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ディズニー的想像力、ペンション的想像力(ショッピングモーライゼーションの源流としてのあさま山荘Part.3)

司会者「で、キミは神ではなかったワケだが」

kenzee「金土日三連休のオレをナメるな。前回の免許の話の続きからいこう。あさま山荘のメンバー5人の内、2人の兵士(加藤兄弟、当時二人とも10代)以外の三人は中央委員という指導部であった。このとき、リーダーの坂口弘が25歳、坂東國男25歳、吉野雅邦23歳であった。この3人ともクルマの免許を所持していなかったのだが、坂東も吉野も実はボンボンなのだ。坂東は京都の旅館の息子で、その建物「坂東旅館」は今も現存している。吉野の父親は三菱地所の重役であった。父親が東大卒だったので彼も東大を目指したが、東大受験には失敗し、横浜国立大に進学した。そこで横国大が拠点であった革命左派に入り、運動にのめりこむことになる。つまり、世が世なら彼は相当な社会的地位を得ていただろう。軽井沢の別荘の10や20、所有していてもおかしくない人生だったはずだ」

司会者「それが……違う別荘行ってしまいましたからね」

kenzee「オイオイ、そっちの別荘かーい、っていうね」

司会者「……最近、ツイッターの拡散力によってココ見にくる人、爆発的に増えているのですよ」

kenzee「佐々木俊尚さんのツイートと東浩紀さんのリツイートの影響力たるや。これがツイッター革命なのか」

司会者「だから、誰が見にきてるかわかりませんのであんまりバカなこと言うのは控えましょう」

kenzee「で、そういう人がなんでクルマの免許ぐらい取ってなかったのかな。例えば、時代が3年ほど遡るが、学生運動の時代に自殺した女子学生の手記、高野悦子「二十歳の原点」(新潮文庫)にこんな記述がある。

 特に父母には年代のズレを感じる。父母は若い私たちを認めようとはしない。(中略)父は、元地主の反共主義と僅かのインテリぶりと県庁の管理職からくるものとがまじりあって、その思想が作られている。その思想と私のぶちあたっていくものとの考えとの対立がある。「卒業までには花嫁修業をしろ、お茶、料理、車の免許」。二十歳という年齢にしては私は幼すぎるのかもしれぬ。世間を知らぬバカなのかもしれぬ。(高野悦子「二十歳の原点」)

kenzee「高野の父親も公務員のエライさんであった。加藤兄弟もそうだが、運動にのめりこんでいった学生の親の多くが社会的地位の高い厳格な家庭であった。しかし、高野父の説教は今となっては貴重な資料だ。県庁の管理職という立場は逆にいえば当時の社会的規範をもっともよく理解していた人物ということでもある。その父が「花嫁修行、お茶、料理、車の免許」を同列に語っているのが興味深い」

司会者「ブルジョア階級の象徴としての免許、ということか」

kenzee「お茶、料理といった、「教養」と同列に語られているところにヒントがありそうだ。今や、地方の貧乏フリーターであってもクルマが必需品の生活インフラなのとはずいぶんと捉えられ方が違う。因みに高野悦子自身は結局、免許を取ることなく、1969年6月24日未明、鉄道自殺を遂げる。20歳と6ヶ月であった。しかし、この時代のモータリゼーションの普及には高野父的な教養としての普及ともうひとつの伏線を忘れるわけにはいかない。

 「暴走族」という言葉が一般に使用されはじめ、社会問題となっていったのは1970年代初頭のことだ。なかでも警察による大規模な摘発が始まったとされるのは、1972年の富山事件以降。この富山事件とは、当時、富山県富山市の繁華街を走っていた「サーキット族」を取り締まろうとした警察に反発し、百台以上のサーキット族の車両(4輪、2輪のどちらも)と見物客が、自動車や商店をこわす暴動を起こした事件だ。この富山事件において出動した警官の数は2500名。検挙者数は63名にのぼった。(速水健朗「ケータイ小説的。再ヤンキー化する少女たち」(原書房)

この事件は今や、郊外におけるモータリゼーションの普及の萌芽に思える。おそらく、このときのサーキット族の多くは後に建設業に従事し地方の郊外化、ファスト風土化にもっとも尽力した層だろう。この、モータリゼーションをめぐるまったく異なるふたつの想像力だが、共通点があるように思う。高野父的、「教養」としての免許とサーキット族における、コミュニティに参加する、まさに参加資格としての免許。それらは暗黙の了解としての共同体意識と無意識の排除のシステムを準備するものだった。郊外のショッピングモールとはオープンスペースでありながら、クルマなしに到底たどりつけない場所に存在する。ホームレスや低所得者は立ち寄ることもできないのだ。郊外におけるショッピングモーライゼーションを構築するうえでの前提がこの1972年に蠢いていた。軽井沢レイクニュータウンもまた同様に無意識の排除の感覚があったのではないか。今一度、思想地図βに戻ろう。

 晩年のウォルト・ディズニーは、死の間際にいたるまで、熱心にショッピングモールの視察旅行にでかけていたという。EPCOTというプロジェクト名で呼ばれたウォルトの都市計画とは、中心から等距離の同心円状の都市である。商業地区と居住地区を分離され、それぞれの層をモノレールで結んでいる。(中略)都市同士は独立しており、唯一高速ジェット機によって接続されているだけだ。そして、このEPCOTシティの中心部には核がある。その核に位置するのはホテルや劇場、店舗やマーケットを集積したショッピングモールと、もちろんウォルト自身である。(速水健朗「なぜショッピングモールなのか?」思想地図β(コンテクチュアズ))

 速水「日本初の郊外型ショッピングモールといわれている玉川高島屋S・Cはまさにモータリゼーションや郊外の中流階級の移住が始まっていた1969年にオープンしています。このS・Cの川を挟んだ向こうは、日本でも最大規模のニュータウンである多摩川田園都市であり、自動車での利用を踏まえていたのも確かです。だけど一方でこのニュータウンを開発したのは東急なんですね。(中略)日本のショッピングモール史のスタートからして電鉄会社の強い影響下にあった」(「ショッピングモールから考えるー公共、都市、グローバリズム」(前掲書)

kenzee「軽井沢の多くの別荘地は西武資本であったが地図を見る限り、自動車による移動を前提としていたようだ。それはレイクニュータウンのなにも建物のない造成地でビバークした植垣らがどのように軽井沢へ達したかの記述でも読み取れる。

 (坂口らあさま山荘メンバーと別れ、)道路を下りながら小山をぐるっとまわっていくと、農村と思っていたそこは別荘地だった。私たちはますます混乱してしまった。引き返し、改めて佐久へ行く道を探せばよかったのに、この別荘地を抜ければ佐久にでる道があるだろうと思って別荘地に入っていった。幸い人はまだ誰も通っていなかった。別荘地の端まで来たが、佐久へ行く道などなかった。(中略)二時間ほど歩き回った午前7時頃、別荘地の入り口の近くに来てしまった。そこには商店が立ち並んでいた他、交番もあり、交番の前にはパトカーが停まっていた。私はまずい所に来てしまったと思い、この場から少しでも早く離れようとゲート式の入り口の外へでた。バス停があったので軽井沢へ行って地図を買い、それで位置を確かめてどう行動するか決めることにした。(バスに乗る前は、それでも軽井沢の手前で降りようと思ったが、いざバスに乗ってみると、どこで降りていか見当もつかず、いつの間にか軽井沢にでてしまった。こうなったら一刻も早く軽井沢を離れて小諸に行こう、小諸に行けばあとは地理もわかるから小諸から佐久に行き、佐久から坂口氏たちの所へ戻ろうと考え、金を持っている長谷さんに小諸までの切符を買ってくるよう頼んだ。(植垣康博「兵士たちの連合赤軍」(彩流社))

彼らは7時50分発車の長野行き普通列車に乗り込み、そこで逮捕された。坂口らと別れ、入り口ゲートまで2時間、そこから軽井沢をでる列車に乗るまで1時間。なんと約3時間かかっているのである。(バス乗車時間含む)

Photo

(久能靖「浅間山荘事件の真実」河出文庫)

この写真の手前のほうに大きく道路がカーブしてる所がゲートってヤツかなと思うんだけど、とにかく広大な土地だということがわかる。そして公共交通機関はそのゲートまでしかなかったのだ。つまり、この時代にはまだまだ少数派であっただろう、自家用車を所有する層しか行くことのできないリゾート地であった。

 レイクニュータウンは高級別荘地のイメージが強い軽井沢にサラリーマン向け別荘地を造ろうと南軽井沢の広大なひと山を造成したもので、一区画百坪ぐらいの土地を建物つきで百万円別荘として売り出していた。分譲地の中央にはスイスのレマン湖を模したその名も同じレマン湖という人造湖がある。湖畔に開業した三越が全国網を挙げて販売したこともあってサラリーマンでも持てる別荘として人気が出始めていた。(前掲書)

今や廃墟の立ち並ぶレイクニュータウンだがバブルの頃はスゴかったようだ。ブティックやレストランやホテルが立ち並ぶまさに田中康夫的な世界が現出していたという。日本DEEP案内というサイトで現在のレイクニュータウンの様子が紹介されているが完全にゴーストタウンだ」

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司会者「これは!」

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司会者「悲惨だ」

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kenzee「これが現在のレイクニュータウンだ。そしてこれが今のあさま山荘」

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司会者「往時の面影が」

kenzee「しかし、自家用車という経済力で入場者を判別するゲート、そしてペンション、ホテル、レストランが中核をなし、地元の生活圏から完全に隔離されたゲーテッド・エリア。この軽井沢レイクニュータウンとはディズニーが夢見ていた理想都市を奇妙にドメスティックな形で実現していたとは言えないか」

司会者「ディズニーが描いたのはもっとゴッツイ未来都市みたいな感じだと思いますよ。ただ、貧乏人や危険人物の排除という意味ではディズニー的にも満点だったと思う。まさか原野から銃を持った過激派が現れるとは誰も想定できまい」

kenzee「管理事務所のオヤジのノンキな意見やあさま山荘の玄関の鍵がかかっていなかった事実。それは招かざる客が訪問することが極めて困難であるというアーキテクチャへの信頼からくるものだった」

 レイクニュータウンは山を下って、軽井沢の西に数キロに渡って続いている広い谷間に出たところに位置していた。その仰々しい正門をくぐると小さな人口湖にでた。周囲には、塔などで飾り立てられたはでな彩りの建物が並んでいる。このミニ・ディズニーランドの後ろには樹木の生い茂った山があって、その側面にはさまざまな形の山荘がびっしりと建っていた。まだ自然の残された和美峠を降りてきて目にするには、あまりにも奇妙でとまどいを感じざるをえない光景である。ましてや「銃による殲滅戦」を闘う地としては、まさに滑稽としかいいようがなかった。(パトリシア・スタインホフ「死へのイデオロギーー日本赤軍派」岩波現代文庫)

kenzee「パトリシアさんが現場を訪れたのは1991年2月、丁度バブルがはじけて間もない頃だった。彼女は奇しくもレイクニュータウンを「ミニ・ディズニーランド」と形容していた。では、1972年当時、連合赤軍のメンバーはこの場所をなんと感じていたか」

 私たちは、県境沿いの山道からその道路に移ったが、一旦勘違いすると、あとはとめどもなかった。道路は小さな山を越すと、いきなり大きな造成地のような所に入ってしまった。家が一軒もなく、ただ多くの道路が迷路のように交差し、無数の街燈だけが明るくともっているその光景は異様だった。突然山の中に家が一軒もない町が出現したようで、私たちは完全に混乱し、自分たちがどこにいるのか見当もつかなくなってしまった。(植垣康博「兵士たちの連合赤軍」)

 夜も大分経ってから妙な所へでた。そこは幾つもの丘がきれいに整備され(丸坊主にされ)、丘の間には舗装道路が走り、道路際には一定間隔で多くの水銀灯が煌々と周囲を照らしていて昼間のような明るさだった。人影はまったくなく、山の中に無人街が忽然と出現した感じなのだ。地図にも載っていないのでわれわれは混乱してしまった。しばらく「街」を歩いていると案内板があって、国土開発会社の別荘用分譲地と書いてあった。(坂口弘「あさま山荘1972下巻」彩流社)

よく知られていることだが連合赤軍のメンバーはほとんどが地方出身者である。とくにあさま山荘メンバーは吉野を除いて地方の村落共同体から大学という都市へやってきた田舎者の集団であった。つまり、村落と都市の二つの風景しか知らぬ者たちだった。レイクニュータウンとは彼らが初めて見た「郊外」だった。この後、30年かけて「村落」と「都市」を侵食し、巨大化し、さらにはショッピングモーライゼーションという風景まで現出させることになる「郊外」の原初的な姿であった。この風景にとまどってしまった連合赤軍はもしかしたらこの時点で敗北を約束されていたのかもしれない。ということで次回は宇野常寛さんの論文「郊外文学論ー東京から遠く離れて」へと繋がってゆくのだった」

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