いくら輸入文化っつっても日本語の歌詞は輸入できないので一から構築しないと問題(小沢健二の歌詞編その1)
kenzee「さて、今回はコーネリアスマラソンはお休みして、元相方の小沢健二さんの歌詞とはどういうものなのか。考えてみよう。前回までのコーネリアスアルバム「ファーストクエスションアワード」の小山田さん自身の手による歌詞はカメラ・トーク期の小沢さんのような語彙、文体、相対主義や諦念といった思想を模倣したものと考えられるが、まったく小沢さんに適うレベルになかった。ただ逆説的に言えば小山田詞の失敗とは、オシャレな語彙を「~だろう」に代表されるモラトリアム感でコーティングすれば誰でも小沢になれる、というものではない、ということの証左とも言える。それでは小沢詞とはどういうものなのか。まず、小沢健二とはどういうアーティストなのか。100年後の人類にもわかるように小沢を説明するとこうなる」
1990年代の日本の流行歌「J-POP」の象徴的なアーティスト。自身で作詞作曲編曲歌唱を担当するシンガーソングライターである。作詞家としての功績としては日本の流行歌における「ラブソング」の語彙、文体、言葉遣いを更新したことにある。1994年のアルバム「LIFE」はこの時代の恋愛観、人生観を従来的なニューミュージックのそれから決別したもので、これ以降日本のロック、ポップスの歌詞はより口語的、散文的な方向へ進化を遂げることになる。
ここで言う「従来的」とはユーミンさん的、松本隆的、中島みゆき的、小田和正的なるもので、彼らの恋愛の歌詞とは70年安保の「学生運動の敗北」が前提にある、という共通項がある。敗北とオイルショックの73年、そこから十数年で日本経済が一気に成長し、90年にバブル崩壊を迎える、この約20年間の間の耐用年数しかそもそもない世界である。実際「従来的」な恋愛作詞家たちはバブル崩壊の気分が決定的となった震災、オウムの95年以降、代表作と呼べるようなヒットをだしていない。「LIFE」は94年当時の時点で80万枚のセールスを記録し、現在では累計100万枚を超える90年代を象徴するラブソング集である。「LIFE」の小沢詞と上の世代のラブソングの違いを挙げ出だせばキリがないのだが、たとえば上の世代にあって小沢ラブソングにないもの。「失恋」が描かれない、松本やユーミンさんは洒落た「風景」にこだわったが小沢詞は「東京タワー」や「原宿」といった固有名詞がわずかに登場はするが、それが広告代理店的なトレンドワードでなく、若者の日常を演出するワードとして、つまり逆の意味として登場する。そもそも「風景」はほとんど描かれず「君と僕とは恋に落なくちゃ」「いつも僕さって考えてる」といった断定的に恋愛を決めつける主体が主人公となる。上の世代がもっとも得意とする「迷う」とか「恋に揺れる」といったグラデーション的な心情を意識的に切って捨てるようなところが小沢詞の恋愛のあり方である。また、小沢詞は技術的な面で「日本語の韻の可能性」に挑戦している点も特徴的である。「~会ってfeel alright ~なって知らない(ラブリー)」、「ヤングアメリカン、~オンリーワン、夜のはじまりは(今夜はブギーバック)」などに見られる。95年以降に勃興した日本語によるラップ詞の韻の進化と比べると未だ実験段階ではある。しかし日本語の韻の可能性を94年の時点で示唆していることは後のJ-POPの詞に少なからず影響を与えたはずである。ところで小沢健二は音楽活動の当初から日本語で歌詞を書いていたわけではない。商業音楽活動のスタートはバンド、フリッパーズギターのファーストアルバム('89)からである。
このアルバムは全12曲、英語詞のアルバムである。すべての英語詞と対訳は小沢氏の手による。
このアルバムのあと、小山田氏と小沢氏の二人組となったバンドは「フレンズ・アゲイン('90)」というシングルを発表したのを最後に英語(プラス対訳)詞を封印し、最初の日本語詞の楽曲でありそして今日もフリッパーズの代表曲とされる「恋とマシンガン('90)」を発表する。そして小沢氏の最新シングル「泣いちゃう('21)」に至るまで日本語詞による楽曲を発表し続けている。フリッパーズギターは3枚のアルバムを残し、突然解散したが、すべての日本語詞を小沢氏が手がけた。この作詞のキャリアを俯瞰するとまず、英語詞と日本語対訳から詞作にアプローチし、やがて日本語詞と向き合い、そして大衆歌謡と呼べる地点まで推し進めていった、と読める。小沢さんが新しいタイプの恋愛ソングを創作するにあたって、この「英語詞(対訳)」からスタートした、という点は重要である。なぜなら「LIFE」の恋愛ソングは上の世代、ユーミンや松本隆らの語彙、文体(面倒なのでここではユーミン、松本辞書、YMDと省略しよう)を借りずに94年の恋愛のリアリティを獲得するうえで英語でスタートを切る、というのは「ここで日本語のポップス詞をいったんリセットします」という行為にほかならないからである。小沢さんはほとんど雑誌のインタビューなどで「創作の秘密やテクニック」的な話をしない人物である。2010年の復活以降は「インタビューを受ける」ということをしていない。(ただし公式サイトひふみよにおいては頻繁に更新を行い、ファンへのメッセージを欠かさない)つまりここで私が考える小沢氏と日本語の格闘の歴史、などというものはほぼ推論、仮説にすぎないという点もご了承いただきたい」
司会者「推認、推認、公正な裁判やないねえ!」
kenzee「フリッパーズ時代はなにを聞かれても話をはぐらかし、ソロデビュー後は実作についての話はまずしない、つまり小沢氏の創作とはとても謎めいたところがあるのだが唯一、93年のソロデビュー直後のみ小沢ソロとはなにか、創作とはどういうことかということについて意欲的に語っている時期がある。1993年10月号のロッキンオンジャパンのロングインタビューと93年11月号の月刊カドカワのインタビューである。この時期のみ集中的に「歌詞とは」ということについて話している」
じつは僕はほんとにネタなしで絶対いいと思う日本語の歌詞っていうのをもうほんとにオリジナルに書いてきたと思うの。語法から文法から小沢語彙みたいなものとか小沢文法っていうのもほんとに一人で作ってきた。いちおう5年間の日本語との戦いで1個形ができたの。(中略)何かこれが1個完成形なのね。(中略)僕は積み重ねてきた結果として少なくとも日本語でこういうことを歌うってことについては文法も語法もオリジナルに積み重ねてきたしその点はこのアルバム(ファーストソロ)に関して一番よくわかるし一番自信のあるところだし!(中略)それにあとまあ日本語詞っていうのの前段階として何も言いたくないから英語詞ってのもあんだけど。そんときはわりと虚構ありだよね。(ROJ93年10月号)
日本語に関してはすごく開発してきたなと思ってます。4年間ぐらい真面目にそれと向き合ってきたな、小沢文法、小沢語法みたいなものがちゃんとやれてきてるし、どんどん広げていきたいな、と。(中略)この曲(天使たちのシーンのこと)に関しては遠景とかじゃなくて総体っていう感じで。総体にいきたいって。なんでこんなに長くなったかというのはね、単純に日本語って母音が多いから英語にくらべて情報量が少ないわけです。僕ぐらい言葉のなかにいろんな風景や概念を短くギュギュっと押し込める人でも13分半ぐらいないと総体は書けない、ということをやってしまったという。(月刊カドカワ93年11月号スピリチュアル・メッセージ新しいフレーズを届けたい)
小沢氏が正面から日本語詞とは、というテーマで語ったのはおそらくこの時期だけである。ここで言わんとしているのはかつて小沢氏がやっていた音楽というのは海外の音楽に強く影響を受けたものでいわば輸入文化であると言われてきた。実際、同時代のUKの動きに注意を払ったもので洋楽オタクなどと言われるものであった。しかしここで言外に訴えているのは「サウンドは多少、技術やセンスがあれば真似ること、輸入することはできる。そもそも日本はソニーとトヨタの輸入とモノづくりの国である。だが歌詞を輸入することはできない。たとえばロディ・フレイムのネオアコサウンド自体は肉薄することもできる。だがロディの左翼よりの歌詞を真似ても意味がない、同様に最新のプライマル・スクリームのサウンドを早速取り入れることはできる。しかしイギリスの80年代の世相と密接に関係しているボビーギレスピーの歌詞など輸入文化にとってほとんど意味がない。ではどうするか。日本語で歌う、とは。いきなり日本語で恋愛っぽい歌詞を書いたならばどうしてもYMDに似てしまう。だったらいっそ英語で歌えば・・・」というところからスタートしたのではないか。結果、小沢詞とは「恋とマシンガン」及び「カメラ・トーク」の世界、「ヘッド博士の世界塔」を経て、ソロ活動「犬は吠えるがキャラバンは進む」へと自身の日本語を掘り下げていった軌跡であったと言える。とくに「天使たちのシーン」がなぜ13分半もあるのかということについて英語と日本語の情報量の差、という思いもよらない事情があったというのが興味深い。「英語からやり直さないと現代の日本語の言葉で恋愛や人生は歌えない」という命題があったればこその「LIFE」の成功だと思うのだ。
J-POP史と戦後日本文学史との相似について考える
kenzee「ここで小沢の足跡によく似たキャリアを持つ日本人作家がいたなあ、と思い当たる。村上春樹である。村上春樹は1979年、「風の歌を聴け」でデビュー、1987年発表の恋愛小説「ノルウェイの森」が1000万部を超えるベストセラーとなり、現在「もっともノーベル文学賞に近い作家」ということになっている。いったいなにが似ているのか。デビュー作「風の歌を聴け」は講談社の「群像」という文芸誌が主催する「群像新人文学賞」を受賞し、作家デビューとなった。この作品は今でも言われることだがまるで海外小説を翻訳したかのような乾いた文体が軽やかで新しい、と言われる。またこのデビュー作は上の世代の日本文学、戦後文学に特徴的な戦争の傷、貧困、差別、また政治運動などの歴史から断絶している、その代替としての翻訳調なのだ、といった批判もある。この春樹デビューを現代的な視点で捉え直したさやわか「文学の読み方」(星海社新書)を参考に当時の春樹文学がどのように受け入れられたか見てみよう。まず群像新人賞では好意的に受け入れられたようだ。当時、群像1979年9月号の選評ではこんな評価だった」
「ポップアートみたいな印象を受けた。(中略)軽くて軽薄ならず、シャレていてキザならずといった作品にあっているところがいいと思った(佐々木基一)」
「実は今なにが書いてあったのか思い出せないのだが、筋の展開も登場人物の行動や会話もアメリカのどこかの町の出来事(否それを書いたような小説)のようであった。(島尾敏雄)」
「カート・ヴォネガットとかブローティガンとか、そのへんの作風を非常に熱心に学んでいる。その勉強ぶりは大変なものでよほどの才能の持ち主でなければこれだけ学び取ることはできません。(丸谷才一)」
基本、褒めてはいるのだが「海外の小説をよく勉強しててシャレてるね」ぐらいのことしか言っていない。さやわかさんは「初期の村上春樹はしばしば、海外の小説を翻訳したようなスタイリッシュで乾いた文体によって心情を強く表現しないことに特徴がある、と評価されたのです」とまとめている。ところでこの評価、フリッパーズのファーストの英語の歌詞の評価によく似ているとも思うのだ。「海外の短編小説のよう」「外国のどこかの出来事」「ポップアートのような」小沢英語詞の評価によく似ている。村上は当時、デビュー作と2作目が芥川賞の候補にもなっている。結果、落選したのはよく知られているところである。つまり芥川賞選考では非難されていたということである。
「外国の翻訳小説の読みすぎで書いたような、ハイカラなバタくさい作だが……。(瀧井考作)」
「今日のアメリカ小説を巧みに模倣した作品もあったが、それが作者を彼独自の創造に向けて訓練する、そのような方向づけにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた(大江健三郎)」
また別のところ(文藝春秋1980年9月号)では
「ひとりでハイカラぶってふざけている青年を、彼と同じようにいい気で安易な筆使いで描いても、彼の内面の挙止は一向に伝達されません。(中村光夫)」
これもまたフリッパーズ英語詞への評のように読める。未だバンドブームのさなかにあって、バンドとは反抗的な姿勢を良しとする日本の音楽シーンにあって「ハイカラぶっていい気になっている坊ちゃんバンド」と感じた者もいたであろう。村上への批判とはおしなべて「ハイカラぶってシャレたような小説だが、現実の日本の若者の心情が描けていない」ということになる。たぶん小沢英語詞もそういうことになる。しかし当時の村上は「現実の日本」とかとはもっと別の、大変なものと戦っていたのである。その戦いについて「職業としての小説家(新潮文庫)」に述べられている。
「風の歌を聴けは書き上げるまでにずいぶん手間がかかった」「そもそも小説というものをどうやって書けばいいのか見当もつかなかった」「それまでロシア小説や英語のペーパーバックを詠むのに夢中で日本の現代小説を系統的にまともに読んでいなかった」「たぶんこんなものだろうという見当をつけ書いてみた」「しかし自分でも感心しないものができあがった」「そこで原稿用紙と万年筆を放棄することにした(その道具ではどうしても姿勢が「文学的」になってしまう)」「押し入れにしまっていたオリベッティの英文タイプライターを持ち出した。試しに書き出しを英語で書いてみた」「外国語で書くと、それなりに効果があることがわかった」「それで書き上げると今度はまた原稿用紙と万年筆を引っ張り出し日本語に「翻訳」した」「翻訳といってもがちがちの直訳ではなくどちらかといえば自由な「移植」に近いもの」「するとそこには必然的に新しい日本語の文体が浮かび上がってくる。それは僕が自分の手で見つけた文体である」(前掲書よりオイラが要約)
このような工程を経て、従来のベタっとした湿度の高い日本語の小説(小説とはもともと明治期に輸入したものです)の文法、語彙をいったんリセットし、新しい文学を獲得したのである。一度、英語で書く。そして日本語に翻訳(それも直訳っではなく彼言うところの移植)する。そこで日本語から湿度を取り除き、ドライ化するという工程。この工程を小沢さんはポップミュージックの分野で行っていたのではないだろうか。この複雑な工程にそれなりに苦労したであろうことはフリッパーズファーストの全曲の英語詞が「1番の歌詞を繰り返す」という苦肉の策で構成されているところからも窺える。無論、現在の村上はすでにはじめから日本語でパソコンに向かって書く、というスタイルに移行しているはずだ。この工程(勝手にオイラが名付ける。英語から日本語にひっくり返すのでタイヤキ工法と呼ぶことにしよう)で書かれたのはおそらくデビュー作と2作目「1973年のピンボール」までであろう。3作目「羊をめぐる冒険」はその長さから鑑みても最初から日本語で書かれたものだろう。最初にタイプライターで書かれた英語の「風の歌を聴け」がどういうものであったか。これは未公開なのでなんともいえないが、「風の~」はすでに英訳(「Hear The Wind Sing」Alfred Birnbaum訳)されている。つまりこの英訳版は最初英語で書かれ、作者の手で日本語訳され、また英語に訳されるというダビングにダビングを重ねた昔のAVみたいなことになっているわけだが、これと読み比べることでどういうファクターを自身の日本語としてピックアップしていったかある程度推測できる。もし、村上がこの工程のなかで捨て去ったものがあるとすれば「英語の響き」である。いわゆるライムに象徴される、英語のカッコイイ響きである。これは「風の~」の有名なシーン、チャプター11の「ラジオN・B・Eポップス・テレフォンリクエスト」のラジオDJのしゃべりを英語版と日本語版で比較するとよくわかる。ようするに日本語のほうはカッコつけたDJを小馬鹿にしたような文体になってしまっているが、英語のほうは単純にカッコいいのである。結果、村上はこのカッコ良さを放棄しないといけなくなった。同じことが「恋とマシンガン」制作の小沢さんにも起こったのではないか、というのがこの話の本丸。次はこの「ラジオDJの英語のカッコよさと「恋とマシンガン」もしかしてもともと英語詞だったんじゃ?から考える」だ。
司会者「いつになったらコーネリアスマラソン、「Mellow Waves」のいたどり着けるの~」
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