしきるなかを「サ~イレンナ~イ、ホ~リ~ナ~イ」などと自嘲気味につぶやくのだ。なんという痛々しい情景か。しかし、この国の国民がもっとも支持したクリスマス・ソングがコレなのだ。因みにこの歌詞はシュガーベイブ時代に別の曲で原型があったのだという。

 「雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう」という歌詞はシュガーベイブ時代に作った曲の一部で、それがいきなり頭によみがえったの。だから歌詞は15分ぐらいで書き上げた。(TATSURO MANIA N0.16 Winter)

ここからクリスマス・イブの歌詞分析に突入するわけだが山下達郎の歌詞は大きくわけて4つぐらいのカテゴリーにわけることができるのね。まず、「パレード」や「ダウンタウン」に代表される「とにかくハッピー」な60年代ポップスの世界。そして「ライドオンタイム」「ラブランド、アイランド」「スパークル」などに代表される「ブワーっとイメージだけが羅列されるような」詩的なイマジネーション路線。そして「ずっと一緒さ」「FOREVER MINE」「さよなら夏の日」「ゲットバックインラブ」に代表されるドロドロの「君を愛してる」ラブソング路線。そして最後が「Windy Lady」「Paper Doll」「メリーゴーラウンド」など16ビートのソウルの曲のみに登場する「恋愛とかクダラナイよボク非モテなんでヨロ」ペシミスティック路線だ。あと、オマケとしてアラン・オデイの英語詩路線というのもある。で、クリスマス・イブのような典型的な60年代ポップス路線の曲の場合、通常、パレード、ダウンタウン的な歌詞を乗せるのね、達郎さんは」

司会者「最近なら、「Happy Gathering Day」「Love Goes On」などがハッピー路線ですね」

kenzee「ところがさ、クリスマスイブは通常16ビート曲にしか使わない「ペシミスティック路線」なのさ。ここで確認しておかなければならないのは山下達郎自信は決して非リアでも非モテでもないのね」

司会者「まりやはんですからにゃあ」

kenzee「つまり山下達郎のペシミスティック路線とは「リア充氏ね」とかいった矮小な問題ではなく、もっと根源的な問題をはらんでいるのだ。山下達郎は激動の69年を新宿の高校で過ごした。あの時代の高揚を10代の目で目撃した人だ。高校卒業時には留年寸前だったという話だ。ていうかホントは単位とか足りてなかったそうだが高校でも運動とかバリ封とかあって授業とかなくなったりとかあってドサクサに紛れて卒業したということだ。そして、その後の運動の「敗北」もしっかり目撃することになる。

 (山下達郎の歌詞とは)政治の季節を抜け出してきた喪失感と、人間が作った制度に対する不信。それと東京という都市がオリンピックからオイル・ショックを経て、その後もどんどん変わっていく。そういうときの違和感。「都市生活者の疎外」は僕の永遠のテーマだから。(QUICK JAPAN Vol.62 Endless Groovin' 山下達郎インタビュー)

クリスマス・イブのペシミズムとは高度成長期の日本の時代性への違和感であったのだが、その威力はそのまま89年の空前の消費社会にも向けられたのだ。喪失感と不信感。その負のエネルギーが結果的にクリスマス・イブに消費されない生命力を与えたのだ。それでは最後に、クリスマス・イブが「Jポップ」などではなく、ロックンロールなのだということがよくわかるバージョンを聴いていただこう。ベース、ピアノ、アコースティックギターの小編成によるクリスマス・イブ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年11月 | トップページ | 2011年2月 »