aikoマラソンPart.11スナックの壁を乗り越えられるか(7thアルバム「彼女」前編)
kenzee「正直、ツライ…まだ、アルバム4枚もあるなんて…」
司会者「アンタが自分で言い出したんじゃない」
kenzee「完全にナメていた。ただ、これからワリと好きな曲が増えてくるので辞めるわけにもいかないのだ。これが「夏服」みたいなアルバムばっかり続くならもう終わりでいいんだけど」
司会者「でも、この2006年時点で結構な地位を確立していたはずなのに毎年律儀にアルバム制作するねえ」
kenzee「そうなのだ。このしつこいまでの量産の美学はやはり小室やつんくや矢沢永吉などのヤンキーパワーを思い出さずにはいられない。この、畳の上で死なない感じに我々ヤンキー国民日本人は魅了されてしまうのだろう。しかし、女性シンガーソングライターでヤンキー、という人は日本の歌謡史上あまりいない。パッと思いつくのは中森明菜やキョンキョンといったアイドルたちだ。例外的に浜崎あゆみがいるぐらいで、ヤンキーミュージックは基本、男性主導でその歴史が作られた。ヤンキー歌謡を考察したテクストに「ヤンキー文化論序説」(五十嵐太郎編著)に寄稿された近田春夫さんのヤンキー音楽の系譜がある。この中で、ヤンキーロックの誕生はやはり、1972年の矢沢永吉率いるキャロルであると定義しているが、その後に続くアーティスト名はこんな感じだ。横浜銀蝿、BOOWY、氣志團……。ヤンキーの音楽は作品的というより商品的である、と発言している。
キャロルや横浜銀蝿にはあったアマチュアリズム、あるいはなにかしらの反権力の匂いが、もうBOOWYの音にはなく、手触りはプロの作るパッケージのそれであった。外見から受ける印象程には「突っ張っていない、無難」な作品を好んで作るという、一貫してヤンキーの音楽家に見られる特質は、BOOWYにおいてすでに固まっていたのではないかという気がしてならない。(前掲書)
さすが近田さん、30年以上日本のロックに関わってきた人である。ヤンキー音楽の特質、奇異な見てくれとは裏腹に無難な作りの曲。これはTMネットワークにおける小室や、シャ乱Qにも受け継がれている。無論、作品主義のミュージシャンの存在にも近田氏は触れている。宇崎竜童や横山剣が「ヤンキーロック」と定義しにくいのはその作品主義のためだという。そこでaikoなのだが、やはり彼女も「ヤンキーロック」の系譜に置くにはムリがある。この近田論でいけばもっとも近い位置と考えられるのは宇崎竜童的、「ヤンキーなのに作品主義」の位置だろう。つまり、ヤンキー女性ボーカリストの極北、山口百恵をそろそろカヴァーとかしてもいい頃なのではないか。前回、コメントいただいたgeraさんの「なぜ、似たような経歴の川本真琴はaikoほどの成功を収められなかったのか」それは、ひとえにヤンキーパワーの欠如である。aikoのイラストなどから滲み出る、ヤンキー&ファンシーなワゴンR感(車高低め)。イラストや服装まで含めたaikoの表現から感じられるのはそのような「まともな神経の人間なら悪趣味と感じるが、実は日本の人口の8割にヒットする感性」である。しかし、aikoの音楽そのものには日本の伝統的な女性ヤンキーミュージック感、つまり、山口百恵や中森明菜や工藤静香やwinkのような背景がまったく感じられない。このズレこそが決定的な個性なのだ」
司会者「もう、ここで終わりたいとこだけど、マラソンあるよ」
kenzee「2006年発表の「彼女」。エライもんで、ここまでムリクリ量産して、時々駄曲も放出しながら走ってくると、あるとき安定期がくるのだ。それが「彼女」だ。急に洒落た曲がパカパカでてくる。まるで大工の職人のように、ひたすらカンナ削ってるうちに、ガラパゴス的な技術が身に付いたみたいなアルバム。
・1曲目「シャッター」
kenzee「とにかく1曲目からディストーションギタージャーン、がないだけで、許せてしまうオープニング。ギタージャーンと大げさなストリングスがなくなっただけで大変な成長だ。…今、便所から帰ってきてここまで読み返したがモノスゴイ上から目線だ。このままエラそうにいこう。「アンドロメダ」の続編のような16ビートの5リズム+ホーンセクション。ファンク期の吉田美奈子のような音像。「擦り切れた靴のかかと気にしてばかりで」と畳み掛けるあたりはaiko得意の世界である。「三国駅」同様、かつての若い頃の二人に現在の自分は追いついているか、という自問の歌。「もう少し自分を見つけたら 電車に乗って 橋をこえて」という恋愛ソングとはいえ複雑な心情を描いている」
・2曲目「気づかれないように」
kenzee「久しぶりに会った恋人への複雑な思い。すでに恋人は指輪をしている。主人公は今の彼女について問いかけるのだった。まるで古い戦友にであったかのような、懐かしさを込めた恋愛の歌。このように今回のアルバムは作家的に30代女性の恋愛の風景を描いていく。ビリージョエルか佐野元春のようなスタンスである。やっぱり前作でシンガーソングライターが一旦完結したんだね。前作のあのパーソナルな世界はひとつの到達点だったのだね。今回は座付き作家としての側面が強調されることとなった。まるでこれから誰かに提供するかのような曲たち。ボクはこういうアルバムが好きなんですよ。まりやさんでも「リクエスト」が一番好きなんですよ。しかし、あの斬った張ったの恋愛の人の世界の先にこういうのがでてくるんだねえ。作家ってすごいねえ」
・3曲目「キラキラ」
kenzee「E→G♭→E♭m→A♭→Dm-5のイントロのリフの勝利の一曲。この頃のaikoはなにか16ビートの神がとりついていたのか。「シャッター」「キラキラ」の2曲だけで800円ぐらいの価値がある。シルバーリングが黒くなったとか、時間の経過を感じさせる表現が多いのね。時間の中で人間の感情とか考えがなにが変化するのかとかしないのかといった…慣れない歌詞の話するとグズグズになるな。曲の出来がいいとあんまり言うことなくなるんですよ。あえて悪く言うならさっきの近田さんのヤンキー音楽の特徴のように、アマチュア感がない。プロの手によるプロダクトですよ。「No,New York」みたいなもんで。「ナニ、このコードwww」とかツッコむとこひとつもない曲が書けるとはね。スコーンとなにかが吹っ切れたかのようだ。しかし、こんな順当な音楽が続くとこの企画的にはツライ」
・4曲目「キスするまえに」
kenzee「素直な8ビートロックンロール。学祭バンドがコピーしそうなポップ。だが、久しぶりに「Powe of Love」以来の現代詩の歌詞。秘密ランデブーとか虹色ランデブーとかどこからこんな語彙がでてくるのか。田舎の山奥にそんなラブホテルありますよね。ランデブーとかエンペラーとか。どう見ても70年代前半に作られたに違いないデザインで。昔、兵庫県の豊岡というところだったと思うけど北近畿タンゴ鉄道というのに乗ってて、車窓みてたら、あきらかタダの木造アパートなのに平然とベタ看板に「ホテル○×」って書いてあって、「なんでも言うたモン勝ちかい!」と思った記憶がある。「闇は食べてしまおう」とかよく闇食ったり、海ハサミで切ったり忙しい人だ。いまのところ引っかかるところがなんにもナイ。やればできるヤン! とか演奏メンバーに言われてたんじゃないか。「アレ? aikoどうしたの? D♭→G7とかキチガイみたいな進行ないジャン」「F→G→Em→Amとか急にマジメになってどうしたん?」とか言われてたに違いない。しかし、5年前に「夏服」を作った人がここまで変わったのだ。嬉しいじゃないか」
・5曲目「深海冷蔵庫」
kenzee「と言った舌の根も乾かないうちに「海の底を 泳いで光を遮りたいー」のD→E→F#の素っ頓狂な転調に笑ってしまった。でもいい曲。なんか、そこらのツイッターみたいな感想ですけど明るい、ウォームなアルバムですね。「日曜日も 星のリングも 22日も 青い空も 長袖も 家の鍵も 笑った日も 夢のダンスも」と現代詩のように畳み掛ける後半が圧巻。アレンジの手本のようなアンサンブル。全員簡単なことしかやってないんだけど、これ以上やるとトゥーマッチというギリギリの交通整理。これをヘッドアレンジでプレイヤーに任せるとギターがうるさすぎたりやりすぎになっちゃうわけですよね。ナニ、この作家とアレンジャーの阿吽の呼吸。この時期、制作がみんな同じ方向を見てるなとわかる曲。「コレ、悩んだ末にグチャグチャになっちゃったナ、」みたいな曲がない。コレ、もしかしていいアルバムなのかな?」
司会者「いつも、はじめてちゃんと聴くので最後までわからないんだけど」
kenzee「これで後半ギター大会だったらモノスゴイ裏切りだワー」
・6曲目「17の月」
kenzee「例によってまりやさんけんかをやめてかサザン栞のテーマの如きハチロクバラード。イマドキこんなスナックに合うような曲書く人いない。こんなレーズンバターとか焼酎の梅割りとかが合う曲もないだろう。最近スナックを感じさせる歌が減ってるのだ。スナックで歌われてはじめて迫力を発揮する歌というものがある。まりやさんの「駅」とか普通にYou Tubeとかで聴いても退屈な歌ですよ。それがスナックのショボイカラオケのステージで歌われた途端、その意味わかる、みたいな音楽があるんですね。なにか大衆の心を慰める、みたいな土着の力、みたいなものがある歌とない歌があるのだ、とスナックだとよくわかるんですよ。「徳永のレイニーブルーってこんないい曲だったの?」みたいな。でもあとでYounTubeで観てもその感動はないのですよ。あとレミオロメンの「粉雪」もスナックで聴いてはじめて電撃が走る。ちなみに山下達郎はスナックで聴いてもなにも面白くない音楽。やっぱり土着の、松山容子のボンカレーとかナゾのサラ金の看板に囲まれて育った人でないとでない迫力というのがあるのだ。aikoぐらいまでがギリギリ、ボンカレーなのだろう。ちなみにラップはスナックで映えることは絶対にない」
司会者「曲の話しろよ!」
kenzee「aikoをスナックで歌う女の人は見たことないな~。宇多田の「First Love」とかMISIAの「Everything」とか定番なのに。ボクはスナックで輝く歌っていうのがすごく気になるな~。スナックで輝くものってあるんですよ「ヘビーローテーション」とか。スナックの壁を超える力ってなんだろうと思うのですよ。これはわからないんですよ~つんくですらスナックの壁は超えてないような気がするのでね」
司会者「じゃあ来週は後編だな」
kenzee「B面1曲目って感じの「その目に映して」からスタートできれいでしょ?」
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コメント
こちらの無礼にも関わらず、丁寧に御回答頂き、ありがとうございました。
個人的にずっと考えていたことに対し、興味深い御回答を頂けてとても嬉しいです。
川本真琴とaikoの違いであるとされたヤンキーパワーとは、
①作品を量産することにも繋がるガツガツした感じ
②「高尚な」側からすると「低俗」とされかねない(主に歌詞やパブリックイメージに見られる)大衆性
ということだと私なりに解釈致しました。
また、音楽性の比較はされていませんでしたが、仮に両者の音楽性が一般的なヤンキーものから離れたところ(作品主義?)にあるとして、
そこに親しみ易い詞を加えたのがaiko、そうしなかったのが川本真琴、とも言い換えられるのでしょうか。
今回も凄く面白かったです。
彼女は個人的に一番好きなアルバムなので特に後半を楽しみにお待ちしています!
投稿: gera | 2013年3月12日 (火) 21時31分
geraさん。
ホントだね! どうしてこれほど差がついちゃったのかね? どっちも貧乳なのに!←これが言いたかったダケ! 全然無礼とかじゃないですヨ~。まあこういう議論は結果論にしかならないですからネー。難しいですね。
投稿: kenzee | 2013年3月12日 (火) 23時52分
遂に彼女まで辿り着きましたね。お疲れ様です。
私が本格的にaikoを聴き始めたのがこの頃なのですが、何だかすごく最近のような気がしてならないです。もう7年も前のアルバムなんですよねぇ。しかもこの後にあと3枚も控えてるとは。大変だと思いますが、是非とも頑張って下さいませ。
aikoの曲がスナックで歌われないのは、単に難しいからじゃないでしょうかね?カラオケでもほとんど聴いたことないです。
カブトムシ 花火 ボーイフレンドなどのイメージが強すぎるのもあるでしょうね。
シングルのカップリング曲やアルバムの隅の方の曲の方がスナック向けの曲が多いんですけどね。(と言いながらスナック向けとそうでないものとの区別は曖昧ですが)
LIVEでのシングル曲の少なさはもはや異常の域ですよ。毎回「こんな曲演る!?」と驚かされています。aikoもそういうファン心理を理解して自分も楽しんでるんですよね、きっと。
投稿: らば〜そうる | 2013年3月15日 (金) 22時23分
そうなんだ!シングル曲すくないんダ!
アンドロメダとかライブで再現するの難しそうだしね。ここまできて思うのは、「こんなにたくさん曲あるのか…」ってことだね。スゴイワ。それで良くなってきてるからねえ。
投稿: kenzee | 2013年3月18日 (月) 01時37分