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薔薇とノンフィクションと前段階武装蜂起(中身は音楽の話)

kenzee「真崎寧々というあんまり有名でないAV女優がいます。この人がブログをやっているんですが、まあ普通の日記みたいなブログです。今日はSM系の撮影でしたとか、みんなで寿司食いに行きましたとか。でもね、記事タイトルのつけかたがメチャクチャなの。どっからそんなんでてくんの?っていうくらい宇宙空間なタイトリングなんですよ。ボクもマネしようと思ってやってみました」

司会者「もっと文学とかから学べよう」

kenzee「今でてるQuick Japan97号(ロンブーが表紙にヤツ)にユニゾンスクエアガーデンについて書かせていただきました。ホントにユニゾンについて書く日がくるとはなあ」

司会者「去年、ロキノンジャパン茶化し記事を書こうとしてバッタリ出会ったんだよね」

kenzee「そう。揚げ足とりのはずがユニゾンというスゴイバンドに出会ってしまったのだった。でね、はじめユニゾンについて書くはずじゃなかったんですよ。QJの編集者の方からなにか書きませんかってメールが来てね。ワリと「なんでも好きなのでいいですよ」みたいな感じだったんで「じゃあ連合赤軍について書きます!永田洋子について!」って返事したら「それはちょっと…音楽の話でお願いします」って返ってきて」

司会者「好きなモノって言われたらそうなるよな」

kenzee「3度のメシより連合赤軍のこと考えてるからねえ。音楽かあ。でも。最近の若い人の音楽ってボク全然知らないからなあ」

司会者「キミ……音楽ライター、だよね…」

kenzee「で、ちょうど新譜がでたばかりのユニゾンでいこうと打診したところ「それならOK」と」

司会者「7月発売の新譜「Populus Populus」についてですね」

kenzee「スゴイアルバムです。You Tubeにもうかなりあがってるので、とりあえず聴いて欲しいね。これがキライな人っているのかっていうくらい直球のポップス。もっと爆発的に売れてもおかしくないといつも思うのだが」

司会者「アニメの主題歌まであるのに」

kenzee「雑誌とかでもそんな大きくとりあげないジャン。で、書いてみてわかった。多分QJみたいな雑誌がもっともとりあげにくいタイプのバンドなのだと。結局ね、スゴイ言語化しにくいタイプの音楽なんですよ。もっというと純粋に音楽的な音楽なんですよ。要するになにかの文脈に繋がるものではないので書きにくいのです。これが神聖かまってちゃんとか相対性理論とかだと言語化しやすいのですよ。つまり、かまってちゃんとかはネット文化との親和性みたいな文脈があるでしょ? 「オレたちの仲間」感がスゴイあるわけ。そうなってくると言語化は容易いのですよ。ところがユニゾンのようにただひたすら上手くていいバンドって日本の音楽ジャーナリズムってどう評価していいかわからないんですよ。やっぱりひきこもりのオタク青年が密室で叫んでる、これぞロック、みたいなのが書きやすいのです。社会論にすり替えられるから。音楽の話しないで済むから。そうするとそのプラットホームに乗るものはジャンジャン取り上げられるけど、言語化しにくいものは取り上げられもしない、ということが起こるわけですよ。たぶんオレが知らないだけでユニゾン的なポテンシャルを持ったバンドってもっといるんだと思う。でも「このバンドは上手いです」ではジャーナリズム成り立たないのですね。もちろんジャーナリズムの方がおかしいワケだけど。わかりやすく言いましょう。たぶんQJは山下達郎は取り上げても小田和正はとりあげないだろう。この感覚が理解いただければ日本のサブカルチャーがどういう論理で動いてるかおわかりいただけるかと思う。そういえばユニゾンを知ったのと同時期に世界の終わりというバンドも知ったのだけど、ボクは音楽的な戦略のあるバンドだと思ったの。でも、雑誌で世界の終わり見たら、なんか自前でライブハウス作ってエライ」とか「ボーカルの人とキーボードの人が幼馴染で」とか「ボーカルの人は昔精神を病んでたらしい」とかそんな話ばっかりなんですよ。これほど音楽雑誌って音楽の話しないものかと。世界の終わりは音楽的な取り組みのあるバンドだと思ったんだけど」

司会者「もっと音楽の話しろ、話ですか、いつもの」

kenzee「音楽雑誌って今、岐路に立ってると思いますね。音楽の情報はナタリーとバウンスがあればOKって人がいるんだけど、それはある種の真実なんですよ。それにMy SpaceとYou Tubeがあれば完璧だと。最近、xperiaを買ったんですけどMy Space、You Tube、ニコニコ動画、DOMMUNE、Ustream、全部ストレスなく観れる。さすがドコモ3G回線。これだけあれば結構な音楽生活楽しめるなと思った。オレの予想ではあと3年ぐらいで中高生とかもみんなスマートフォンに乗り換えるようになる。そうなったときに音楽雑誌ってどう進化してるかなとか考えるね。私だってホレ、末端の人だから」

司会者「xperia生活どうですか」

kenzee「スゴイよ。近鉄電車の中でラジコ聴いてても全然途切れないんだもん。スマホ生活になってから急にラジオ聴くようになったねえ」

司会者「音楽生活は豊かですか」

kenzee「どうかな。コリャ便利とか言ってる間に気がついたら身の回りからCD屋さんがキレイサッパリなくなった。山下達郎の新譜は店頭買いしようと思ったの。初回盤があるから。アマゾンだと心配でしょ。で、発売日に買おうと思ったんだけど、ないんだよ」

司会者「初回盤が?」

kenzee「いいや。CD屋が。辛うじて近所のツタヤに販売コーナーがあったんだけど、冗談抜きで6畳ぐらいのスペースなのよ。レンタルは違うよ。レンタルは広大なスペースなのよ。で、なんとか達郎初回盤はゲットしたがユニゾンの新譜はそこには置いてなかったな」

司会者「ニューヨークだと「新譜屋」が全滅したと聞きました」

kenzee「音楽ジャーナリズムはどこへ向かうか。音楽を音楽として言語化する技術。今までほったらかしにしてきたこういう普通のことを考えるときにきてると思うね。実はQJ原稿書くにあたって3つ、プレゼンしたんだ。それは西野カナ新譜とユニゾン新譜と山下達郎新譜なんだけど。で、従来のジャーナリズム感覚でいくと西野が一番やりやすいんだよ。社会論にすり替えられるから。ユニゾンと達郎は難しい。だって純粋に音楽的な音楽だから。ボク的には西野論が自信があったのね。ボツネタなのでここで公開しようかね。

まず、西野カナ新譜「Thank You,Love You」で考えていたことですが、よく西野の歌詞はネット上などで「ケータイ小説っぽい」「会いたくて会いたくて震えるってどんだけ」とか「Jポップのテンプレ並べただけ」などと揶揄の対象になることが多い。しかし、テンプレ集のようなラブソングとは昔からあるもので、例えば90年代以降の小田和正がそうだし、松任谷由実や岡村孝子といったバブル期の女性シンガーソングライターもそうであったはずだ。だが、小田や松任谷の歌詞がネット上で揶揄されることはない。では、西野と彼らの歌詞はなにが違うのか。まず、小田や松任谷の時代は未だ経済が成長することを前提に人生のモデルが形成されていたが西野の時代にはすでに経済成長の神話が崩壊していたということが挙げられる。多くのラブソングは私小説を模して書かれるが、どのような実に「私」を立脚させるかで同じ恋愛の風景であっても違う意味を表出させる。西野のラブソングの特徴は失恋や倦怠期のような恋愛の終わりの光景がほとんどを占める。小田や松任谷にも失恋の歌はあるが、長大な私小説のワンシーンとして機能する。だが、西野はショートコントのように失恋ばかりを繰り返す。これはかつてのラブソングのリアリティが現実に立脚していたのに対して、西野のリアリティが、大塚英志言うところの「まんが的リアリティ」(たとえばミッキーマウスが崖から落ちて包帯でグルグル巻きになって登場するが次の場面では元の姿で駆け回っている、というような平面的リアリティ。戦後の日本のまんが、アニメとはこのような平面的な記号のような肉体にいかに内面の奥行き、肉体的奥行きを与えるかという試行錯誤で進化してきた。詳しくは大塚英志「サブカルチャー文学論「キャラクター小説の起源、起源のキャラクター小説」を参照していただきたい)に立脚しているからといえるのではないか。もはや経済成長の期待できない現実など「私」を立脚させるだけのリアリティを持たない。ならば、むしろまんが的な記号としての恋愛の上に西野のラブソングは成立しているのではないか。つまり、小田や松任谷の主人公が自然主義文学の登場人物だったのに対して西野の登場人物とはライトノベルや「空気系」などと呼ばれるマンガの平面的なキャラクターだと思われる。だからこそ何度失恋し、彼氏に裏切られても平然と蘇り、再び失恋を繰り返すのだ。だが、多くのちゃんねらーに代表されるネットユーザーとは自然主義の私小説としてラブソングを聴いてきた世代であり、そのような耳には西野の平面的なリアリティはコントのように映ってしまうのである。しかし平面的なキャラクターであることが最も支持される状況とはなんと皮肉なのであろう。

というたたき台であった」

司会者「話としちゃまとまってるかも」

kenzee「でもQJ的には音楽寄りの話のユニゾンでヨロとのことだった。達郎はもっと難しい。とにかくすり替えようのない、純粋な音楽だから。「震災を経て、マジメなアルバムになった」なんてのは後付でさ。言語でどうこう言うのが難しいアルバムなんだ。今回もいろんなメディアが「Ray of Hope」をとりあげたけど「6年ぶりのフルアルバム、スゴイ、これぞ達郎マジック」ぐらいのことしかみんな言ってないわけです。確かにその通りなんだけど、それぐらしか言えないのが今の日本の音楽ジャーナリズムなわけです。これでもし「反原発ソング」とかあったらみんな書きやすいと思うよ。まあ達郎に限ってそれはないけど」

司会者「じゃあさ、このヘッポコ音楽ライターに聞きたいけど、今、君はどんな音楽メディアを求めてるの。権利関係とか政治的なアレとかこの際無視して、自由に語ってくれたまいよ」

kenzee「個人的にオレ今こんなんあったらなーというのは音楽のデータ」

司会者「音楽配信なんか今、腐るほどあるだろう!」

kenzee「そのデータじゃなくて、要はCDのブックレットに記載されてる演奏者のクレジットとかどこのスタジオで誰がエンジニアでとかそういうデータだよ。各メーカーが大量に保有している歌詞カードやブックレットをPDF化して配信サイトで売ってほしい。音源のデータ化よりは手間かからないと思うんだ。たとえばみんな「だんご3兄弟」が誰が演奏していたのかとか知りたくないですか?」

司会者「需要はあるかもしれない」

kenzee「ボクにとって音楽の情報とはそういう文字通りの「データ」だな。これは価値あるものですよ。オレなんかの駄文より」

司会者「オイ、音楽ライター」

kenzee「たとえば「ドラム、村上秀一」と入力するとポンタが叩いた曲がズラーっとリストされるとか。そんなデータベースができたらホントにスゴイ。でも、これは音楽メディアというよりメーカーさんに頑張ってもらうしかない話なんだけど。もう音質なんてmp3、128kbpsあれば上等だと思ってるボクだけどこういうデータは詳細なのがほしいなあ」

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コメント

以前枡野さんとモメられた時に書こうと思っていたのですが、
音楽ジャーナリズムなどにおいて、ミュージシャンとは感情や心情の赴くままに曲をつらつら紡いでいくものという「情動神話」みたいなもので全体が覆われているような感じがします。
確かにそれも間違いではないし芸術家としての側面も持っていますが、芸術家って同時に設計士みたいな職人的なところもあるはずですよ。
また、自分の曲が売れて欲しいとか、聴かれる為にどうアピールしようかとかそう考えることだって勿論あるはずです。
だけどそんな営業戦略的なことまで考えるようなのは「ズルい」、つまり商売と音楽、表現とキャラ作りは相容れない、ていうかそこまで考えているはずない、という認識があったから、
ミュージシャン小沢さんへの「戦略」「電通」なんて評し方にあちらが違和感を感じたのかも知れません。
だから、普通は商売をする側が担当するアートワークや広告のことまでいちいち考える渋谷系の面々が珍しがられたり、
椎名林檎が出てきた時にあれだけ多くの音楽誌が騒ぎまくったのも(3rdアルバムの時の偏執的なまでのこだわりっぷりは演出家林檎の集大成だと思います)、
逆に情動のみで曲を紡いでいるCoccoがロキノンでものすごく持て囃されているのも分かります。
なんていうか、物語を作り易い方が書く方もやりやすいけど読む方も安心できるところがあるというか。

投稿: 紅 | 2011年8月20日 (土) 00時39分

ずっと前にユニゾンのときにコメントさせていただいたものです。Quick Japanの記事、読みました。音楽のこと、音のことを純粋に書くのは難しいという視点だとこんなふうになるのかとブログからの類推で興味深かったです。わたしはユニゾンのライブはワンマン、対バン、イベント、フェスふくめて80回近く見ていますが、この前の野音は一つの集大成だったかなと思っています。ここから大きな会場になるか否か、バンドの境目かなと。ただ、売れても売れなくても、何となく3人の音だけのライブはこれが完成形かなと感じました。震災のあとのライブも初の野音もいつもらしい、いつもと同じMCで無駄話をしないところが好きです。ものすごく深くて後ろの空間をつかって美しい音世界を描いていくか、とにかく極端なものを前後不覚に作っていくか、それぐらいしか道が残っていないのじゃないのってこの時代に、前頭葉に必死にはりつくやもりのようなユニゾンは相変わらず大好きなバンドです。

投稿: かぜ | 2011年8月28日 (日) 22時11分

どうもQJ読んでいただきありがとうござます。楽器の位置が高い問題は結構重要なテーマで世界の終わりというバンドのボーカルとギターの人もスゴイ高い位置なんですよ。昔はワリと音楽寄りのバンドでも低めに持つ傾向があった。クラムボンのミトとか。もっと驚きなのはユニゾン斎藤さんはたまにギターにカポはめてる時があるのです。カポて!つまり、今の若いバンドの理想像がもはや海外文化の輸入とかではなくなっていることの証左であると思うのです。純粋に機能性を追及するとユニゾンみたいになるのかな。「Populus Populus」はどんどんライブで再現するのが難しい世界にきていると思うのです。3本ぐらいギター重ねてる曲あるし、オリオンをなぞるみたいな鍵盤入ってる曲あるし。こういうCDをだしたときのライブへの対応は2通りあると思うんですけど1つは「もともとライブの再現性の低い曲はやらない」山下達郎タイプとCDより迫力で多少劣っても全曲再現するユーミンさんタイプと。ユニゾンはあんなヘンテコな曲ばっかりなのに全曲再現しようとするところがコワいですね。ユニゾンはいいバンドですよね。

投稿: kenzee | 2011年8月30日 (火) 20時36分

こんにちは。尾崎論に引き続きコメントします。

音楽のデータ、クレジット情報について、大賛成です!
わたしがよく聴くのはジャズとクラブミュージックですが、このクレジット関係って大事ですよね。ジャズなんてクレジットがわかれば大体どんな音楽か想像できるくらい。
で、昔のジャズとか、入手困難だった音源がamazonとかでmp3配信でどんどん購入できるようになってますが、クレジットとかライナーノ-ツはついてこないんですよね。
不便極まりないです。

投稿: satoryuh | 2013年11月 7日 (木) 13時14分

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