コーネリアス「The Love parade」はソフトロック者の目から見ると・・・(コーネリアスマラソンその6)
9月10日はコーネリアス「ホリデイ・イン・ザ・サンe.p.」発売28周年です。初回限定ジャケのステッカーは昔のパソコンに貼っている。
kenzee「コーネリアスマラソン、今回はアルバム10曲目「The Love Parade」からです」
https://youtu.be/MOqQPqkxCe4
kenzee「一聴して元ネタがソフトロックの重要曲、ロジャーニコルズ&ザ・スモールサークルオブフレンズの「Don't Take Your Time('67)」とわかる」
https://youtu.be/shSp1DiFI_U
kenzee「このアルバム中、もっともコーラスが分厚い一曲。コーラスには野宮真貴さんが参加。このアルバム中もっとも女子人気の高い一曲であろう。歌詞は当時の小山田さんらしい「決して変わらない何かとあきらめを乗せたパレード」という諦念と相対主義の歌。ただしラブパレードといえばドイツの有名なテクノのイベント名でもあり、デビュー前の旅行で参加したレイブのイメージと重ねた歌詞かもしれない。当時のインタビューによれば「レイブはイギリスの若者の中でも失業保険で食いつないでいるような人が多かった」という証言もある。サウンドと歌詞が乖離しがちなこのアルバムのなかでもこの曲は詞・曲・編一体のオブジェクトという感じで成功している。フリッパーズ時代の小山田曲「1990サマービューティー計画」も小山田流ソフトロック曲だがゲストヴォーカルには元ピチカートファイヴの佐々木麻美子を招いていた。小山田さん自身のこのファーストアルバム制作の直前にピチカートアルバム「ボサノヴァ2001」をプロデュースしたこともあってか「ソフトロックの曲の時はピチカートのヴォーカル呼ぶ」という公式ができあがっていたのかもしれない。とにかくこのアルバムは現在の眼から見るとこの92年~93年頃の「フリッパーズ解散後のブームやトピック(フリーソウル、ソフトロック、アシッドジャズ、プライマルスクリームの変化、ジャミロクワイの登場など)を一通りフォローしたドキュメントとして機能している。ただし、どの曲も器用貧乏というか「これで行く!」というような明確な音楽的キャラのないレコードではある。(例、オレは日本のジャミロクワイになる!というような)これは歌詞でも「これで行く、とかそういうことじゃないんです」と繰り返し述べていることでもある。まったく余談だが数年後にドラゴンアッシュ「Vi Va La Revolution」を聴いた時の「器用貧乏なバンドダナ~」と感じた時の感じがFirst Question Awardの器用貧乏感の既視感だった」
司会者「ここから話は大きく逸れていきます」
kenzee「ボクのように地方でフリッパーズ「カメラ・トーク」を聴いてぶっ飛ばされた10代の者は多いだろう。ただしクラスでこの衝撃を分かち合える友はゼロであった。もしこれを読んでいるアナタが「イヤ、一人いた」ということならそれは幸福者である。「オマエ、音楽が好きなら何組の○×が音楽好きでギターも弾けるって言ってたぜ」ということで話を聞きに行ったらエンエン、メタリカとガンズとホテイさんのギタリズム2の話を聞かされて終わった、という思い出もある。そんな時代である。ただその人はいい人でフリッパーズは偶然NHKのジャストポップアップ出演時のものを観ていたのだった。「フリッパーズのギターの細い人、グレッチのギター物凄い勢いでカッティングするよね」と感想を述べたのである。このように同世代でカメラトークにぶっ飛ばされた人とちゃんと話ができたのは20歳になってからである。カメラトークで目覚めた者はカメラトークの世界を深堀りしたいという欲望に駆られる。あの頃、一体何人の若者が田舎の商店街の中にある藤あや子のポスターバーンっ貼ってあるCD店で「アズテック・カメラってありますか?」「モノクロームセットありますか」と、ロックなどアバあたりで終わっているような店主のおじさんおばさんを困らせたことだろう。ないんですよ。そんなもの田舎に。90年や91年頃には。「イヤ、アタシ地方人間だけど国道沿いのツタヤでフツーにアズテックカメラとかマイブラレンタルしてたよ」という方もおられるだろう。それは90年代半ば、95、6年の女子高生であろう。全国の田舎にブルドーザーのごとくツタヤが爆増しまくった時代の話である。フリッパーズの現役時代と小沢「LIFE」、小山田「69/96」の時代とは音楽性の変化とかより聴き手を取り巻く音楽インフラが急速に整っていった変化のほうが重要なファクターである。この地方における音楽インフラの整備と小室ファミリーを筆頭とするJ-POPの隆盛はパラレルな関係にある。ツタヤという物理的なハードと小室さんたちのソフトが密接に絡んで走り出したところに上手く乗ったのが音楽番組「HEY!HEY!HEY!Music Champ」だった、という見取り図は概ね間違いではないだろう」
司会者「で、こんな話をしようと思ってたのでもないのです」
kenzee「カメラトークに出会った者は、この世界をもっと深掘りしたい、という欲望に駆られる。小沢歌詞も言っている「ぼくらは 古い 墓を暴く夜の間に」と。で、大人になってから「カメラトーク」人間にいろいろ出会ったわけだが、みんな方向性が違うのである。それほど多面的なアルバムだったのだ。たとえばボクの場合。ボクはどうも「カメラトーク」に「オールディーズ風味」を嗅ぎ取っていたようなのである。つまりアレをポストパンクであるとかUKニューウェイブのなんとかであるというような音楽、という風には受け取っていなかったのである。ボクのイメージではカメラトークは「バカラックとA&Mの60年代ポップスのヤングなヤツ」という受け取り方であった。なのでペイル・ファウンテンズ「Pacific Street」に出会った時は驚喜だったのである。しかし同じく地方でカメラトークに出会った者でもそこからまっすぐ同時代のUKのダンスシーンに向かう者もいた。つまりストーンローゼズとかハッピーマンデーズとかが重要で90年代を通じてオアシスとポールウェラーのソロが重要、というような(ちなみにオイラはオアシスのなにが良いのか未だによくわからないのだ。でもあれほど人気があったのだからスゴイバンドなのだろう)で、この人にビーチボーイズとかバカラックとかハーパースビザールの話をしてもあんまり乗ってこないのだった。で、こちらもケミカルブラザーズの新譜の話聞かされてもあんまりなのだった。ボクはそのままオールディーズの道へ邁進していく。ちょうど90年代の半ばというのはCDのリマスター技術が進んだ時期らしく、60年代のソフトロックやソウルの名盤が次々と再発されていった時期である。その道を走っていると必然的に山下達郎、大滝詠一の両巨頭に出会う。94年にシュガーベイブのリマスター再発、95年には大瀧氏自らの監修、ライナーつきで70年代のナイアガラの諸作品の再発、と親切な時代であった。おかげでボクは人生で「レコードに大枚を払う」という経験をしていない。しかしUK道の彼にはボクの山下達郎話は意味がわからないのであった。曰く「達郎、ユーミンなどバブル世代のBGMであって、むしろ(カメラトークで産湯をつかった)我々の敵ではないか」とのこと。(無論、今は彼も考えが変わっていると思いますよ)しかし「これは言い得て妙で「渋谷系」の気分の実態を言い表しているとも言える。もし、渋谷系がポストパンクの「パンク的な反抗のムーブメントだった」と仮定するなら反抗する敵は「バブル的、ホイチョイ映画的な大手広告代理店主導よるマス的ユーミンさん的音楽、中産階級の大学生のカップルがカーステや苗場スキー場でセックスの前菜として消費するためだけの機能的な音楽」ということになる。そうではない草の根的な純粋に音楽を愛する者の動きなのだ、とでも言うような気分があの時代にはあったのである。ただし、2021年の現在からこの時代を振り返った時、「気分」のムーブメントであったと思う。恐ろしいことに私たちが反抗しようとした「バブル的OLさん的ライフスタイル」とはその感覚を用意したと言われている田中康夫「なんとなく、クリスタル」が提唱したものであり渋谷系の「気分」と同一である、ということである。」
司会者「そしてこの20代の時期に60年代ポップス、ソフトロック道を歩んでいったkenzeeから見た「The Love Parade」とは。タダのロジャニコのパクリなのか。そうでもないのか」
kenzee「それは次回」
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