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素っ裸の胸にしゃぶりつくための必要経費は?(前回の続き)

kenzee「ハ~ア~バイク通勤は辛いニャ~」

司会者「朝とか辛くないスか」

kenzee「朝、7時15分に家でますねん。8時に会社着きまんねん。片道40分ですねん。とても辛いです」

司会者「電車通勤にしたらどないです?」

kenzee「ハ~ア~ボク電車苦手なんですよね~。こんなオタクなのに滅多に電車乗らないんですよ。そんなボクが昨日、久しぶりに近鉄百貨店という名の巨大ショッピングモールに立ち寄ったのね」

司会者「そんなに巨大じゃないじゃない」

kenzee「さぞかしこの時期クリスマスムード一色だろうと。リア充どもを爆破しようと、やってきたんですけどあんまりクリスマスっぽくなかったですよ。レジ係とか普通にサンタ帽とかかぶってると思ってたんですけど拍子抜けしちゃって。昔のクリスマスってもっとチャラチャラしてましたよね!」

司会者「地方だからかなあ」

kenzee「もっとサンタの格好したギャルとかがニコニコしながらサラ金のティッシュ配ってたりするイメージなんスけど、そんな雰囲気じゃなかったね」

司会者「ゼロ年代前半の風景ですな」

kenzee「で、日本のバブル期のクリスマスブームについての優れた考察に堀井憲一郎さんの「若者殺しの時代」(講談社新書)というのがあります。堀井さんによるといわゆるユーミンさん的な「恋人たちのクリスマス」が始まったのは1983年だと指摘している。1983年12月23日号のアンアンにてクリスマス特集が掲載される。

 「クリスマス特集 今夜こそ彼のハートをつかまえる!」そのなかに「クリスマスの朝はルームサービスで」というページがある。シティホテルに泊まって、朝、ルームサービスで朝食をとろう、という記事だ。(中略)クリスマスを若者向けに商品化するのは1983年のこの記事から始まった。(堀井憲一郎「若者殺しの時代」(講談社新書)」

そしてそれは「若者たち」から金をまきあげようと、日本の社会が動き出す時期でもあった、ということだ。このときに若者に恋愛をけしかけて金を生むシステムが構築された。そして奇しくも1983年は東京ディズニーランドが開園した年でもある。そして「クリスマス・イブ」を収録した山下達郎のアルバム「メロディーズ」が発表されたのも83年だ。堀井さんによればこの「83年の金を生むシステム」が本格的に稼動し始めるのはプラザ合意以後の85年からということだ。ちなみにプラザ合意とはG5蔵相がニューヨークのプラザホテルに集まり、ドルを守るためドル高是正で強調することを取り決めた会議のことだ。その後の日本経済の運命を決めた会議だったといえるが、所要時間はなんとたったの20分だったといわれる。音楽ライター的なことを言えばこの83年は同時に「バブル消費に警鐘を鳴らし続けて夭折した」尾崎豊が17歳でデビューした年でもある。逆にバブル期のキャンパスライフの青春を描き、「女ユーミン」と称され、80年代後半にブレイクすることになる大江千里がデビューしたのも83年だ。この相反する二人のキャラクターが同じソニー系列のメーカーに所属していた。そして89年、JR東海のCM曲「クリスマス・イブ」が初のオリコン一位となるのだが、89年のクリスマスソングといえば忘れられないのがジュン・スカイウォーカーズの「白いクリスマス」DA・YO・NE!」

司会者「忘れていいよ!「し~ろ~い~ク~リ~ス~マッソ~」なんか!」

kenzee「この時代には珍しいマキシシングル仕様の限定盤だ。アルバム未収録ということもあって29万枚も売れました。ここで重要なのは83年における「クリスマスの商品化」同様、89年のバンドブームもまた「若気の至り」の商品化であったということだ。

 とくにバンドブーム期を特徴づけていたのは「青春の商品化」という逆説である。バンドブームが画期的だったことのひとつは、いわゆる「青春の輝き」を身近に感じさせてくれた点である。(中略)もっと青臭いままで青臭いものを表現してもよい。そんな「若気の至り」を許容する風潮が、」未熟で多彩な青年文化を盛り立てていたはずだ。(中略)バンドブームが体現していたのは、より現状肯定的な側面、いわば不良性とは直結しない「健全な青さ」にあり、そこはプライスレスだったはずのピュアな純情やひたむきさこそがもっとも高い商品価値を帯びることになる。(バンドブーム期のバンドが)すぐに「青春パンク」とひとくくりにされ、、パッケージ化されて、商品になってしまう。「そんなの、おかしい」と反抗しても、その態度こそが「青春パンク」の商品性を高めてしまう。こうした消費社会のアイロニーに彼らもファンも、きっと気付いていたはずである。(「青春の変貌」バンドブームの主役復活の意義を考えるー木島由晶(大阪大学助教)別冊宝島音楽誌が書かないJ-POP批評56 JUN SKY WARKER(S)と青春ロック80'sの大逆襲!)

そんな「音楽の内容とは無関係に商品として流通してしまう」状況にジュンスカは歌で異議を唱える。バブル絶頂期に発表された「歩いていこう」(89年作品)には「ランドセル」「悲しすぎる夜」といった批評性、「Let's Go Hibari-hills」(90年作品)においては「やだな」のような当時の音楽シーンに皮肉をこめた楽曲も収録されたがロクに内容に触れられぬまま売れ続けた。

 バンドを組めないわがままな一人ぼっちの大人たち 売れてる人にくっついて夢見る人を馬鹿にする(「やだな」1990年作品アルバム「Let's Go Hibari-hills」収録)

 スターになんか俺はなりたくねえ 楽しい顔も毎日続かねえ 操られた人形のひもを切れ きれいごと並べた雑誌を破れ(「ランドセル」1989年作品アルバム「歩いていこう」収録)

あのバブルの申し子、大江千里もまたこの時期、絶頂期に内省的なアルバム「1234」(88年作品)を発表している。「GLORY DAYS」のようなヒットシングルも収録されているがひっそりと「平凡」「帰郷」「昼グリル」のような重さも同時に抱えた複雑なアルバムだ。

 モスクワでセスナが降りた その晩ベランダで君こういった もう十年普通に生きて ここまできたよと レジを打つ娘を笑う 隣の老夫婦には子供がいない 夕方差し込んだ西陽の熱は床にも膝にもない(大江千里「帰郷」・アルバム「1234」(1988年作品)収録)

 日比谷のグリルで主婦たちが ニックネームで呼んでいる 女学生のように髪を肩で編んで 帰りが遅いと嘆いてる 会話が粗雑と悩んでる 自動ドア踏みつかれた子供が脇にいる(「昼グリル」同アルバム収録)

 「帰郷」はドイツ人マチアス・ルストが1987年にモスクワ「赤の広場」にセスナ機で着陸した事件について歌ったものだ。また「昼グリル」という作品は昼間っからレストランで退屈な日々を井戸端会議で費やす有閑主婦たちを皮肉ったものだ。あの狂騒の時代に発表されたとは信じられない内省的な世界だ。ちょっと話が逸れるけど、95年ごろだったと思うんだけど、大江千里と槇原敬之の対談があったのね。確かソニーマガジンズ系、パチパチだったと思う。もしかしたら月刊カドカワだったかもしれない。その対談で今でもハッキリ覚えているのは槇原のこんな言葉だ。

槇原「ボク、三回関学(関西学院大学。ミッション系。大江千里の母校)受けて三回とも落ちました。人生変わってもいいから関学行きたかったなあと思います」

大江「(笑)」

この大江千里の(笑)のなんと複雑な(笑)か。これほど行間を秘めた(笑)があったか。ここにバブルとポストバブルの断面がある。ワラビーだのプレッピーだのと軽薄なバブル期のキャンパスライフを描いて一世を風靡した大江だが、バブル崩壊と同時にその価値観もゆるやかに崩壊していった。その時代の変化をもっとも敏感に感じていたのは大江自身だっただろう。対して槇原は、それほどキャンパスライフに憧れながら、結局、キャンパスライフを描かなかった作家だ。必然的に槇原ソングは後にロスジェネと呼ばれるフリーター、非正規労働者の若者たちの青春群像を描いて絶大な支持を得た。なんという皮肉な構図か。キャンパスライフを掴むことのできなかった槇原は後に国民的と呼ばれるほどのシンガーソングライターに成長する」

司会者「その対談がどこで行われたか調べるのが批評家の仕事じゃない。大宅壮一文庫データベースへGO!」

kenzee「そして大江ならずとも誰もがこの狂騒に疑問を持ち始めていた。

みんな、どこかおかしいと気付いていた。誰かとめてくれよ、とおもいつつ拡大していったのだ。(堀井憲一郎「若者殺しの時代」(講談社新書)」

そしてとうとう1990年には一般雑誌でクリスマス批判が始まる。

「クリスマスに彼女とHしたかったらホテル一流、贈り物給料一か月分だと」(週刊テーミス)

「ホテル、レストランは超満員、若者のクリスマス馬鹿騒ぎ もういいかげんにせんかい」(週刊文春)

「俗悪クリスマスをぶっ潰せ」(週刊プレイボーイ)

こういう記事が1990年になっていっせいに出始めた。馬鹿騒ぎは1990年がピークだった。(前掲書)

1989年の大納会である12月29日に日経平均株価は38,915円87銭という過去最高値を記録したが1990年10月には20,000円を割ることとなり、暴落した。なので、90年になって経済は混乱してるのに若いヤツラはクリスマスだフレンチだセックスだとアホか!という論調はオッサン雑誌としてはまっとうなリアクションなのだ。今、振り返るとジュンスカや大江千里がバブル崩壊直前に抱いていた不安感や焦燥感こそが真のリアリズムだったのではないかと思えてくる。先頭を走っている者だけに見える真実があったのだ。そして翌1991年には当時人気の絶頂にあった長渕剛がアルバム「JAPAN」を発表する。ここに収録された「I love you」という一曲は当時の風俗や若者文化や意識を研究するうえで、今となっては第一級の資料といえる、バブルに対する明確な批判である。

 「私には私の生きかたがある」とか 「自立した女の気持ちがなぜわからないの」だとか どこそこのレストランで地中海料理を食べるだとか 「イタめしにエスニック ボルシチなんかも最高よね」っていいながら そんなことより俺はお前をベッドに引きずり込み 素っ裸のお前の胸にしゃぶりつく I love youそうだろう I love youきっとそうだよね 服を着るならARMANIがいいとかVERSACEだとか 靴を履くならFERRAGAMOがいいとかJOURDANがいいとか バッグを持つならCHANELがいいとかPRADAだとか スカーフはHERMESよ 金持ちのボンボンからもらったTIFFANYのオープンハートのネックレス そりゃお前が並べた一流って意味もわかるけど 愛し貫く覚悟や怖さを知る一流になりたい 男が愛をわたす時 女がそれを受け入れる時 もっと大事なことは互いのつきあいが一流かどうかってことだろう (長渕剛「I love you」アルバム「JAPAN」(91年作品)収録)

司会者「で、でた~ティファニーのオープンハートて!」

kenzee「長渕さん、ブランド名よう知ってますよね。多分、最近のギャルより知ってますよ」

司会者「最近のギャルはブランドとかいう方向性じゃないからなあ」

kenzee「あとにも先にも、こんなに長渕歌詞に固有名詞が登場するのはこの曲だけだ。ただし、前回のLifeにて柳瀬さんもおっしゃっていたようにティファニーのオープンハートは「金持ちのボンボンがプレゼントするアイテムではなくて一般ピープルでもちょっと背伸びすれば手が届く手頃感がよかったのです。ちなみに「日本最初のティファニーのブティックが三越日本橋店にオープンしたのは1972年。90年には日本法人を設立。同年暮れには、彼女にオープンハートを頼まれて買えなかった男に「売り切れ証明書」を発行するほどの人気に。」by気まぐれコンセプトクロニクル・ホイチョイプロダクションズ(小学館)

司会者「長渕さんもそんな地中海とかティファニーとかいうようなしょうもない女サッサと別れればいいのに」

kenzee「しかし、素っ裸の胸にはしゃぶりつきたいので、一定の投資はいたしかたないのであった。ちょっと話が逸れるけどこの「I love you」を聴くとね、長渕剛とは正しく関西フォークの影響を受けたアングラフォークの末裔だということがわかるね。話の持っていきかたが完全に高石ともやの「受験生ブルース」とか友部正人の「乾杯」とかと一緒なんですよ」

司会者「吉田拓郎の「青春の詩」とかね」

kenzee「つまり、「各論があって、総論がくる」というこのフォークの伝統。さだまさしとかまで含めて昔のフォークってみんなそう。心象風景とかやりだした松本隆がおかしかったのだ。このフォークの伝統芸は松本隆の歌詞がベストテンの上位を常時占めるようになった80年代以降、忽然と姿を消してゆく。90年代に再びこの伝統芸、各論→総論というもっていきかたを受け継いだのはライムスターだと思うのだ」

司会者「Dさんの各論に宇多丸師匠の総論!」

kenzee「そういうことですよ。ライムスターとは現代の高石ともやだったのだ。どうりで深夜ラジオの帝王なわけだ」

司会者「ホントかなあ」

kenzee「実は極秘筋からの情報だが2010年代はこの「各論→総論」の「漫談ソング」がクるのだ。もう、心の内面がドウタラとかまったく流行らなくなります。結局ポストモダン状況が進行すると人々は情報量に価値をおくようになり、心情とか内面とか情報価値が計りにくいものをオミットするようになる。とりあえず来年あたりは高田渡と加川良が再ブレイクします」

司会者「ホントかなあ」

kenzee「あと、映画とかもとりあえずアレもコレも編集しときました、みたいな「てなもんやコネクション」とかたけしの「みんな~やってるか!」みたいなヤッツケ映画ほど「情報量が多い」という理由で名画扱いされます。…それが…テン年代……」

司会者「小沢健二さんが憤死しそうな時代だなあ。ていうか今さらYoshi口調かよ!」

kenzee「でね、大江さんにせよ、長渕さんにせよシーンの先頭にいた人はなにか不穏なものに気付いていたようなんだね。古市さんのような若い人にはバブル期って不思議に見えるかもしれないが90年にはなにかオカシイとみんなウスウス気付きだしていた。だが、大江さんも長渕さんも尾崎さんもバブルを批判することはできてもバブルに代わる価値観を提示することはできなかった。音楽シーンに最初にポストバブルの価値観を送り込んだのは、91年、まるで予備校帰りかと見紛うようなヌボーっとした青年の歌う「どんなときも。」ではなかったかと思う。「好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたい」と内面に価値を置いた。このとき、J-POPはバブルからポストバブルへと大きく舵をきった。形あるものから内面に価値が移行する気分は4年後、オウム事件へと帰結する。バブル崩壊の後遺症はこのあと、現在に至るまでひきずり続けることになる。それでも。「クリスマス・イブ」は「クリスマス・イブ」であり続けてあるのだ。「クリスマス・イブ」は火の鳥なのか」

司会者「音楽の力ってなんだろう的なことを考えてしまいますね」

kenzee「あれほどカヴァーバージョンが登場しても微動だにしないオリジナルの強さ。でもナゼ、そんなに強いのかはいくら考えてもわからないんだ。音楽の不思議。それでは近年のクリスマスソングの名曲といえば「あなたとクリスマス・イブ」だがSKEのバージョンでクリスマスコントを終わろう」

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コメント

よろしくお願いします。文学の本質は非リアでしょう、カフカも深沢七郎もヴァージニア・ウルフも三島由紀夫も。私も。たぶん。
友部さんの曲名は「乾杯」ではなく「一本道」ではないでしょうか。

投稿: 講談社から新刊でました | 2010年12月26日 (日) 03時22分

見知らぬ人へ、おめでとうは買いました。年末年始はコレと文芸誌の一月号を読んですごしますです。長渕剛はオフィシャルには「少年時代にラジオで友部正人の一本道を聴いてフォークに目覚め、音楽を志した」ということになってます。しかし、長渕の初期のアルバムを聴けばそうとう広範囲のフォークミュージックに通じていたことがわかる。長渕と長渕以前のフォークの人々との決定的な違いは楽器が上手いことと(2004年の桜島ライブのCDを聴くと「夏祭り」のスリーフィンガーのイントロの途中で「オレ、なんでこんな上手いの?」と7万5千人の聴衆にに問いかけるシーンがあります)明確な歌メロがあること。友部正人の歌詞には大きく分けると「一本道」のような私小説タイプと「大阪へやってきた」「トーキング自動車レースブルース」「乾杯」のようなジャーナリズムタイプの2つの路線があると思います。友部の「乾杯」は連合赤軍事件についてですが、長渕曲にもときどき社会批評が登場します。このジャーナリズム路線は友部のみならず、当時のURC系のフォークシンガーの定番であったようだ。高田渡の3億円事件の歌とか。岡林の「それで自由になったのかい」とか。だが、70年代も後半になるとそのようなジャーナリズム路線は影を潜めてゆく。多分、吉田拓郎の「アジアの片隅で」(1980年作品)あたりが最後か。長渕はフォークの末裔のなかでも唯一、メジャーでジャーナリズム路線を受け継いだアーティストだと思います。「お家へかえろう」(1990年作品)I love you(1991年作品)静かなるアフガン(2002年作品)といった社会批評は友部、岡林、高田渡、加川良、拓郎の影響を見ることができる。もちろん「一本道」のような私小説の世界が長渕の本道であることは確かですが。

投稿: kenzee | 2010年12月26日 (日) 16時59分

(続き)ところでどうして長渕剛は日本の音楽ジャーナリズムから無視されているのでしょう。たとえば矢沢永吉や吉田拓郎は日本のロック史にキチンと位置づけられていますが、「ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版―日本ロック&フォーク・アルバム大全 」あるいは「 日本のロック/フォーク・アルバム・ベスト100」のような本にも長渕は登場しません。また、「THE GROOVY 90'S~90年代日本のロック/ポップ名盤ガイド」のような90年代の日本のロック史のなかにシャ乱Qが登場しないのも残念です。この調子でいくと将来、西野カナは日本のロック史に位置づけられますが浜崎あゆみは無視されることになるでしょう。しかし、その評価軸はあまりに場当たり的です。「長渕はイヤだけど矢沢はアリ」とか「モー娘はイヤだけどAKB48はアリ」といった日本のサブカルチャージャーナリズムにはある種のスノビズムが漂っている。そういえば速水健朗さんは矢沢についてはよく言及されているが長渕についてはどう判断されているのだろう。話が逸れました。そういえばソウルフラワーユニオンは数少ないジャーナリズム路線を受け継いだバンドでしたな。

投稿: kenzee | 2010年12月26日 (日) 17時21分

あ、友部さん『乾杯』で正しかったのですね。すみません。私の勉強不足。この曲は聴いたことがありませんでした。聴かないと・・・
寿町フリーコンサートに友部さんが若いロックバンドと出たとき、『スピーク・ジャパニーズ、アメリカン』という痛快な曲でドヤ街暮らしのオッチャンたちと手を取り合いくるくる踊ったのは忘れられない思い出です。

投稿: 講談社から新刊でました | 2010年12月28日 (火) 15時46分

このブログ初めて見ましたけど、とってもおもしろいですね。
これからもがんばってください。

投稿: biwa | 2011年4月 6日 (水) 16時18分

マッハッハー。どうもありがとう。マッハッハー。でもあんまり真に受けちゃダメだYO。

投稿: kenzee | 2011年4月 6日 (水) 21時11分

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