民謡の国を軍歌の国が侵略したのでござる(我々はアイドルをどのように消費したかPart.6)
kenzee「今、激売れ中の新書「AKB48白熱論争」(小林よしのり・中森明夫・宇野常寛・濱野智史著・幻冬舎新書)を読んだ。とにかくAKB48とはスゴイグループで音楽業界や芸能界どころか日本社会の未来すら変える勢いだ、という一冊」
司会者「ネタのトンデモ本かと思ったら意外とマジメな内容でビックリ」
kenzee「ボクも基本線として「あの子たち、ブサイクなのに売れてるアイドル集団ってだけでいろいろネットとかでボコられてかわいそう、AKB商法も含め、健全な興業といえるのか?」みたいなとこを落としどころにしようと思ってたんですよ。この話。でも、一冊読んだらキャツラに洗脳されてしまいまして」
司会者「キミ、意外とすぐ洗脳されるよね。矢沢の「成り上がり」レベルでも」
kenzee「ウン、三代目魚武濱田成夫とかでも洗脳されるヨ! で、こんな理論家の集団で諭されたらもしかしてAKBってスゴイのかも、と思って。そんなかわいそう、とかそういう文脈ですらないのかなあ、とか。で、この本において濱野さんがもはや男の中の男なのだ。「AKB48というシステムをアーキテクチャ理論的に分析すると……」とかじゃないのだ。タダのヲタで、しかもなんか輝いてるのだ。もう本の中から声が聞こえてきそうなぐらいアツイ男だったのだ」
司会者「濱野さんは毎週のように握手会にも参加してて、総選挙でも58枚CDを買ったそうですね。また、沖縄にまで遠征してライブにでかけるとか」
kenzee「コレ、鼎談形式なのでひたすらトークが続く本なんだけど、クダラナイなあと思ってる人も、小林よしのりとか飛ばしていいから、濱野さんの発言のところだけでも拾って立ち読みして欲しいね。でね、濱野さんは人生において、一度もアイドルにハマるということがなかったのだそうだ。そもそも音楽自体あまり興味がなかった。ところがAKBに出会って以降、一日26時間ぐらいAKBに費やすようになったのだ。ラジオにも声ガラガラ(コールのしすぎで)で出演するほどだ。で、アーキテクチャとか社会設計のこととか聞いても全部AKBになって答えが返ってくるという学者としてどうかという状態だ。でね、ボクもオタク傾向の強い人間だと思って生きてきたのだけど果たしてそれほどのめり込んだものってあっただろうか、とフト思ったんだ」
司会者「音楽とかあるじゃない」
kenzee「イヤ音楽っていっても一人のアーティストを熱狂的に追っかけるとかないもん。たとえばCDコンプリートしてるアーティストとかいないよ。濱野さんはクロ現でゲーミフィケーションの話してる時よりAKBの話してるほうが確実に輝いてるからね。そういうものに出会えた人は幸せだよ。結局ヲタって幸せなんだよ」
司会者「濱野さんは握手会でも余裕でループし倒すそうです」
kenzee「まったくアイドル耐性のない人がここまでハマって大丈夫なのだろうか。それにしてもちょっと羨ましい気もします。今の時代、そんな夢中になれるものがあるか」
司会者「この本には書かれてないことなのですが、世間ではAKB商法カネの無駄遣いいい大人がアホか、という論調がありますが、クルマ道楽とか釣り道楽とかオーディオヲタとかに比べればはるかにカネのかからない趣味なんですよ。たとえば総選挙の投票用にCD100枚買ったっていったらもう相当上級のヲタでしょ? でもあの投票券つき限定CDは定価1600円なのだ。つまり100枚で16万、クルマとかオーヲタに比べれば全然安いモンなのだ」
kenzee「ボクが民主的だと思うのはモチロン、上級ヲタは100枚も200枚も同じCDを買うだろうが、1枚だけでも総選挙には参加できる、ということだ。たった10秒とはいえ、本物の推しメンに実際に会える。1600円でも同じ参加の感動を味わえる。これがクルマとかだとカネで感動の質まで決まってしまう。そもそも1600円やそこらでは参加すら許されない。これはもしかしていい趣味なのか?とか思ってしまった」
司会者「しかし、大量の不燃ゴミを生み出してしまう問題だけはなんとかしないと。AKBのCDは中古屋でも買い取ってくれないのだ」
kenzee「で、渡辺美里の話に戻るが、おニャン子のバカ騒ぎチャートを一週だけ奪った無名の歌手、渡辺美里とは何物だったのか。おニャン子の出自はみんな知ってると思うので美里を掘り下げてみよう。渡辺美里はソニーのレーベル、エピックソニーから1985年、ケニーロギンスのカヴァー曲「I'm Free」でデビューする。翌年、「My Revolution」でブレイクを果たすわけだが、このエピック・ソニーとはどういうレーベルだったのか。ミュージック・マガジン2012年3月号岡村靖幸特集にて「あの頃、EPIC」という今井智子によるエピック論がある。
これによればエピック・ソニーは1978年に、CBSソニー出身の丸山茂雄氏が「賞レースに関わらない音楽をやりたい」と設立した。若いスタッフを集め、シャネルズ、ザ・モッズ、佐野元春、The Street Slidersなどを手がけ、成功していた。モッズは目黒の鹿鳴館、スライダースは福生のUZU、新宿ACBで活躍していたところをフックアップしたのだ。ライブ・ハウスの意味合いも78年頃には変わり始めていた。彼らは老舗の新宿ロフトを拠点にしていたルースターズやアナーキーとは異なり、軽快さとメジャー感があった。初期のスタッフで現エピックソニー代表取締役社長小林和之氏のインタビューによれば、
ぼくらは芸能がないから、タイアップが取れないんですよ。TVの音楽番組も簡単に出れないから、ビデオ・コンサートやろうって。アーティストをゲストに、東名阪でやりましたよ。ソニーのインディーズみたいな気分でしたよ。他のメジャーのレコード会社のこと、ダッセーてバカにしてましたもん。」
つまり、ハナから美里をアイドル的、丸山の言葉を借りれば「賞レース」方面で勝負させる気はなかったのだ。このようなレーベルに発掘されたのはひとえに運だ。なにしろ美里が高校生のときに出場した第三回ミス・セブンティーン・コンテストには後におニャン子の主要メンバーとなる国生さゆり、工藤静香も出場していたのだから。結果的に美里は反アイドルのレーベル、エピックでデビューすることになる。ロックの文脈に続くこととなった。デビューアルバム「eyes」の作家陣は白井貴子、小室哲哉、木根尚登、岡村靖幸、大江千里、と今考えると豪華だが当時はほとんど無名に近い(白井、大江を除いて)作家だった」
司会者「久しぶりにクレジットみたらコレ、ほとんどの曲で後藤次利(おニャン子の代表曲の多くを作曲)がアレンジしてるんですね。おニャン子のロック側の対抗馬みたいに考えてたけど、コップの中の嵐みたいなことだったのかな」
kenzee「ボクも今、「Glowin'Up」のベースと「セーラー服を脱がさないで」のベースが同一人物かと知って愕然としたよ。世界は狭いのだ。想像だけど秋元さんの当時の右腕のゴツグがここまで美里制作にドップリ浸かっていたってことは秋元さんも美里に注目してたのかもしれないね。「これからの時代は女の子が恋愛とか性的なアピールするんじゃなくて内面を歌うのがトレンドとなるかも」とか考えてたかも。ただ、この「eyes」というアルバム、今だったら編成通らないね。市場に流通する要素がなにもない。小室や大江千里が参加しているといってどれだけのセールスが期待できるというのか。岡村はこの時点ではまだ全く無名の作家だ。アイドル的に売り出すならまだしも。まだ映画フットルースの挿入曲「I'm Free」を収録するならわかるがこれは入ってない。意味不明のデビューアルバムだ。しかしこのアルバムの歌詞世界はこの後、四半世紀ぐらいの女性シンガーの世界に色濃く影響を与える源流となる。2曲を除いて職業作詞家の手による歌詞だが、共通のコンセプトは「アイドル的でない」ということだ。いかに自分らしくあるべきか、とかいかに人間的に成長すべきか、といったテーマで貫かれている。この説教臭いレコードのなかで異彩を放っているのは大江千里のペンによる「悲しいボーイフレンド」で、別れた男への複雑な感情(私によく似た誰かを選んで 悲しみの数が同じになるまで もう電話なんてしないから)が大江らしい女々しさで歌われる」
司会者「「悲しいボーイフレンド」は大江のこの頃の得意の16ビート、複雑な恋愛心理の歌詞、後藤次利のAORのアレンジ、この時代のJPOPにしちゃ、相当レベル高い作品ですが、この路線は以降、スッパリ捨ててしまう」
kenzee「ウン、「My Revolution」の大成功以降、こういう心の機微みたいなメンドクサい世界はサッパリと捨てて、「昨日までの弱い自分を断ち切り、明日へ強く生きよう」一直線となる。ほとんど軍歌と同じである。美里が軍歌なら、さしずめおニャン子は民謡であろう。民謡は意外とシモネタが多いということは知られているが、「セーラー服」はバブル時代の民謡だったのかもしれない。ここでやっと問題提起に入る」
司会者「長い前フリだニャー」
kenzee「「My Revolution」の主人公と「セーラー服を脱がさないで」の主人公、どちらも同じ10代の少女、という設定だろうがどちらが果たして幸福な人生を歩んだだろう? という設問だ」
司会者「それはこの後の四半世紀の日本社会の変遷を考えれば、90年代の構造不況、ゼロ年代のグローバル市場化にともなう国内の市場、雇用の縮小、デフレ経済。さらに断片化する大衆の価値観。こういう厳しい変化のなか、マイレボの主人公が幸福を掴んだとは考えにくいです。もしかするとアラフォーの非正規労働者……」
kenzee「十分考えられるマイレボの将来像だ。ところで「セーラー服」のあのセックスしか頭にない下品な連中はその後、どうなっただろう」
司会者「意外と適当にポワーンとしたサラリーマンの男を捕まえてノンキに専業主婦でもやっているかもしれない。子供二人ぐらい産んで、「アタシも昔はブイブイ言わせてたモンよ」とかフカシながら、もはや性的魅力ゼロのブヨブヨの肉体をさらしながらもとくに不自由なく暮らしているだろう」
kenzee「これは妄想だけど、当たらずとも遠からずだと思うんだ。でね、歌詞だけ見たらマイレボは模範的な近代的自我なのだよ。なにしろ教科書に載ったりするぐらいだ。翻って「セーラー服」は下品だ、公序良俗に反する、とまで言われたものだ。本当にこの国の戦後社会が近代化を達成したのなら、マイレボの主人公が幸せになってないとおかしいじゃないですか」
司会者「イヤー意外と「美里ってカワイイな、こんな子が同級生にいたらボク頑張っちゃうナ」的なアイドル的受容がまったくなかったとはいえないですよ」
kenzee「これは読売新聞大阪版の朝刊に連載されていた「私のお気に入り音楽」という読者投稿のコラム記事だ。
私のお気に入り音楽「My Revolution」(歌・渡辺美里 作詞・川村真澄 作曲・小室哲哉)
音楽教室経営(岡山市) 杉○敦○さん48
◆力強い歌詞に励まされ
実家のある滋賀県の中学校で音楽の常勤講師を始めて3年目だった23歳の冬。岡山に嫁ぎに行くことになり、不安が募っていました。学校の帰りに車を走らせると、フロントガラスにはおびただしく降り注ぐぼたん雪。視界の悪さはその時の気持ちを表しているようでしたが、何度もこの曲をリピートして聞き、前向きに考えるようにしました。慣れ親しんだ学校を去る寂しさと、新天地で音楽生活ができるのかという不安。その中で、勇気づけてくれたのが力強い歌詞でした。「夢を追いかけるなら たやすく泣いちゃだめさ」。背中を押され、夫と暮らす新生活への覚悟を決められただけでなく、音楽の腕を上げ、個人レッスンでもっと音楽を愛してくれる子どもたちを増やそうと、夢を追い求める決心がつきました。音楽教室を卒業した子からは、お礼の手紙がたくさん届きます。でも、まだまだたくさんの生徒と出会いたい。そんな私を、今も励ましてくれる一曲です。(2009年4月16日読売新聞大阪版朝刊)
図書館の雑誌・新聞記事検索端末に「My Revolution」と入れるとこの手の「励まされた」話がゾクゾクでてくる。やはり、この曲の「自我」が支持されたのだ。
わしがAKB48を「マジ」に好きになったのは「RIVER」からである。メンバーとして最初に意識したのはこの曲で最初にかけ声を発する高橋みなみだった。「RIVER」は世間が思っている少女アイドルの楽曲とは違っていた。男が聴いても勇気が湧いてくる。闘争心を掻き立てられるのだ。自衛隊の協力を得たと思われるPVを観て、戦闘服で銃を持って渡河する少女たちの泥だらけの姿にしびれた。「マジ」を感じた。(AKB48白熱論争・小林よしのりの序文)
このあと、要はAKBに励まされた、みたいな話がでてくるのだが、この音楽と聴き手の受容の質は同質のものと考えていいだろう。「RIVER」のようなコミュニケーション(若い女性歌手が戦闘的な軍歌を歌う、で、聞き手が勇気づけられたり、励まされたりする)は四半世紀前から存在していた。で、85年以前にはそんなのないのだ。聖子や明菜やキャンディーズは軍歌は歌わなかった。小林氏は「世間が思っている少女アイドルの楽曲と違う」と述べているが、ここ20年ぐらいアイドル(若い女性歌手一般を指す。たとえばZARDなども含む)は基本、軍歌傾向だった。小林氏がよくご存じでないだけだ。確かに「RIVER」ほど露骨なものはなかったと思うが」
司会者「軍歌もいいけど、ホントに人の心を癒したり、活力になったり、コミュニケーションを生むのは民謡のほうですよね」
kenzee「そういうこと。ソウルフラワーの人たちがやってる音楽はそういう意味の民謡なんだ。彼らはもしかするとシャレで「セーラー服」をカヴァーすることはあるかも知れないが、「マイレボ」や「RIVER」をカヴァーすることは絶対ないだろう。で、軍歌と民謡が共存していた86年のオリコンチャートは健全だったと思うのだが、ここ20年ぐらい音楽シーンは軍歌ばかりなのだ。ナゼ、85年頃を境に、民謡は駆逐されていったのか。そして民謡作家だった秋元康がナゼ20年の時を経て、軍歌作家になったのか。あの人は民謡の天才だったのに。それは85年以降、社会が女性をどう扱ったかの歴史とパラレルの関係にある。ふたたび85,6年の社会から考えてみる」
司会者「小室論マダー?」
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コメント
ソウルフラワーが「セーラー服」はカバーするわけがないとおもいます
現ベーシストのJIGENさんが美里さんのバックに参加した
「マイレボ」音源なら、偶然、聴いたことありますよ
(アコーディオンのコバさんのプロデュース)こ、これは超かっこよかったです
「悲しいボーイフレンド」頭の中で、いま、四半世紀ぶりくらいで流れました 年を取ったものです
エピックといえば80年代終わり~90年代初めくらいにやってた深夜の音楽番組「EZ a GOGO」のレベルの高さはいまだ忘れられません
あれを美里目当てで録画して見るようになって、ボガンボスと友部さんが共演した「ダイナマイトに火をつけろ」だの、初期の絶叫エレカシだの、岡村ちゃんだの、いろいろ濃いいのを目撃するはめに・・・
贅沢でした
投稿: ソウルフラワー好きな小説家 | 2012年9月 7日 (金) 01時03分
まあ、ないわなあ。。
eZね。eZはカルチャーショックだったなあ。かルビーのCMもちゃんと撮りおろしだったし、あんな実験的なことがバブル絶頂期だからできたんだなあ。誰がやってたんだろう。ワンカメ据え置きみたいなドキュメンタリーっぽい感覚のPVが多かった。あれ、ゴダールの影響じゃないかな? あれでエピックのイメージが決定的になった。ボガンボスあった。日比谷野音のヤツとか山口冨士夫と共演してるのとかあった。ああいう作り込みの世界となると岡村ちゃんの面目躍如であった。結局、あのスタッフでPeach Timeという映画まで作ったのだから。ボクが一番思い出に残ってるのは金山一彦と岡村ちゃんが夕暮れの土手みたいなとこでギターでビートルズを歌いまくるというものです。ああいう本編のPVと関係ないオマケみたいな映像が印象的だった。eZ a gogo 。。スタジオライブみたいなのになってからは興味なくなりましたね。しかしアレは日本のPV史に影響与えたはずだが誰も語らないな。ミュージックマガジンの岡村特集にはeZのこともPeach Timeのことも触れられてないんだゼ!
投稿: kenzee | 2012年9月 7日 (金) 03時29分
ezで私がいちばん好きになったのは、メルヘンなころの遊〇未森さんでしたが
(スプーンストーリーというショートムービーとか凄かった)
さいしょコンサートへ行き出したころは、お客さん、女の人が多かったのに、どんどん、男の人(なぜだかアイドルオタと重なってそうなタイプ)が増えていって
会場が妙に汗くさくなったりしだして・・・(泣)行くの止めました・・・
同時に音楽がメルヘンからシンガーソングライターっぽく変わってったこともあり
どうもそちらは合わなくて、離れてしまいましたが
十年くらいまえからはわざわざ年に一度女性ファンのみ対象のライヴとかやってて、それは三回行きました
鈴〇祥子さんは初期の頃よりむしろシンガーソングライターっぽくなってからのほうが好きなアルバムあったりしますが
彼女もなぜだか、男のファンが(以下略。泣)
詞はおもいきり女の人向けっぽいのに。ふしぎ
知りあいの働くライヴハウスで、七年ほどまえに小〇美潮さんのライヴ見たときも
前列にオタっぽい方々が・・・
開演前から汗のにおいが・・・
知りあいが「美潮ちゃんのライヴのときは空気のにおいがいつもちがう」と言っていたのが忘れられない
↑
どうしてこの辺の元EPICの歌姫たち(音楽的には非常にちゃんとしてる)のファンはアニや恐らくAKBオタとも微妙に重なっていそうなのか
ナゾなんです
すいませんどうでもいいですね
次回へすすんでください
投稿: ソウルフラワー好きな小説家 | 2012年9月10日 (月) 01時39分
遊佐未森! 遊佐未森はスゴイよ!
アレ本名だからね! あとプロフィールに
「趣味、散歩」って書くからね。遊佐未森のプロデューサー外間隆史って人は後にb-flowerというネオアコバンドをプロデュースしたが、フリッパーズ以降のバブルのなかで良質なバンドであった。鈴木祥子のことはよく知らない。小川美潮はチャクラの「福の種」という曲だけは好きでいつもアイポッドに入っている。たぶん小川美潮ファンの汗臭い男たちは戸川純のファンとかの流れなのだろう。きっと天国注射の昼のビデオ持ってるのが自慢とかそういう人々だ。しかし、ホンット先生はなんでも観てるなア。
投稿: kenzee | 2012年9月11日 (火) 00時41分
えっb-flowerって外間さんプロデュースだったのか!
「透明なきみ~の 声が聴ーこーえーるー」って曲しか知りませんが。
ロキオンジャパンで94年?にやった
b-flower・スピッツ・フィッシュマンズの
男子ボーカル三人の
「ひなぎく対談」は面白かったですね。
いまも大事に持ってます。
当時は知名度が同じくらいでした。
そのあとスピッツは国民的人気バンド、
フィッシュマンズはサトちゃんが亡くなったのもあり、伝説的バンドになってしまいましたが。
投稿: ソウルフラワー好きな小説家 | 2012年9月12日 (水) 20時55分
あった!多分94年頃。 虫も殺さない三人とか書かれてた。あの頃の山崎洋一郎はクダラナイ企画をよく考えてたなあ。
投稿: kenzee | 2012年9月12日 (水) 22時13分
しかし、反アイドル的立ち位置のレーベルだったエピックソニーから渡辺満里奈がソロデビューするとはなんとも皮肉な…アルバム持ってる自分が言えた話ではないですが
投稿: 紅 | 2015年7月 2日 (木) 23時41分
あの不況の時代にポワーンとしたサラリーマンと結婚してノンキに専業主婦やってられたと思う方が大甘の考えだったと思います。
古い記事に今更ではありますが・・・(今は考え変わってますかね)
投稿: 中川雅也 | 2021年7月27日 (火) 18時55分