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最近読んだ本の話(吉田健一「汽車旅の酒」、佐々木俊尚「21世紀の自由論」)

kenzee「ボクは「飲んで食って、寝て、また飲んで食ってるだけ」のエッセイや小説とか漫画が大好き。思想性とかこだわりがなければなおよろし。ただ、日常から一歩でて、散歩して飲んで、食って、温泉旅館みたいなトコで寝て、朝になってまた温泉入って、みたいなことを繰り返してるだけの本というのがこの世にはある。しかも「とっておきの穴場」といったような企画性もなにもない、そんな本当にブラブラしたタダの無駄遣いみたいな行動をシタタメた随筆というのがあるんだね。なぎら健壱さんの一連の下町飲みのエッセイ、高田渡の「バーボン・ストリート・ブルース」、飲ん兵衛雑誌「酒とつまみ」編集長、大竹聡さんの一連のホロ苦エッセイも楽しいゾ。忘れちゃいけない太田和彦の飲み歩きエッセイ。椎名誠のアウトドア飲みのエッセイも忘れられない。久住昌之さんの「ふらっと朝湯酒」「昼のセント酒」といったブラブラ散歩して風呂入って適当な下町の居酒屋で飲むだけの話もイイ。忘れちゃいけないラズウェル細木の膨大な飲食漫画群。まだある井上理津子の「大阪下町酒場列伝」、池波正太郎「散歩のとき何か食べたくなって」、神戸の味のある飲み屋の記録、中村よお「肴のある旅」、スコットランドのアイラ島でひたすらクルマを走らせ伝説のウイスキーを追い求める旅、村上春樹の「もし棒らの言葉がウイスキーであったなら」、故郷、長崎で後輩とひたすらハシゴするだけの話、村上龍「長崎オランダ村」、伊丹十三のちょいとスノッブな一連のエッセイ、藤木TDCさんの昔の酒場探訪の本も面白い。田中康夫「33年目のなんとなく、クリスタル」の食事シーンだけ、とか。とにかく飲み食いの本には目がないのである。そんな飲み食いエッセイには一家言あるボクが久々にノックアウトされたのが今年でた吉田健一「汽車旅の酒」(中公文庫)である。吉田健一はあの吉田茂元首相の長男で英文学者。で、大変な健啖家であった。飲食に関する膨大な文章を残しているが、この本は彼の鉄道旅行と飲食にまつわるエッセイだけを独自に編集したものでオレ得なだけの本である。収録された文章のほとんどが50年代~60年代に書かれたものだ。半世紀以上も前に書かれた文章で旅行や飲食の文化も今とは違うはずなのにグイグイ飲み心をノックしてやまない。古風な文体なのにあまりに核心をついたフレーズの数々で感心するより笑ってしまう。オマエはオレかと。

 旅行をする時は、気がついてみたら汽車に乗っていたという風でありたいものである。(金沢)

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司会者「イイ書き出しだネ~」

kenzee「このあと、あんまり綿密に予定を立てて、宿やらなにやら予約して、名所旧跡は、というのは観光であって旅行ではない、と看破するのだ」

 寧ろ、行った先のことは着いてからに任せてこそ、旅行を楽む余地が生じる。実際、自分がいつも住んでいない場所には何があるかわからないのである。

kenzee「ブラっと行け、と。名所旧跡などほっとけ、と」

 何の用事もなしに旅に出るのが本当の旅だと前にも書いたことがある、折角、用事がない旅に出掛けても、結局はひどく忙しい思いをさせて何にもならなくするのが名所旧跡である。(或る田舎町の魅力)

kenzee「ご名答! と拍手したくなる。大体名所旧跡の近くには絶対においしい食べ物屋や居酒屋はないのである。絶対にだ。で、気がついたらご当地キティちゃんボールペンとか800円ぐらいで購入していたりする。人間とは本当に弱い生き物なんだ。そして吉田氏はこう続ける。

 極めて明快な一例として、鎌倉に旅行した場合を考えて見るといい。余り明快でそれ以上に、何も言う必要はないと思う。

司会者「なんだこの、高等テク文章」

kenzee「なにも言ってないのにすべて言い尽くしたかのような感じ。極道の啖呵のよう。そして吉田氏ほどの旅の達人ともなると旅のコンセプトの立て方からして違う。

 それで、何もない町を前から探していた、というよりも、もし、そんな場所があったらばと思っていて見つかったのが、八高線の児玉だった。

kenzee「なんとマニアックな。イマドキのテレビ企画、タモリのブラ散歩とか鶴瓶の家族に乾杯とかバス旅とかの半世紀以上前にこんな旅の楽しみ方を確立していたなんて。

 併し兎に角、旅行している時に本や雑誌を読むの程、愚の骨頂はない。読むというのは、そこにあることの方へ連れて行かれることで、新潟にいても、岡山にいても、北極のことが書いてあるのを読めば、自分がいる場所が北極にある。又そうなる程度によく書いてあるものでなければ、読んでも仕方がなくて、自分が折角、岡山だかどこかにいるのに、北極にいる積りになることはない。どうも道草をして、旅に出ている気分になるには、飲んだり、食べたりに限るようである。(道草)

 これは異論のある人もいるだろう。漫画家の喜国雅彦さんは旅行に行くとドンドン本が読めると言っていた。村上春樹は旅行に行くと映画館に入りたくなる、とも。しかし、吉田氏ほどの文学者が「読書は愚の骨頂」というのはすごいね。ボクがこの世でもっとも読書が進む場所はカプセルホテルだね。あの、狭い空間にいるといっくらでも本が読めるのだ。この人は「飲んだり、食べたりに限る」などとトボけた言い方をするが、その飲食の仕方はハンパでなくハードコアなものだ。

 (長編の翻訳を終えた祝いに出版社に関西へ酒飲み放題旅行へ行かせてもらうこととなった。かくしてかなり厚い札束をもらった。←このイントロの時点でいろいろアレだ)汽車のなかで飲み出して飲み続けて夜を明かし、翌日京都に着いて、出版社が紹介してくれた宿屋で早速ビールを又一本飲んで眠って目を覚ますと、外に出て所々飲んで歩き、晩に宿屋に帰って来て本格的に飲み始めた。宿屋には出版社から何か言ってあったようで旨い酒を幾らでも持ってくるので、その晩は一升ばかり飲んだ。翌日、眼を覚まして、又ビールを頼み、という風にして、何日か過ぎた。これからが本論である。(旅の道連れは金に限るという話)

司会者「まだ本論じゃなかったのかよ!」

kenzee「アハハ~オイラのこないだの印税もって梅田で飲み歩いた話なんて屁ェみたいなモンですワ。~という風にして何日か過ぎた、って当時の出版業界もスゴイがアンタもスゴイ。ちなみに本論というのは京都で数日間、ガシガシ飲み歩いてたら(無論、先斗町的ななにかであろう)「アレ?あんなに厚かった札束がずいぶん薄くなっちゃったニャー」ということになって、岩国に帰省していた河上徹太郎に会いに行く約束になっていたが、ホントに岩国までの切符代ぐらいしか残ってないワ!ものすごく心細い心持で汽車に乗って河上さんに会えてよかった。結果、河上さんにいろいろ御厄介になったと言う話。そして教訓。

 金がなければ、旅もつまらないものである。

司会者「ソレはキミが京都で大金をムチャクチャに散財したからウンヌン」

kenzee「こんな本を読んだらボクもいきなりテキトーな電車に乗り込んで旅に出たくなります。で、山口県とかのビジネスホテルにポーンと泊まってみたりとか」

司会者「で、タクシーの運転手さんに「この辺で、旨い寿司屋とかあります?」とか聞いてみたり」

kenzee「下手な海外旅行とかよりよほど贅沢だと思うのだ」

・佐々木俊尚さんの新刊、「21世紀の自由論」

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kenzee「佐々木俊尚さんに新刊をご恵投いただいた。「21世紀の自由論」ボクの本もチョコっと引用していただいている。この本はここ数年の佐々木さんのライフワークであるところの、未来社会論みたいな話だ。「レイヤー化する社会」「当事者の時代」の続編みたいな内容だ。大変にキャッチーな問いが発せられる。

 「生存は保証されていないが、自由」と「自由ではないが、生存は保証されている」のどちらを選択するか。

今の社会が成熟していくと前者の生き方に最適化していかざるをえない。まず、前半、リベラルといわれる論者をボコボコに批判する。「反権力」を標傍する彼らは海外におけるリベラルとは似ても似つかないものだ。タダの立ち位置に過ぎない、と。そして「政治」や「権力」の外から反対する、という構図自体がいずれ無効になる、というのだ。つまり、誰もが反権力であり、誰もが管理者になる「当事者」の時代が到来すると。もはや反権力を気取って溜飲を下げてメデタシメデタシ、とはいかない。たとえばネットの言論には外はない、という佐々木さんは言う。発言すればすでに当事者なのだ、と。そして最後に佐々木さんの未来予想図が語られる。それは「ネットワーク共同体」だ。ソーシャルネットワークを通じて人間関係は「レイヤー化」し、土地や国家や血縁などに縛られない、グローバルで流動的なレイヤー化された共同体に人間は紐づけられるようになる。そうしてようやく人間は自由になるのだ、と」

司会者「バーっと言われてもワカンナイですね」

kenzee「「レイヤー化」「当事者」の議論をさらに発展させているようなところがある。たとえば一般に世界史はヨーロッパ史を中心に描かれるが、ギリシャ・ローマ文明が滅びたあと、世界の中心は中東、インド、中国のユーラシア大陸南部地域だった、という話は「レイヤー化」にも登場する。その後、イスラム国問題がでてきた。また、「マイノリティ憑依」という佐々木用語が登場するが、これは非正規労働者とか被災者とかいったマイノリティの立場に憑依して議論に勝ちにいくリベラルの議論テクのことである。「当事者の時代」でも「吉本隆明あたりが「われわれ前衛が大衆を覚醒させていくのだ」といったような幻想の大衆を持ち出して以来の手口」という話がでてくる。このような議論を引き継いだものだ」

司会者「佐々木さんといえば「鯖江のメガネはエエよ~」とか「家メシも美味いヨ」といったホノボノ路線もあるが、今回はハードな話だね」

kenzee「最初っから飛ばしっぱなしで、社会の教科書みたいな話が続く。物書きの立場から言わせていただくとボクは一個、マジメな話をしたら3個ぐらいトボけた話しないと読んでもらえないのではないかとヒヤヒヤなので話が一向に前に進まない作家となってしまうのだが、佐々木さんは重装備戦車のようにガシガシ突き進むのであった。そしていよいよこの本の核心、「ネットワーク共同体」話だ。これはまず、将来人間は「レイヤー化」することが前提の話である。

 たとえば私という人間は、佐々木俊尚というひとりの独立した個人だけれども、一方でさまざまなレイヤーも持っています。日本人という国籍のレイヤー。ジャーナリストという職業のレイヤー。兵庫県西脇市出身という出身地のレイヤー。(中略)そういう無数のレイヤーを積み重ねていった結果として、私という個人がある。(略)だから私は、レイヤーが積み重なったひとつの集合体であるともいえるのです。(レイヤー化する社会)

レイヤー化した人間は、土地とか国家とか人種とかに縛られず、レイヤーごとの共同体の中で快適に生きていくことができる」

司会者「もう、苦手な会社の花見とか飲み会に参加しなくてもいいということなのかな?」

kenzee「せっかくボクの本を引用していただいてこう言うのもアレなんだけど、ソーシャルネットワークで繋がれるのは趣味の関係だけだと思うのだよ。つまり、格差とか差別といった歴史的に蓄積された不公平はなかなか解消できないんじゃないかなと思うのだ。なんというか万事解決とはいかないような気がするのだね。たとえば震災の年、2011年、震災直後に行われた宇野常寛さんと社会学者小熊英二さんとの対談でも宇野さんがソーシャル共同体の未来について語る場面がある。しかし終始、小熊さんはそのような未来に懐疑的なのだ。コトは小熊さんが震災によって今まで目に見えなかった格差の問題を可視化してしまった、という話をする。そこで宇野さんはそう悪いことばかりでもなかったと反論する。宇野さんの反論とはこんな感じだ。

「インターネットには現実を変える可能性がある。今回の震災でもネットの介在によって情報格差は収入差や学歴差とは異なるパラメータとして人々の状況判断を左右した。日本のポップカルチャーの特徴は年収1000万ぐらいある高学歴の人と、年収300万の派遣社員が同じアニメに萌えているというところだ。なんでもかんでも年収と学歴と家柄で決まることはなくなりはじめているのでは。ネットと文化の関係においては、ネットに支援される形で趣味のコミュニティが出現しはじめている。ここには地理や階層との結びつきが弱いコミュニティが生成されている。宮台真司さんはこれを「無関連化」現象と名づけた」(PLANETS SPECIAL2011夏休みの終わりに・小熊英二インタビュー「可視化されたものたちについて」からボクが独断的に宇野さんの発言を編集したヨ)

これに小熊さんはハッキリと否定する。

「まず、階層を越えてポップカルチャーが受容されているのは日本に限ったことではない。60年代~70年代まではヨーロッパでも労働者階級と中産階級以上とでは車の趣味も音楽の趣味も全然違っていた。それが80年代以降、世界的に規制緩和が進んでポスト工業化社会になり、非正規雇用が増え、イニシエの労働者階級は解体された。つまり、労働者階級文化に帰属意識をもたない若者が増えてきた。じゃあそれで格差がなくなったかといえばそんなことはなくて出身階級、出身家庭でその後の進学や就職には今でも影響を与えている。不安定な職に就くとアイデンティティ危機が起こるのも世界的な傾向。問題は階級帰属意識がないので不安定な立場を階級的な問題ではなく自分個人の責任と思い込む。これがメンタルの問題につながる。無論、階級格差のなうなっている部分もあって、それはサブカルチャーの分野だ。どの階層の若者も階級文化に固執しなくなって同じゲーム、音楽、ファッションを流行とともに消費するという傾向が強い。どうしてこうなるのか。基本、サブカルチャーは大衆消費文化なのでマスに売ってナンボの商売なので高階層も低階層も楽しんでもらわなければならないという単純な原理による。このような議論は1950年代にも社会学者の加藤秀俊が「中間文化」というのを書いていて、古い文化は階級で分断されていたけれども新しい洋画やジャズは、若者の間で階級を越えたコミュニケーションをもたらす中間文化になると言っている。でも実際にはどうだったか。ロックも洋画もジャズも広がりを見せたのは一世代だけで、その後は細分化していったり、最悪、それを消費できる文化資本をもつ人によって排他的な差異ゲームの装置に成り下がってしまった。宇野さんの言うアニメやネットのコミュニケーションもそういうものではないのか?(ボクの独断編集による小熊さんの反論)

イッコ、小熊さんに反論するなら、インターネットはロックや洋画と違ってタダのコンテンツではない、情報技術だという点だろう。文化資本という点ではフラットということだ。アイフォンやアプリに金持ち用と貧乏人用がないということだ。「中間文化」に話はちょっとズレていると思う」

司会者「佐々木さんの「ネットワーク共同体」は理想論?」

kenzee「イヤ、ソーシャルはこれから人間関係の重要なプラットフォームになるのは間違いないと思うし、ソーシャルの時代になると「当事者」になる、というのも理解できる。ネットワーク共同体の未来の風景を考えてみよう。その人物がどの共同体に帰属しているかをもっとも如実に表すのはなんといっても冠婚葬祭だと思うのだ。なにしろ、結婚式には家族、親戚、会社の上司、同僚、学生時代の友人、これだけの人々は集まる。こんな環境に置かれて平然とできる社会人の皆さんがオイラにはまったく理解できないのだけど、こういうベタベタな結婚式がドンドン廃れていると聞いている。親しい友人だけ集めて宴会してオワリ、みたいな。最近のマイルドなヤングたちは。もしかしたらあと何年かしたら趣味のコミュニティでヨメを見つけて趣味のコミュニティだけで結婚式したりするようになるのだろうか。会社も家も介在せずに。そうなったらホントのネットワーク共同体だと思うのだ」

司会者「鉄ちゃん同士の結婚式を鉄コミュニティで集まってお座敷列車みたいなので式を挙げるとかもうあったりして」

kenzee「葬式でもそうだよ。ウダツのあがらんサラリーマンだと思ってた人が亡くなった。したらすごい有名な作家とか俳優とかが弔問に現れたりして。したらスゴイ趣味のコミュニティでの親しかった、とか。そういう共同体はこれからあるかもしれないな。それでも格差とか差別とかは温存されるような気がする」

司会者「全然バシっとした反論になってないな」

kenzee「なんか上手く言うのが難しいな。ネットワーク共同体のリスク面が秋葉原事件なんじゃないかとか思いつきはあるんだけども。とにかく佐々木さん、ありがとうございました」

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