コーネリアスでマラソンを走ってみようと思う。(「太陽は僕の敵-The Sun is My Enemy」('93年)のみ)
kenzee「フリッパーズ・ギター及び小山田圭吾さんのソロワーク、コーネリアス の音楽はボクの人格形成に強く影響を与えている。小山田さんが歌うのを聴いたのは高校入学の1990年、予備校ブギ主題歌であった。すでに中学時代から音楽好きではあった。時代はバンドブームであったがそういうのとは全然違う音楽。コレ、ジャズとかいうヤツかなよく知らないけど、という印象だった。当時15歳の田舎の子供の感想。それでも6歳上の姉がいたために普通の子より音楽には詳しかったのである。ジャズ風ということが珍しかったわけではない。佐野元春や大江千里の楽曲にもジャズ風に展開するものはある。それらとは何かが違う、と感じたのだ。こういう勘というのは子供のほうが鋭いもので「その手の上の世代とは違うポップス」とボクは勝手に認識した。ただしこの時代、彼らの来歴を知る手段は田舎では絶望的になかった。ユーミンさんの新譜をバーン並べるだけのCD店、週刊誌と学習参考書とマンガのコミックしかない書店、これが文化のすべてである」
司会者「急に小山田圭吾の話をし始めた彼になにがあったの?」
kenzee「夏に予備校ブギ主題歌を含むアルバム「カメラトーク」が発売となる。当時一件だけあったレンタルCD店藜紅堂にて借りたのである。これは衝撃的なアルバムでジャズ風と呼べる曲は結局予備校ブギ曲のみで変わったコード使いのアコースティックギター主体のロック、複雑な陰影をともなった歌詞、バラエティに富んだ曲調、だがどれもストレートなポップス。なんというか大人っぽい音楽に聞こえたのである。当時、ボクが彼らの情報をリアルタイムで追えるメディアはなんとGBとパチパチ、つまりソニーマガジンしかなかった。まだ版形のデカイロッキングオンジャパンは近鉄奈良駅東向き通りのコトーモールの中の本屋さんにはあったかもしれない程度。宝島など影も形もない。昔の日本の地方とはそんなもんである。なので「彼らは口が悪い」とか言われるのもよくわからない。ソニーマガジンではそこまでひどい発言もなかったからだ。GBはもともとギターファン向けの雑誌だったので歌本が付録でついていた。歌詞にギターコードが載っているというもので、昔の読者はこれを観てチャゲアスや長渕等をコピーしたのだろう」
司会者「急に青春の音楽思い出話」
kenze「余談になるがこのGBの歌本は異常に正確であった。明星などとは比べ物にならないくらいだ。普通の歌本なら省略しそうなテンションコードもちゃんと採譜、というか採コードしていた。たぶんジャズの素養のある人がやっていたのだと思う。当時バービーボーイズのいまみちともたかが自分の曲のコード忘れた時にGBは重宝する、と言っていてそれも頷けるものだった。ちなみにバービーは作曲者も忘れてしまうほどヘンテコなコード使いのバンドである。そこでGB歌本で採譜された「恋とマシンガン」は当時のバンドブーム期の楽曲ではまず登場しないディミニッシュやフラットフィフス、オーグメントでしかも分数和音、Aメロの中で転調、といった見るからに「ドヤッ」と言わんばかりの構成で「やっぱり普通のバンドの曲と違うなあ」と思った16歳」
司会者「キミは楽器の素養があったのかね」
kenzee「ボクは小学校の1年生の時から「あこや楽器音楽教室」(ヤマハではないところに注目!コレが地方だ!)のエレクトーンを習わされていた。ムチャクチャイヤであった。教室のお友達は女の子ばっかりだし、そういう子たちはピアノも並行して習っていたりするのでまあ、上手いのだよ。それでも4年生ぐらいまで通った。そして中学生になるとバンドブームがくる。お父さんの(音楽の素養まるでなし)古賀政男のクラシックギターでブルーハーツなどをコピーするようになる。エレクトーンという楽器の素晴らしいところは音楽をメロディ、コード、ベース、リズム(エレクトーンにはリズムボックスがついている)と四大要素にバッコリ分類して子供の脳に叩き込む点である。これはポピュラーミュージックというものを効率的に理解するうえでよくできた仕組みである。話が逸れた。実際にGB歌本を見て弾いてみると恋とマシンガンと長渕のとんぼでは使われているコードが全然違う「なんか音楽に詳しい賢そうなバンド」というイメージ」
司会者「高2の時にヘッド博士を残してフリッパーズは解散」
kenzee「そう。で、高3ぐらいになるとどうも彼らには独自のルーツがあるということがわかってくる。アズテックカメラとか。そしてそういう音源を手に入れようにもそんなものどこにもないのだった。そして高校を卒業すると93年がやってくる。小沢と小山田のソロビューの年だ。偶然なのか必然なのか同時期に彼らはソロデビューするのだ。オイラは予備校生である。予備校ブギであった。普通は悲しき受験生のはずである。だがオイラの記憶は93年から急に白黒からカラーに変わるぐらいここから明確になる。予備校が大阪の上本町という、今考えたら近鉄百貨店と都ホテルと予備校しかない郊外なんだけどオレの目には大都会にあった。当時は古本屋も何件かあったしアナログを扱うレコード店もあったと思う。なにより本屋である。上本町ハイハイタウン内のルーブル書店(なんと去年閉店した!)にはほぼすべてのめぼしい音楽雑誌は揃っていた。ロッキング・オン関係、ソニーマガジン、ミュージックマガジン関係(レココレとか)はもとよりフールズメイトなどまである。ついでに文芸誌を売っているのをはじめてみたのもここでだ。この時代のオイラ日課は10時にルーブル書店で音楽誌、文芸誌(文學界、群像、すばる、文芸、あと海燕とかあったナー)一気立ち読み、あと週刊朝日のダウンタウン松本の連載オフオフダウンタウンの忘れてはならない、とバカの浪人生の日常である。あの二人のソロデビューを知ったのもここでロキノンジャパンを読んで、だ」
司会者「バカの浪人生」
kenzee「なんでこんなにハッキリ覚えているのか? アラフィフのオイラときたら昨日食った昼飯も思い出せないのに。やはり10代ってスゴイのだ」
司会者「早い話が今、世間からかなり冷たい仕打ちを受けている小山田圭吾さん。だがkenzeeにとっては重要なミュージシャンである。過度な社会的制裁を受けているとしか思えないが、個人の力では限界がある。もともと風評被害というものはほぼ手立てはない。そこで」
kenzee「コーネリアスマラソンを走ってみるというのはどうかなと思いまして」
司会者「kenzeeがaikoマラソンを走ったのはもう8年も前のこと。もう年だ。間寛平やあるまいし、こんな長期のキャリアのアーティストをマラソンしたら死ぬのでは」
kenzee「死ぬ。なのでaikoの時、読んでくださってた方。最初に断っておきますけど今回は完走はしません。大体「Point」以降ほぼインストなのに走れるわけがない。なので飛び飛びで走ります。一応「Mellow Waves」までは行きたいな。無理かも。そのぐらいaikoの時は若かった。一応リリース順に走ろうと思う。ウィキではなくこの本
「コーネリアスの音楽とデザイン」を参考に走ろうと思う。その前にフリッパーズ解散からソロデビューまでの経緯をたどってみよう。月刊カドカワ1994年3月号のインタビューによるとこんな流れ」
フリッパーズ解散後は基本、家でごろごろする生活だった。キョンキョンに曲書いたり、友だちとロンドンやパリで旅行に行ったりしていた。ただし旅行先でもレコードばかり買っていた。レコード以外では当時ヨーロッパで盛り上がっていたレイブに行った。この時、アムステルダムで7万人のレイブがあったようだがそれには行けず、3000人ぐらいのイベントだった。客は失業保険で食いつないでいるような若者が多かった。別のベクトルでジャミロクワイを観た。まだシングル1枚でたばっかり。でもギャル人気高かった。当時、イギリスではすでにフェス文化が形成しつつあってグラストンベリー、フェニックス、レディングが三大フェスだった。(日本の初回フジロックの4年前の話なので違う意味で興味深い話)そのうちエルのマイク・オールウェイからサッカーのコンピレーションCDをやらないかのオファーがきてプロデュースした。その中でレーベル運営、という方向性もでてきた。トラットリアというレーベル名はマイクが命名。そうこうしてるうちに後輩バンドのブリッジのアルバムをプロデュースした。ピチカートファイヴのアルバムもプロデュースした。整髪料ウーノのCMもでた。この時の楽曲、「Into Somethin~More Mission」(Mo' Music名義)作った。当時のアシッドジャズの影響色濃いインスト。これ含むコンピ「Jazz Jersey」だした。ここまでが92年~93年までの動き。そしてコーネリアスとしてのソロデビューが93年9月1日発表「太陽は僕の敵」左端のジャケ。
https://youtu.be/KezBVFWX68s
kenzee「よくAzteca「Someday We'll Get By」('73)
https://youtu.be/Xd8jq9ogByk
が元ネタと言われるがラテンとジャズファンクが融合したような景気のいいポップス。当時さかんに雑誌でも言われたのは「フリッパーズ・ギターのような」という形容。本人も「普通にやってるとこういうふうになる」と述べている。だが「太陽は僕の敵」はフリッパーズ的だろうか。もう少し詳しく見ていこう。まず、この曲を聴いて「フリッパーズ的」と感じる人の脳内では「カメラ・トーク」期のサウンドが鳴っているハズである。ではカメラトークのなかにこの曲が収められていたらそれはそれで違和感があるのではないか。その違和感とはなにか。「カメラ」の曲は多くを小沢健二氏が手がけている。小沢楽曲とは「恋とマシンガン」でも触れたように複雑なコード使いや転調の多用による陰影を帯びたサウンド、ということになる。これは小沢曲と思われる「カメラ、カメラ、カメラ」「全ての言葉はさようなら」でも言える。(注1)つまりカメラトークの印象とは小沢のちょっとムリクリ感のある複雑味の楽曲、そして抽象的で哲学的な、使われている言葉そのものはポップだが全体として難解な歌詞、でできていると言える。つまり「カメラトーク」において彼らは音楽のうえでも「ボクら、一見オシャレでカワイイ優等生ポップス職人にみえるかもだけど、陰影のある難しい人間なんですよ」と主張している。しかし「太陽~」にはこのような屈託がまったくない。上記の小沢曲のような複雑味を排したストレートな楽曲、という特徴がある。掟ポルシェさんも「当時コピーしようとしたらフォークソングみたいな簡単な曲でビックリした」とツイートされていた。なにせこの曲はAm7とGM7の繰り返しが基本でサビになるとAm7→Am7onD→GM7→E7(ココ、細かく言うとBm7onE→E7というべきか)と回転する、というむしろ「コレが元フリッパーズか?」とあっけにとられるような曲なのである。フリッパーズにしてはあまりにストレート、あまりにも直球の曲なのである。これならまだインストの前曲「Into Somethin'のほうがなんぼか陰影があるというものだ。もしやこれはむしろ「フリッパーズではありません宣言」の曲だったのではないか。元々小山田曲とは「カメラ」においても小沢曲に比べるとスッキリ素直なのだった。「サマービューティー」がそうだ。多少ギターが弾ける者なら誰でもすぐ耳コピできる曲。だからといって小沢曲に見劣りするどころか強いインパクトを残す曲。これが小山田氏の資質だ。これはヘッド博士曲にも言えることで「ウイニーザプー」「クイズマスター」が小山田曲と思われるが難しくしようとか賢そうに見せようといったスケベ心の一切ない直球のポップ。この「小沢と違って俺は直球」宣言は4年後、たった2つしかコードのない「Star Fruit Surf Rider」でひとつの到達点を迎える。今となっては目立たないデビュー曲だが小沢氏に向けたメッセージだったのかも知れない。そして歌詞だ。残念ながらフリッパーズの歌詞のマネと言われても仕方のない一生懸命書いた作文のような詩ごころというものが感じられない歌詞。小沢さんはホッとしたことだろう。元々言葉の人ではないのだし本来なら思い切ってプロの作詞家に頼む、というの手もあっただろうが「一度決めたらやり通す」不思議と男気もある小山田氏。ファーストアルバムではたくさん書いてるうちにだんだん上手くなっていく過程も見てとれる。ラブパレードあたりになると「言いたいこと」と「言葉のセンス」がギリギリのバランスを保つところまで向上する。とにかくまるでフリッパーズのようでフリッパーズじゃない曲。これが第一歩なのだった」
司会者「こんな走り方で「Mellow Wave」まで行くの?死ぬぞ」
kenzee「ホントだ。まだ一曲目でこんな感じでやってたら死ぬワ。来週はちょっと考えて走ろう」
注1・・・・・・フリッパーズ曲のクレジットはDouble Knockout Corporationというもので二人の共作ということになっている。(作詞はすべて小沢氏の手による)ところがどういうことか小沢健二氏のオリーブの連載、ドウワッチャライク最終回にて彼は作曲者のクレジットを明かすのだ。これによれば小沢一人で作ったのは「フレンズ・アゲイン」「恋とマシンガン」「カメラ!カメラ!カメラ!」「全ての言葉はさようなら」小山田のみで作られたのが「ヘアカット100」「偶然のナイフ・エッジ・カレス」「ビッグバッドビンゴ」「午前3時のオプ」「サマービューティー」「ラブ・トレイン」とのこと。急になんでバラそうと思ったのか不思議だがこの情報によってそれぞれの曲作りの癖というか個性が判明したのである。なぜか小沢氏はこの時「ヘッド博士」曲には触れていないが、ボクの予想では「ドルフィン・ソング」(共作)、「Groove Tube」(小沢曲)、「アクアマリン」(小山田曲)、「ゴーイング・ゼロ」(わからない。たぶん共作)、「スリープマシーン」(小山田曲)、「ウイニーザプーマグカップコレクション」(こんな単純な中にこんだけのドラマを展開できるのは小山田に決まっている)、「奈落のクイズマスター」(小山田、プライマルスクリーム大好きっ子だし)、「星の彼方へ」(小沢曲)、「世界塔よ永遠に」(共作)と睨んでいる。それぞれ見分ける特徴がある。ソロになってからガラっと変わったとか言われたが言うても人間。その後も特徴は変わっていない。おいおい述べるとしよう。
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コメント
私の音楽はフリッパーで始まってるので、今回は本当に残念です。
今も聞いてるので、子供たちも流れるとわかるみたいで嬉しがっていたけど胸はって言えなくなって寂しいです。
携帯にはいってる曲はフリッパーしか入ってないのでこれからもひっそり聞いて楽しみます。
投稿: トロ | 2021年8月23日 (月) 11時05分
ありがとう!
子供に好かれる曲ってありますよネ!「恋とマシンガン」とか電気グルーヴの「富士山」とか。小山田さんイロイロありますけどコチラでは音楽の話しかしないですヨ。
投稿: kenzee | 2021年8月23日 (月) 21時09分
小山田くんの歌詞の件、ものすごく同意です。無理してわざわざ小沢くんに寄せなくても‥と思った記憶がよみがえりました。
投稿: むつ | 2021年8月24日 (火) 13時26分
むつさん。
ホンット、カメラ・トークの歌詞読み直したら小沢詞はスゴイですよ。30年以上前のものなのに昔の歌って感じがしない。言葉のチョイスから組み立てから全然違う。フリッパーズっぽい歌詞を書くなんて巨人に挑むようなものです。でもまあ挑みたかったんでしょうなあ。
投稿: kenzee | 2021年8月24日 (火) 20時45分