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かっぱ寿司で近代以降のコミュニケーションについて考えた

kenzee「家の近所にかっぱ寿司ができた。田んぼと廃屋しかなかったところにポコランと突然、ホームセンター、24時間営業のスーパー、そしてかっぱ寿司ができたのだった。ZEEBRAの定番曲に「Parteechecka」という(クラブのイベントやパーティーをくまなくチェックする様を描いた歌詞)曲があるが、オイラは郊外型食べ物屋チェッカーなのでさっそく食いにいってきた。そしたらしゃー。ビックリしたね! ネタ注文するのにタッチパネルみたいなiPadみたいなヤツで注文するのね。オイラてっきりマイクみたいなのに向かって「エート、瓶ビールー、茶碗蒸しトー、エンガワトー、キツネウドン、以上で」とか言わないといけないとのかと思ってたらこんな近代的なことになってるとはね!」

司会者「今はどこでもそうだよ。くら寿司とか」

kenzee「したらビールとか汁物とかは、店員さんが席まで持ってきてくれるんだけど鳥のからあげみたいな注文品はグルグル回るレーンとは別の注文品レーン(つまりレーンが2本立てになっているのだ!瀬戸大橋のように!)で、スイーっと新幹線を模したトレイに乗って「ハイ、オマチイ」的に席まで運ばれてくるのだった。もうグワーっとテンション上がってですね! 隣に座ってた家族の小学生ぐらいの子供もさぞかしテンション上がってるだろうと思って見たら、「別ニィ」ぐらいの沢尻ぐらいの感じだったのでボクはとても寂しくなったのサ」

Kappa2


司会者「最近の小学生だったら新幹線トレーぐらい知ってるよ!」

kenzee「スゴイシステムだったなア。大変なことに気づいたのだけど、普通、食べ物屋、たとえば喫茶店とか入っても我々はなにか言葉を発さないといけないわけじゃない?」

司会者「ボク、ミルクティー、とか」

kenzee「レイコー、とか、カツカレー、とかなにか店員さんに言わないといかんわけじゃない。ところが回転寿司というものはお店に入って、好きなものつまんで、会計済ますというところまでその気になればなにも発さずに出ていくことも可能なのね。これはスゴイことじゃないかと思って。なんというか、もはや言語とか言葉というのはコミュニケーションの大前提ではない時代か、みたいな。かっぱ寿司システムだと全部感覚的に済むわけですよ。非常にアップル的というかスティーブ・ジョブズ的というか。例えば子供とか魚とかネタの知識ないわけジャン。でもあのタッチパネルに画像が全部表示されるのでなんとなくわかる。「赤だし」がなにかわからなくとも、汁物らしい、とか。なにも言語に起こす必要がない。よく考えたらそもそも寿司とは社会的地位の高い層とかインテリとか「言語とか言葉命」のまさに近代人の食べ物で「鯛など、新鮮な切りたてより一晩寝かしたモノの方が旨みがでるんジャ」とか「旨みとはつまるところ遊離したアミノ酸で……」とかゴタク並べて食うものだったワケじゃないですか。それが最も言語とかから遠い子供とか外国人にもはや最適化されているんだな。LIFEのサイトに上がってる鈴木謙介さんと宇野常寛さんの対談あるじゃないですか」

司会者「コレね。「鈴木謙介×宇野常寛~「ウェブ社会のゆくえ」ですな」

kenzee「で、このなかでソーシャルメディアの登場以降、どんどん言葉によるコミュニケーションは相対的に価値が減じている、という話がでてくる。チャーリーさんの話を物凄く手短にまとめると「ネットの黎明期は言語、言葉によるコミュニケーションが支配的であった。テキストサイトからブログへ至る2000年代前半までの感じ。「これからネットは新しい言論空間だ!」みたいな感じ。だが、だんだん言語よりも優れた「体験」を提供するサービスがエラい」という時代が到来した。「世界の100人だけがこの瞬間を目撃した」みたいな。今やコミュニケーションの中心とは「いいね!」ボタンを押す、とかInstagramの動画とかLINEのスタンプであるとかリンク見ないでどんどんRTされて拡散していく、とかが占めている。だからといって「言葉によるコミュニケーションが欠落した現代が悲しい」といった話ではない。たとえば企業の研修とか学校でも今は体験型学習とかワークショップが主流になっていて、「テキストを読んで教典から学ぶ」という明治以来の近代の理解の仕方ではなく、手を動かして体験によって身につけろ、という考え方が主流になりつつある。言語から体験へと人々のコミュニケーションは移行しつつある。だが、現行の社会とは基本、言語、ヴァーバルなもので構成されている。まず憲法とか法律がそうだし。この、人々のコミュニケーションが非言語的な方向へ向かっていく中で社会はどう再構築していくべきだろうか、みたいな話」

司会者「かっぱ寿司の場合、寿司っつーモンはまず、脂の少ない白身魚や赤身から始めてーとか卵焼きの焼き方でその寿司屋のアレがわかる、みたいなウンチクがストーンと欠落してるんだけど、「寿司を食う」という行為の楽しさはちゃんと新しい体験として提供されているという」

kenzee「子供とか外人の好きそうなものもあるからね。ハンバーグの握りとか鯛のカルパッチョのサラダとか鳥の唐揚げとかフライドポテトとか。そんで「カルパッチョってどういう意味だっけ」とか考える隙もなく、現物流れてくるジャン。これは極めて現代的な非言語的な体験だと思ったね。で、チャーリーさんの言う、言語からいいねボタン的、instagram的、スタンプ的な「体験」に移行していった、という話は音楽の話でよく言う「CDは全然売れないけどライブの動員はいい」とか「フェスだけは盛り上がる」という状況とパラレルなものと考えていいんじゃないかな」

司会者「チャーリーさんはその後に、「近代社会の仕組み」という話をしています。「近代文学とか文芸批評というものはソーシャルから切り離されたところで言語と向き合う、その中で近代的自我を形成する、という論理で営われてきた。つまり、「読む」という行為は個人的なものだと今でも考えられている。だが、もはや「読む」という行為も個人的な、ソーシャルから切り離されたものではいられない。なにか本を読んだら、アマゾンのレビューにボロクソ書いたりするし(オイラじゃないヨ)、「マジ泣いた」とかツイートするし、読書会、とかありますよね。こうなると個人的な読書が自我を形成する、というような近代の論理は通用しなくなる」これに対して宇野さんは「もともとコンピューターとかソーシャルの技術とはそういう「固有の、孤独な読書」とかありえない」という真実を暴き出しただけで、むしろ言語では不可能であった感情の疎通などをソーシャルは可能にしている」という」

kenzee「ここでチャーリーさんが仰っている「個人的な読書」が「近代的自我を形成してきた」という説明。これに対する宇野さんの「ネット技術がその虚構を暴いた」という話。これらは前回の柄谷行人の「日本近代文学の起源」の話でもある。近代文学によって発見されたのは「内面」とか「風景」であり、「告白」という制度だ。物凄くヒラタク言うと、単細胞かと思ってたギャルに「内面」とか「心象風景」みたいなモンを「告白」されたら急に高級な人間になったように見える。ちょっと高級な人間に見せかけるためのジョーカーみたいなモンがこの「内面」である。しかし、ここにきてソーシャル時代の到来で「内面」とか「近代的自我」の耐用年数もそろそろ終わりなんじゃないか、ボクは思うわけネ。宇野さんの話を推し進めるとね、もともと人間には「固有の人間性」とか「個人」というものはなかったんじゃないか、という話になると思うんだ。人間がスゴイ並列になる。たとえばツイッターがわかりやすいけど、タイムラインにズラーといろんなツイートが時間軸、という基準だけで並ぶ。その中には大阪市長もいれば、芥川賞作家もいれば、タダの学生とかニートもいる。すべて並列に並ぶ。意外と学生のツイートが一番面白かったりして。そうなるともはや「個」とか「物語」の価値なんて大暴落してるワケですよ。これは音楽のフェスも同様と言える。フェスと従来のライブの決定的な違いは「そのバンドをあまりよく知らない観客の居合わせ率」ということになろう。どんなキャリアがあって、とかどんなヒット曲が、とかメンバー間の確執とか知らないで体験してしまう場。で、よく知らないまま「なんかノレる~いい曲(・∀・)」とかRTが拡散されていく。昔の人ならこういうのを「無教養」と言うだろう」

司会者「結局、楽しかったら、それが今、もっとも最適な快楽であるならいいなじゃないですか」

kenzee「ボクが何を恐れているかというね、ボク自身は古い人間なのですよ。要は本を一人でボソーっと読んでチョコチョコブログに感想書いて、CDも一人で聞いて、非常にヴァーバルな、近代的な人間だと思ってるし、その価値は揺らがないとか信じてるワケですよ。でもよく考えたらツイッターとか眺めてる時間のほうが圧倒的に長いワケよね。本読んでるより。なんかワーっとRTされてるリンクとかあったら一応踏むしさ。togetterとかまとめサイトとか気になるワケジャン。こんなオイラがヨ! 口では「ソーシャルメディアとかクソ!」とか言っててももう習慣的に逃れられないからね」

司会者「「個人」の虚構が暴かれて人間は並列化していく、てのはなかなかいいんじゃないですかね。回転寿司で思いついたにしては」

kenzee「こういう社会の価値観とかが変貌するときに真っ先に影響喰らうのは女性なのね。ある日突然、「女も男並みに働け」とか言われたり「イヤイヤ「亭主元気でルスがいい」専業主婦が一番」とか言われたり「個性的な自分であれ」とかワケワカランこと言われたりする。ボクはトシだからかもしれないけど、アイドルとAV女優がみんなおんなじに、並列的に見えるの。これは新しい、近代の終焉の時代の価値観を先取りしているのかな、とか思ったり。で、次はちゃんとこじらせ女子の話するからね」

Kappa1

おいしかったヨ! すっかりかっぱ寿司ファンだヨ!

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